見出し画像

追い詰められた感情を、海にそっと流して

 「お父さんの飲むエンシェアが無いの!病院に行って買って来てくれない!!」母からそう言われたのは、火曜日の夕方6時だった。エンシェアとは、病院の処方箋で出る栄養補助食品の飲み物。6時から病院は間に合わないので、薬局に売ってあるクリミールという栄養補助食品の飲み物を、とりあえず買って行った。

 母が言うには、エンシェアは日曜日から切れていて、父親は力が出ず昨日からぐったりしてたらしい。早く教えてくれたら良いのに。次の休みの金曜日に病院へ行った。今までエンシェアを1日1缶飲んでいたけど、最近2缶飲んで無くなってしまった事を医師に伝えた。他の飲み薬はまだ残っていたので、それに合わせた数を処方してもらい実家へ行った。



 「長生きするもんじゃなかなか。早くお迎えが来るように祈ってるのに来てくれん。うちが早く死ねばお父さんも楽になるとに」と、うなだれる母。父は電子タバコも切れていて不機嫌だったらしく、ベッドの中で寝てばかりいた。ケアマネはヘルパーからの情報で近況を知ったのだろう、入居を強く勧めるメールを私に送ってきた。その事を父に聞いてみたら「母ちゃんと一緒の施設なら入居してもよか」と、初めて言った。

 その日、たまたまケアマネから『近所にいるから寄ってみます』と連絡があった。早速入居の話しが出た事を伝えたが、父は要介護1なので入居は難しいと言われた。要介護3の母だけなら早くに見つかるとも。急ぎはしないので、空きが在れば母が長めのショートステイで、父は数日のショートステイを利用したい、と伝えた。

 そして今日、朝から実家へ行った。想像に反して母は穏やかだった。父の体力が回復した事と、近所の方が家に訪問してくれたおかげだろう。自分より元気だった方が認知症になられた話しや、101歳で亡くなられたおばあちゃんの話しなど近所の方の近況を聞いて、自分達の状況を悲観しすぎなくて良いと思ったんだろうか?



 ここ数日、私は母の感情に引きずられ、暗い水の中にいるようだった。いくら泳いでも海上に出れない薄暗い海の中。いや、そこは海ではなく、池でもなく、ちょっと揺らすと水が溢れて出るような、小さな洗面器の中。母は容赦なく感情のままに洗面器を揺らす。私は溢れながら、早くここを抜け出して、広くて穏やかな海に出たいと願っていた。

 母の感情の波が、ジェットコースターの様に激しいのは昔から。娘には、遠慮なく感情をぶつけて当たり前だと、信じて疑わないのだろう。気温の寒暖差が身体を疲れさせるように、起伏の激しい感情をぶつけられると、徐々に心が壊れてしまう。雨の日は傘をさし、肌寒い時は薄手のコートを着る様に、憂鬱な時は甘いものを食べ、行きたい場所(実家ではない)に行けば良い。自分の心の健康は自分で保つしかないのだ。



 実家を出た後、ふらりとバスに乗り込んだ。30分後、バスを降り路地に入ると3メートル幅の小川が流れていた。小さな沢蟹が川岸を歩いていて、うっすらと潮の香りが漂ってきた。5分程歩くと、海が見える公園にたどり着いた。クローバーが敷き詰められた公園の隣には、自転車やスケートボードに乗れる広場があった。海に面した歩道は、石の階段で海に降りられるようになっていて、漁船らしき舟が何艘も浮いていた。

 公園のベンチに座り、ポケットから塩レモンの飴を取り出し口に入れた。陽射しはまだまだ高く、時計台がリンゴンと3時の鐘を鳴らした。公園の遊具で遊ぶ幼児の歓声が聞こえ、若いお母さんがその姿を見守っていた。潮風が鼻腔をくすぐり、のんびりとした時間が流れていた。ぼーっとできる場所、誰も知らない場所が、なんだかとても心地よかった。

 

画像1


 ぽつりぽつりと、雨粒が落ちてきた。雨は黄緑のギンガムチェックのシャツから伸びる腕を濡らし、紺色のスカートに水玉模様を描いた。雨宿りをしようと、近くの喫茶店に入った。芳ばしい香りを放つエスプレッソと、こんがり焼けたチーズケーキを頼んだ。椅子に深く座り、ムーミン柄の白いトートバックから、本を一冊取り出した。窓の向こうには海が見えた。

 穏やかな海。海面に広がる雨粒の模様は、優しく弧を描くのだろう。私の溢れ出しそうな洗面器の水をそっと流しても、びくともしないのだろう。



 海と本とコーヒーと、知らない場所で自分になれる時間があれば、それでいい、そんな気がした。


画像2





この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?