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立ち止まることもまた勇気

生きづらい人の心の中は複雑です。

心が健やかであれば、自分が触れる出来事に対して、

湧き上がった感情をストレートに感じること、

自由に感じ取ること、に迷いがありません。

もっとも自分の中で感じる段階までが自由なのであって、

表現するかどうかは、また別の問題です。

営業の仕事で商談をしている時に、お客さんが失礼な態度を取り、内心腹が立っても、出来る限り表には出さない訳です。

立ち場や利害や様々な要素を総合的にに判断して、ぐっと堪えることも、社会生活を営む上では幾らでもあります。

でも、心の中は自由なので、腹を立てていることを、後ろめたく思うことも、
怒りを心の奥に押し込めて、見て見ぬふりをすることもありません。

「立ち場を利用して失礼にも程が有る、仕事でなければサッサと席を立つんだが…、ここは我慢だ」

自分の感情は心の中で、しっかりと感じきって、その上で立ち場や利害等の諸条件を勘案して、次に取る言動を決定します。

場合によっては、思わず表情がこわばったり、平静ではいられないことも有るでしょうが、

極力、怒りに呑まれない様に尽くします。

大切な自分と、大切な自分の人生を守る為に、望まない出来事が起こっても最善策を探します。


一方、生きづらさを抱える人の心は複雑です。

この複雑さの主たる原因は、自然に湧き上がる感情を感じる間もなく、心の奥に閉じ込めること、にあります。

自分の感情を、「悪いもの」と思い込んでいるから、感じ尽くす事など出来ません。

湧き上がる感情は半ばオートマチックに心の奥へと運ばれ、閉じ込められます。

つまり、本来自由である筈の心の内側は、全く自由ではないのです。

おそらくは、生まれた時から、湧き上がる自然な感情を否定され続ける幼少期を送らざるを得なかった背景がある、と思われます。

泣きたくて涙が零れそうな時も、親が明るく笑うことを求めている、と察すると、こと更に明るく笑ってみせる様な幼少期を過ごした、ということです。

涙を零したら、責められます。

だから、決して泣かないし、泣きたい気持ちは、親の意向に沿わない「悪いもの」であり、

そんな「悪いもの」を生み出す自分を疑い、嫌いになります。


健やかな人は、感情の動きがストレートです。
湧き上がる感情に、良い悪い、はありません。
自分が触れた出来事によって生まれた感情は、ただ自然なものであり、
表に表すか否かは別にして、あくまでも心の中は自由です。

生きづらい人は、複雑です。
湧き上がる感情を良いか悪いかジャッジします。
悪い、と判断した感情は、心の奥に戻され、閉じ込められます。

湧き上がった感情を心の奥に閉じ込めた後は、かつて親の顔色を伺った様に、周りの雰囲気や場の空気を読んで、自分の態度や、次の言動を決めます。

心の内側に自由は無く、親や周囲の人によって自分の感情が決まってしまうのです。

そんな複雑な処理をしているから、生きるだけで疲れるし、
処理が追いつかず、時にパニックに陥り、怒りに呑まれたり、無気力になったりもします。

私達には起きる出来事をコントロールすることや、
他者の心を制御することは出来ません。

本来、自由であり、コントロール出来る筈の心を、

他者の様子や動向に委ねる、ということは、コントロール出来ない他者に心を明け渡す、ということです。

心は制御不能になってしまいます。


制御不能でも短い期間であれば、なんとか持ち堪えられますが、

人生という長丁場では、
いつか破綻します。
いつか動けなくなってしまいます。


感情がコントロール出来ず、

振り回されている、という自覚があるならば、

一度立ち止まってみるタイミングなのかも知れません。

生きづらさを引きずる、

その重さに気がついたなら、

立ち止まることもまた、

勇気であると、そう思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム



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