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満足の基準、満ち足りる力

アカウミガメは一度の産卵で少なくても、100個以上の卵を産み落とすそうです。

多くの卵を産むのは、種を保存する為です。

種として絶えることが無い様に、沢山の卵を産む訳です。

それでも、アカウミガメが成体になる確率は5000分の1だといいます。

大半は天敵に捕食されてしまうのです。

アカウミガメに限った話しでは無く、生態系の下層に位置する生物は、特殊な要件が無い限り、沢山子供を産みます。

言ってみれば、繁殖出来る程に成長出来ない個体が大半であることは、織り込み済みの数値設定です。

そこには、この世に生を受けた生命に、平等性は無いのです。

アカウミガメの5000分の4999は、成体になる前に、どこかで生命を落とします。

ある個体は運が味方しなければ、卵のまま腹を空かせた天敵に喰われ、ある個体は生き延びる力が乏しい幼体のうちに捕食されます。

5000分の1の確率を生き抜いたアカウミガメだけが成体となり、繁殖し、中には100年も生きる訳です。

卵のまま喰われる者も在れば、100年生きる者もいます。

そこでは、個々の事情は関係なく、平等性はありません。


平等なんて無い、と言いたいのではありません。

また、ヒトとアカウミガメを一括りにしたい訳でもありません。

大自然の摂理は、そうなっている、という前提をお話ししました。


ヒトは自然の摂理に組み込むには、違った方向に進み過ぎた存在、だと思うのです。

地球上で栄華を極める代わりに、
自然の摂理から、はみ出し、
大いなる何か、から離れ、
神から最も遠い場所に居る存在になった、様に思います。

その根拠は多岐に渡りますが、他の生物と比べるまでも無く、考える力が強大であるが故に、感じることが疎かになり易い特性をヒトは身につけてしまった様です。

そのことが、ヒトの生き物としてのピュアな在り方を、抑え込むことになっている様に思います。

ヒト以外の生き物で、他と比べてばかりいる生き物は存在しません。

自分が置かれている状況を打破しよう、とすることはあっても、憂いて、他を羨む生き物はいないのです。

ヒトは、とかく他者と比べ、他者を羨みます。

もはや、自分の中に満足の基準は無く、他者との対比によってしか満足を得られない生き物になった、と言っても過言では無い、と感じます。

本来、満足は自分の中にある基準によってもたらされるべきもの、です。

うちの愛犬のタローが、隣で飼われているポチの食事が豪勢だからと羨むことはありません。

それは、タローの満足の基準はタローの中にあり、ポチとの対比に基準を置いていないから、です。

タローは出された食事が美味しければ満足しますし、お腹が満たされれば満足します。

ポチよりも美味しい物が食べたいとか、ポチよりも沢山食べたいとか、思いません。

他と比べることに満足の基準を置くのは、ヒトだけです。

満足の基準が他者にある、ということは、満足するか否かは他者次第、ということになります。

満足したか、しないか、ということは、自分の感情であり、絶対的なものなのに、
基準を外に置いた途端、他者と比べてどうなのか、という相対的なものに様変わりしてしまいます。 

先に触れた様に、自然の摂理に平等という概念は馴染み難く、

それでも、平等を求めるならば、基準を自分の感情に戻すことで、満足を心の中の絶対的なもの、と捉えることが必要な気がします。


『足るを知る』という言葉があります。

様々な解釈があり、人それぞれの置かれた状況や、心境によって、

見る角度、捉え方によって、

色んな学びを与えてくれる言葉だと思っています。

この記事を書いている今、『足るを知る』に照らすなら、

満足は自分の心の中にこそあり、決して他者にその基準を委ねてはならない。
基準を他者の在り方に探す時、満足からは離れ、
基準を自分の心に探すなら、妬みや誹りからすら解き放たれ、真に言う、満足、に至る。

といったことになるか、と思います。

満足の基準を他者に置いたまま、平等という難しい問題を浅く捉えると、

だいぶん前に物議を醸した、運動会の徒競走で、ゴールの直前、全員が走るのを止め、手を繋ぎ、皆一緒にゴールテープを切る、といった様な勘違いが起きるのだと思います。


私達の幸せを考えるとき、満足の基準を何処に置くのか、が、とても大切だと考えます。

感じることが疎かになり、
考えることばかりに偏ったとき、

満ち足りる力は著しく弱くなります。

軽やかに活き活きと人生を歩むために、

満足の基準が何処にあるか、

気がけてみて欲しく思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム














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