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生きづらい人に、周りの人が出来ること

今、生きづらさを抱えている人は、幼い頃、本当の感情を徹底的に隠さなければならなかった人です。

親の顔色を伺って、涙を零したら責められる、と察知するや、明るく笑ってみせた子でした。

来る日も来る日も、そうやって本当の感情を無視し続けるうちに、その子は親の感情を察知することは出来ても、自分の感情が分からない子になります。

湧き上がる感情を感じ取ることが出来ないと、心の中に【自分】が育ちません。

【自分】の外郭線が、自分と他人を分ける感情の境界線、ですから、

【自分】が無ければ、境界線も曖昧です。

【自分】が無く、境界線が曖昧で、生きる実感も、意欲も無く、苦しくてたまらないのに、平気な顔をして生きている自分が、大嫌いになります。

心は一人ひとり違いますので、生きづらい人が全員そうだ、ということは言えませんが、

大括りに言えば、
【自分】が無いこと、
感情の境界線が曖昧なこと、
そして、自分を嫌っていること、
それらが、生きづらさ、の正体だと思っています。


生きづらい人は、生まれた時から、自分の感情を捨てなくてはならない環境で育ちますから、

漠然と抱える苦しさが、生きづらさ、だと気がつくことが先ず、簡単ではありません。

それでも気がつく人は沢山います。

気がついたなら、ほとんどの人が、生きづらさを手放したい、と願います。

その時に、生きづらさを手放そうとする人の、周りの人はどうすれば良いのでしょうか。

結論から言うと、信じて待つこと、です。

何故なら、
生きづらさに気がつくのも、
自分と向き合うのも、
生きづらさを手放すのも、
生きづらいその人だからです。

時折、周囲の人が、導くとか、救うとか、表現するのを目に耳にすることがあります。

苦しんでいる人を、何とかしたいのは、分かりますが、

先に述べた様に、生きづらさからの解放は、生きづらいその人にしか出来ません。

苦しむその人の、ごく親しい人であっても、配偶者、恋人、友人、或いは、医者やカウンセラーであっても、救うことも、導くことも出来ません。

出来ることは、苦しむその人が歩む道の上に、気づきのきっかけ、になるかも知れない石を置くこと、だと思っています。

置かれた石に気づくことが出来るのも、拾い上げることが出来るのも、その道を歩むその人だけ、です。

生きづらさを手放すことは、【自分】を育て直す、と言い換えることも出来ます。

愛情溢れる健やかな環境に育った人ならば、親が寄り添い【自分】を育てる手助けをすることでしょう。

しかし、今生きづらいその人は、無条件に受け容れてくれる人は、ありません。

その意味では、健やかな環境に育った人は、優しさに包まれる中で【自分】を育てますが、
今生きづらい人は、厳しさに対峙することで、【自分】を獲得する、と言えるかも知れません。


「救う、だなんて偉そうなことは考えていない、ただ苦しむその人に寄り添ってあげたいだけ」
と、思う人も多いと思います。

しかし、その人が【自分】を育て上げるまで、寄り添い続けることが出来るでしょうか?

その人の愛情溢れる親、になれるでしょうか?

【自分】を育て直す道中は、様々なことが起こります。

長く蓋をされていた感情が堰を切った様に溢れ出します。
吐き出しの期間は必要です。
それは言わば、育て直しに於ける反抗期です。
寄り添うならば、全部受け止めます。

吐き出しが終われば、受け止めてくれた、寄り添う人、を理想化します。

この人なら受け止めてくれる、と信じます。

信じますが、生きづらい人は信じられる人の中で育っておらず、信じることが不安です。
不安だから、疑い、試します。

試すのは、信じたいのが半分、ほらやっぱり見捨てるじゃないか、と思いたいのが後の半分、です。

試して、信じたのに見捨てた、という結果が出たら、こき下ろしの時期に入ります。

吐き出し、理想化、こき下ろし、の繰り返しは、その人がネガティブな世界に飽きるまで続きます。

【自分】が無いから不確かさを埋めようと、受け容れの姿勢を取った人にしがみつきます。

境界線が曖昧だから、少しでも受け容れが足りないと、どうして分かってくれないんだ、と相手を責めます。

自分が嫌いだから、こんなに自分はダメなヤツ、こんなに自分は嫌なヤツ、とことさらに、相手から嫌われる様なことをします。

ネガティブな情動に衝き動かされていることを、本人は認識しません。

それを、寄り添うならば、全て受け容れます。

生きづらさを手放す時に、寄り添うとは、愛情豊かな親になる、ということです。


健やかな環境に育って、心の中に【自分】が育っていて、しかし現在大きな悩みを抱えている人が、精神的に弱っている時、寄り添うということと、

生きづらさを手放そうとしている人に寄り添うことは、全く違うことだと考えます。

かける優しい言葉に嘘は無くても、

生きづらさを手放すステージに立つ人に、ネガティブなままでいいよ、と促すことになることも、

理想化の後のこき下ろしを拒絶して、苦しみを深化させることも、多くあります。

寄り添うつもりで共倒れになっても、生きづらい人の心の傷を深化させても、誰も幸せにはなりません。


心理的虐待を例に取れば、過保護、過干渉は、親が、信じる、ということを知らない為、先回りして子供から成長の機会をことごとく奪いますが、

心の中の【自分】を育て直すとき、可哀想、だけで投げる、優しさ、は、育て直そうとしている人から、自分と向き合う機会を奪っている場合が少なく無いと思っています。


生きづらさを手放そうとしている人を、周りやカウンセラーに救える力など無く、

出来るのは、生きづらさを手放そうとしている人の歩む道の上に、

気づきのきっかけとなる石を、

置くことだけ、だと考えます。

その人が、見つけ易い様に、
その人が、拾い易い様に、

そっと、です。

気づきのきっかけの石を、その人が歩む道にそっと置いたなら、

その人が拾い上げることを信じて待ちます。

待たずに優し気な言葉を投げるのは、かつてその人の親が、信じることを知らず、先回りしてその人の成長の機会を奪ったのと同じです。

優しい言葉をかけるなら、その人の全てを受け入れ、親になる覚悟が必要です。

待つなら、その人を信じることが必要です。

生きづらさを手放す時は、

その人が気づき、

その人が向き合い、

その人が決断します。

その人を救えるのは、

苦しみを踏み越えて生き抜いた、

本当は強い、その人だけ、なのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム



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