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この人から、どう思われているだろう?

他人から、どう思われているのかが全く気にならない人は、そうそういないと思います。

社会生活を営むということは、他者と関わり合う、ということですので、

他人の目を100%意識から排除するには、人里離れた山奥に籠もるか、無人島に渡るか、でもない限り不可能でしょう。

道を歩けば、他人とぶつからない様に歩きますし、

ドアに鍵を掛けて、自分の部屋に引き籠もる生活をしていても、
ドアの外の家族の気配を感じることも有る筈ですし、
窓から外の音も入って来て、他者の存在を意識する瞬間は幾らも有る筈です。

他者を意識すること無く生きることは、ほぼ出来ない訳ですが、

他者を意識するのも程度問題で、

過度に他者の目を意識することに毒されている人が、とても多い様に思います。

自分から見た世界よりも、世界から見た自分、という視点に立って物事を見たり、聞いたり、判断したり、考察したりしている、ということになります。

自分を客観的に見る、とか、
自分を俯瞰して見る、とか、
よく言いますが、

それは、他人の目が過度に気になる状態とは全く違います。

ここを掘り下げると、本論から外れてしまいますので、詳しくはまた別記事にさせて頂くとして、

端的に言うと、自分を客観視したり、俯瞰して見るには、

その人の心の中に、確かな【自分】という意識がなくてはなりません。

一方、他人の目が過度に気になる人は、心の中の【自分】が脆弱です。

本来【自分】が座るべき心の真ん中は、言わば空席、なのです。

空いているから、他者が容易に入り込みます。

入り込む、と言うよりも、その人自身が、他者を招き入れてしまいます。

他人が自分をどう思っているのか、
周囲に自分はどう映っているのか、
気になって、気になって仕方が無い状態は、

他者に心を明け渡した状態です。

【自分】は不在で、心を明け渡しているのですから、落ち着くのも、浮足立つのも、他者次第、他人任せ、です。


私達がコントロール出来るのは、自分の心、だけです。

降りかかる出来事も、他者の心もコントロールすることは出来ません。

ということは、コントロール不能な他者に心を明け渡した状態は、

心は、制御不能で、極めて不安定である、と言えます。

自分が不在なので、何事にも自分なりの判断基準がありません。

自分なりの判断基準を持たないと、周りが良い、という物が良い、という事になります。

結果、同調圧力に弱く、思考停止した人になりがちです。

つまり、【自分】が無いから、判断がつかず、他者の基準に従う、という極めて受動的で依存的な心理状態に陥ります。

たとえば、異性と付き合うにしても、自分が好きな相手では無く、自分を好きになってくれる異性と付き合います。

心のこと、には、難解な部分が多く有ります。

受動的で依存的で、同調圧力に弱く、思考停止した特徴が見て取れる人もいれば、

反動形成で、過ぎた能動性、協調性の欠如、無軌道な生き方、などの特徴が現れる人もいます。

受動性として現れるか、
能動性を模して表出するか、の違いはあれど、根は【自分】が無い、ということに尽きる、と言えます。


【自分】があるか、否か、という事と、
生きづらいか、否か、という事は、

イコールで結んでも差し支えないと思っています。

生きづらさを手放す行程は、

そのまま、

【自分】を育て直す、という事です。

【自分】があるからこそ、

人生は味わい深く、愛おしく、

かけがえの無いものになる、

そう、思うのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム








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