たとえ読まなくても、その内容については知っておかないといけない 〜 鴻上尚史「「空気」を読んでも従わない」

鴻上尚史の新刊「「空気」を読んでも従わない」(岩波ジュニア新書)

読まなくても日本に生きているならば、その内容については知っておかないといけない本である。

鴻上尚史氏は、最近は切れ味のよい人生相談に定評がある。

人生相談といえば、橋本治「青空人生相談所」(1987年)を思い出す。鴻上が人生相談をするとき橋本を意識しているかは知らないが、彼を知らないことはありえないだろう。「青空人生相談所」が対象とした80年代の相談者ではなく、SNS時代の若い世代に対して、同じベクトルで仕事をしているようにも思える。

鴻上の新著「「空気」を読んでも従わない」は、日本の「世間」とはどのようなものか、「世間」とどのように戦ったり折り合ったりしてゆくと良いのか、そのやりかたについて教えてくれる。

「世間」について論じたのはもちろん鴻上が初めてではなく、阿部謹也の仕事などがある。本書の親本「「空気」と「世間」」(講談社現代新書)には、阿部の仕事についても言及されている(入手した。これから読んでみる)。

しかし本書は岩波ジュニア新書というフォーマットでもあり、学問的な裏付けなどはおいて、今の若い世代が読んで確実に「役に立つ」ように、平易かつ実生活につながる実例をひいて「世間」を対象化しようとしているようだ。

たとえば面白く感じたのは、20章「強力な「世間」との戦い方」。

ジャイアンのような暴力的な先輩に支配されそうになったときにどうするか、という一節。

ジャイアンのような暴力的な人物の場合は、「世間」のルール、「贈り物が大切」を使います。/(中略)無理なことを要求されたら、代わりに「贈り物」をすることで、なんとか切り抜けるのです。/そして、その間に、ジャイアンも黙るしかない年上の先輩に頼りましょう。(p.138)

「贈り物をして、その間にさらに上の先輩に調停を求める」というやりかたは、まるでトランプに対する安倍首相の態度ままである(残念ながら安倍首相は「なんとか切り抜けて」そこから先の交渉力がないのだが・・・。ひょっとすると、日本の外交の歯がゆいところは、日本流の「世間」が世界規模で存在するとカン違いしてしまっているところなのではないだろうか)。

また、日本の時代劇や大衆小説では非常に良く出てくるパターンでもある。下々のものは自分たちで悪い支配者を審判するのではなく、より高位の権威によって「正しいお裁き」が下されるのを待つというパターン。これも「世間」の論理に則っているのだろう。

有名なところでは水戸黄門もそうだが、先日観た「一心太助 男の中の男一匹」(沢島忠 監督、1959年)もそうだった。悪徳奉行が魚河岸の利権を私物化するため、魚河岸の取締役松前屋を陥れて処刑しようとする。それまでは、魚河岸のうしろだてとして、太助の親代わりの大久保彦左衛門が悪徳奉行を押さえ込んでいたが、大久保が亡くなってしまったので、太助たちはなすすべもない。しかし偶然見つけた手がかりを松平伊豆守に渡すことで、奉行を成敗してもらう。

橋本治は当然そういうことをよく分かっていた。「青空人生相談所」には、中年夫婦がヤクザに強請られそうになった時の相談が紹介されている。引っ越してきた土地でヤクザらしいメンツが来て、挨拶をしろと暗にほのめかされるが、どうしたら良いか分からない、というものである。橋本の回答は、その土地の有力議員に相談しろというものであった。より上の筋にすがって事なかれを得るほうが、正面きってヤクザと戦うよりもスムーズに運ぶ。

こういった処世術というか世間知としてのアドバイスは、橋本治とともに名前を挙げられていたその他の80年代ニューアカ論客には皆無であり、その点、自分は感心したものだった。

橋本治は経験的に「身体で」そういった世間知を得ていたが、阿部謹也は(氏の個人的経験から出発している面はあるとはいえ)ヨーロッパという「対岸」の社会を研究することで、最終的には日本の「世間」を反照しようとしていた。晩年に浅羽通明と交流していたのも、その流れであった。浅羽氏も、自らが体験的に感じた生きにくさに向き合うための道具として、社会学や民俗学などを学んできたという意味のことを述べている。

しかしながら、今の若い世代は、彼らのように本を読んで考えるところまでゆく余裕が、おそらくない。なおかつ「世間」そのものの変質もあるだろう。「世間」に生きにくさを感じている人たちは、昭和末期は少数派とみなされていたが、現在ではむしろ多数派になっているのではないか。「世間」を支える土台そのものから、昭和末期と比較して、大きく変質・崩壊しつつある。

そのような状況で鴻上尚史は、ペダンティックな要素を排して、若い世代が読んで役に立つ「戦略」として本書を出している。

これは率直に有効な方法だ。考える人はそれを起点にして考えることができる。考える余裕のない場合でも、生き延びる術が得られる。

この記事が参加している募集

推薦図書