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心の幼さはコツコツと積み上げることを嫌う

心が幼いと、積み上げること、が出来ません。

コツコツと地道にひとつの物事に取り組むことがひどく苦手です。

心が幼い、ということは、心の中に確かな【自分】という意識、が育っていない、ということです。

確かな【自分】という意識は、心の核、です。

コツコツと積み上げる、経験、は心の核である【自分】の上に積み上がるのです。

【自分】が育っていないと、経験が積み上がる場所がありません。

【自分】が育っていれば、コツコツと積み上がる経験が、【自分】を育ててくれる喜びを感じます。

勿論、【自分】が育っていても、いなくても、
誰しも、根気のいる積み上げ作業には、億劫さを覚えます。

運動部員なら、筋力トレーニングをやるより、試合形式の練習の方が楽しい訳です。

しかし、心の中に【自分】が育っていれば、億劫さ、の中にも、積み上げる喜び、があります。

そのスポーツに欠くことの出来ない筋力を手に入れる為に、地道に取り組む中に、喜びを見つけます。

喜びがあるから、コツコツと積み上げることが出来ます。

身体に筋力がつくと同時に、心には経験が積みがり、【自分】は逞しさを増します。

つまり、自信、がつくのです。


心が幼いと、経験が積み上がる筈の【自分】が育っていないのですから、コツコツと積み上げる作業は、億劫なばかりで、喜び、を見出すことが難しく、自信を手に入れることが難しいのです。

心の中の【自分】は、幼い頃、親から肯定的に受け入れられる環境の中で育まれます。

【自分】が育っていない人の親子関係には、幼い子供に必要な、受け入れ、は無く、
否定され拒絶される中で、心も、心の中の【自分】も成長の歩みを止めてしまったのです。

身体が成長しても、心は幼いままです。

否定され、拒絶される環境で育った為、本来なら、肯定的に受け入れられることで、解消される筈の、甘えの願望は何ひとつ解消されること無く、心の中に燻ります。

幼児期の甘えの願望を、幼児的願望と言います。

部活をする年齢になっても、未消化の幼児的願望は燻ったままなので、幼児の様に甘えたいし、注目されたいし、我が儘を聴き入れて欲しいのです。

【自分】が育っていない、がらんどうな心は、未消化の幼児的願望でいっぱいです。

落ち着いて、筋力トレーニングなどという、地味な努力を重ねることは、苦痛でしか無く、試合で派手に活躍して注目を浴びたいのです。

そして、否定的な親子関係は、自己評価を著しく低下させます。
否定や拒否にまみれて育つのですから、自分には価値が無い、という思い込みを抱えてしまうことは、分かり易いのではないか、と思います。

自己評価は著しく低い、つまり自分を、無価値、だと思い込んでいます。

数あるネガティブな感情の中でも、最も認めたく無いのが、無価値感、です。

だから、極めて低い自己評価を上げる為に、周りからの賞賛を常に求めます。

地味なトレーニングを積み上げることが、遠回りに思えてしまいます。


心が幼いと、積み上げることが出来ません。

その心理を分解すると、ここに挙げた、

・【自分】が育っていないこと、

・未消化の幼児的願望に衝き動かされていること、

・無価値感に苛まれていること

が、主な要因と考えます。

そして、コツコツと積み上げることを嫌います。


生きづらさに長く苦しみ、
やっと、生きづらさに気がつき、
手放そうと願うに至っても、

積み上げることを回避してしまいます。

生きづらさを手放す人が、積み上げるものは、自己洞察、です。

自分と向き合い、心の傷を見据えます。

今まで、目を逸らして来た、心の傷を負うに至った経緯を、ひとつひとつめくって行きます。

辿ります。

過去に拘ったり、囚われたりする為ではありません。

拘りや、囚われから解放される為に、腑に落とす、のです。


生きづらい人は、自分にまつわる全てのことが腑に落ちていません。

親から人並み以上に愛されて育ったと思っていますが、そう思った瞬間、胸をチクッと内側から刺す微かな痛みを感じます。
愛された、と言い張りながら、疑念があります。
自分の成り立ち、生い立ちが腑に落ちていません。

他人から褒められたら、自分はとても優れている様に感じます。
居丈高な態度になります。
他人から批難されたら、自分が酷く劣った存在に感じられます。
他人の自分に対する評価が、自分の価値に直結していて、自分は優れているのか、劣っているのか、さっぱり分かりません。
自分の存在自体が腑に落ちていません。


自分の成り立ちも、自分という存在も、腑に落ちていないのですから、言ってみれば、自分がどういう人物なのか、という自己像がありません。

心の中に、確かな【自分】という意識が育っていない、のです。

【自分】は心の核です。
湧き上がる感情は【自分】が感じ取りますし、
経験は【自分】の上に積み上がります。

だから、生きづらさを手放すなら、コツコツと自己洞察を積み上げます。

過去の心の傷を探すのは、自分の成り立ちを付に落とすためです。

自己洞察を重ねるのは、自分の存在を付に落とすためです。

生きづらさを手放すことは、

【自分】を育て直す、と言い替えることが出来ます。

心の中の【自分】は、成長することが出来ず、小さく固く縮こまっていますが、失くなってしまった訳ではありません。

自分と向き合い、
自分の成り立ちや、自分の存在が腑に落ちたなら、【自分】は必ず逞しく成長します。

生きづらさを手放そうと決意した段階では、

述べた様に、コツコツと積み上げることが苦手です。

しかも、自己洞察を重ねるということは、見たくない心の傷をしっかりと見据える、ということです。

これまで、腑に落ちていないのに、平気なフリをして、回避してきたことに、対峙するのですから、

二の足を踏むのも当然ですが、

向き合う最初の決断さえ出来たなら、

気づきへと進むことは、

思うより容易です。

自転車は最初のひと漕ぎが一番重いですが、

漕ぎ出してしまえば、

ペダルはどんどん軽くなります。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム








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