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続・札幌でサッポロ一番を食べる ~彼女と過ごした奇跡の三日間

一日目

 こうして僕はまた北海道に帰ってきた。勿論また札幌でサッポロ一番を食べるためだ。五月のゴールデンウィークに二泊三日の予定で北海道にやってきた僕。新千歳空港についた僕はサッポロ一番のみそ味五個セットのパックを入れたスーツケースを引きながら観光客で賑わう土産物屋コーナーを覗いた。相変わらずここにはサッポロ一番の麺かすすらなかった。僕はこの現実にがっかりしてため息をついた。どうしてこれほどうまいサッポロ一番を北海道の人は食べられていないのだろう。あの北の大地を思わせる奇跡の味はまさに北海道の味なのに。

 だがそれは決して北海道だけの問題ではなかった。僕の勤める東京のオフィスでもそうなのだ。僕は前回の旅行の時も同僚に札幌でサッポロ一番を食べに行ってくると行った。したら同僚は怪訝な顔でしばらく僕を見てからいきなり笑いだしてお前風俗に行くんだろうと言い放った。僕が札幌から東京に帰ってきて札幌で食べたサッポロ一番のみそ味がどれほど美味しいか語った時も同僚はせせら笑いながら嘘をつけ、お前そうやってごまかすんだ。本当は風俗に言ったんだろ?とか抜かしたのだ。全く信じられないものである。僕がどれほど札幌で食べるサッポロ一番のみそ味がどれほど美味しいか語っても彼らはまともに聞きはしないのだ。僕は当然今回も同僚に札幌でサッポロ一番を食べてくると言った。やっとコロナから解放されたんだしいかない理由はない。だが同僚は意味深な目でこちらを見ながら「お前も好きだねえ」とか言うのであった。

 ああ!なんという無理解!誰もが僕のサッポロ一番に対する真の愛情を理解してくれない。僕はサッポロ一番と共に生きて来た。母が買ってくれたオレンジの袋から漂ってきた麺の香り、そして北海道を夢見させてくれる濃厚な味噌のスープ。僕は初めて食べた時思わず泣いてしまったほどだ。それから僕はサッポロ一番と付き合ってきた。もう熟年夫婦そのものと言っていいぐらいの付き合いだ。北海道の人間がサッポロ一番を全く食べない事は前回の札幌旅行でいやというほど思い知らされた。僕をサッポロ一番野郎と嘲笑ったススキノのラーメン屋の連中。僕のサッポロ一番を連れ去った風俗街の店員らしき奴。そいつが攫ったサッポロ一番はきっと誰にも食べられずそのままゴミ箱にでも捨てられたに違いない。なぜなら北海道の人間はサッポロ一番を食するという習慣がないからだ。だがいいさ。僕は別にみんなにサッポロ一番の魅力をわかってもらおうと思わない。僕はただ札幌でサッポロ一番を食べたいだけなんだから。

 人は最初に食べたものが一番うまいと思い込むという。次に同じものを食べてもきっと最初に食べた時ほど感動はしないだろうともいう。だから今回札幌でサッポロ一番を食べても感動はしないんじゃないか。どこで食べようがサッポロ一番は所詮サッポロ一番ただの袋入りの即席めんに過ぎないんじゃないか。そんな考えは当然僕も持っているし、今回の旅行のそれで行くか行くまいか悩んだのだ。だが僕は行くことに決めた。僕はやっぱりあの時草原でサッポロ一番のみそ味を食べた感動は思い込みなんかじゃない。真実のものだったと思うのだ。今僕は札幌行きのバス停へと向かっている。スーツケースには当然五個入りの袋のサッポロ一番とガスコンロが入っている。野菜とかは札幌で買うつもりだ。じゃがいもとバターとキャベツをごっそり買って例の草原でたらふくサッポロ一番のみそ味を頬張ってやる。僕は札幌行きのバスに乗るためにバスターミナルへと向かった。空港を出た僕を五月の陽光が眩しい光で歓迎してくれた。只今北海道!二年ぶりにサッポロ一番と一緒に帰って来たよ!

 今回は絶対札幌までの道中をずっと寝まいと決めていたが、それでもやっぱり寝てしまった。これはやはり札幌の母のような温もり的なものなのだろうか。札幌の駅で僕はバスの運転手に叩き起こされた。ハッとして目を開けて周りを見渡したが、もう他の乗客は降りている。僕はスーツケースのサッポロ一番の味噌に大事はないかと慌ててすぐさまスーツケースを取りに外へと向かった。僕は運転手からスーツケースを渡されると早速開けて中に入っていた五個入りパックのサッポロ一番のみそ味を抱きしめて「ずっと一人にしてごめんね。僕たちやっと札幌に帰ってこられたんだよ」と声をかけた。だが北海道人であり、おそらくサッポロ一番を生まれてから一度も食べたこともないだろう運転手は心の故郷に帰ってきた僕たちに向かって「さっさと行けよ!こっちは次のお客さん乗せる準備があるんだよ!」と怒鳴りつけてシッシと手を振って追い払ったのだった。

 真昼の札幌は日が燦燦と照っていた。東京に比べれば少し涼しいがそれでも少し日が強いような気がする。僕はサッポロ一番のみそ味をスーツケースにしまって繁華街へと向かった。勿論明日あの草原でサッポロ一番を作るためのガス缶と野菜類を買うためだ。

 ゴールデンウィーク中の札幌の街並みは人並みでごった返していた。その光景はありふれた地方都市そのもので、サッポロ一番のみそ味が垣間見させてくれたあの心も体も暖めてくれるような札幌の姿はどこにもない。勿論今の僕はサッポロ一番が見せてくれたものは幻想に過ぎない事を知っている。あれはよそ者が札幌を美化しただけの代物。札幌人はマルちゃんラーメンか日清のラーメン屋さんしか食べないというのは正真正銘の事実だ。実際僕は一昨年それを身をもって味わった。だがそれでもこうして札幌に来てサッポロ一番を食べようなんて人に酔狂ともいわれるような計画を立てたのはやっぱりここには理想があるからだ。みんなサッポロ一番を食べながら心の札幌を求めている。雪が降る中モンペを着て雪降る街を闊歩する子供達。子供たちは家に帰ったら母が作ってくれたサッポロ一番のみそ味を食べる。ああ!そんな理想郷を求める僕たちすべての日本人の想いを感じるのだ。いやせっかくサッポロ一番を食べにここに来たのだからもう愚痴ったりするのはやめよう。僕が今すべきことは愚痴ることじゃなくて明日草原でサッポロ一番を作るために材料を買うことだ。

 人波をかき分けてどうにかデパートに入れた。僕はまずキャベツとじゃがいもとバターを買うために地下へと降りた。しかし地下に降りた途端僕はやっぱりサッポロ一番が売られていないか気になってしまい、野菜売り場をすり抜けて即席麵売り場へと向かってしまったのである。僕はそこでサッポロ一番があるか見たが、残念ながらラーメン売り場にはサッポロ一番の麺のカスさえなかった。売り場には僕の知らないご当地ラーメンの袋がずらりと並んでおり、その手前に『本物の札幌ラーメンをご家庭で!』とでっかく書かれたポップが立てられていた。何が本物の札幌ラーメンか!本物の札幌ラーメンはサッポロ一番しかないではないか。僕は頭に来てこのポップを引き抜いてやろうかと思った。だがいつの間にか来ていた店員が僕に失礼しますとか言って来たので僕はハッとして思いとどまった。店員は僕を押しのけるかのように割って入って袋麺の陳列を始めた。その最中店員は何度もうざそうに僕を見た。ああ!そうかい!株主総会!六月は株主総会!僕は明らかに自分が邪魔だと思われているのに腹が立った。だが店員に文句を言ってもしょうがない。僕はなんだか自分がサッポロ一番になったような気がした。この札幌では僕やサッポロ一番はいるだけで邪魔なのだ。 

 その後僕はまるで逃げるように即席麺売り場を去り、キャベツとじゃがいもとバターと、二階の家庭用品売り場でガス缶を買ってさっさとデパートを出てサッポロ公園のベンチに座った。多分あの即席麺の陳列をしていた店員にサッポロ一番があるか尋ねたらバカにしたような顔をしてありませんけどねぇ〜。なんて答えるに違いない。何故ならこの北海道でサッポロ一番を食べる人間など村八分だからだ。爪弾きにされた者に待っているのは孤独である。僕は一昨年それをいやというほど味わされた。ああ!また嫌な事を思い出してきた。もう忘れよう。ここで僕が孤独であるのは自明なことであるのだから。僕にはサッポロ一番しかいない。だけどそれで十分だ。

 ホテルにチェックインして買って来た野菜を部屋の冷蔵庫に入れた途端睡魔が襲ってきてそのまま寝てしまった。疲れがたまっていたとはいえ、まさか二度も寝るとは思わなかった。札幌には人を寝させる力でも働いているのだろうか。目覚めたらすでに夜だった。僕は起きると窓を開けて夜の札幌の夜景を見た。こんなありふれた地方都市の夜景なんぞ見ても何も感じぬと言いたいとこだが、なぜかこの夜景に見入ってしまった。そうなのだ。ただの地方都市だとしてもここはサッポロ一番の心の故郷である札幌なのだ。あの麺とスープの濃厚な味のインスピレーションはこの町から出たものなのだ。僕はスーツケースからサッポロ一番を取り出して夜景を見せた。どうたい?ふるさとの景色は。一昨年も同じように僕らはこうして札幌の夜景を見たよね。ああ!サッポロ一番とみる夜景は他の女性と一緒に見る夜景とは全然違う。だがそれは当たり前なんだ。僕らは生まれてからずっとこうして寄り添ってきたんだから。僕とサッポロ一番は多分死ぬまで一緒にいるだろう。いや、世界の終わりまでこうして一緒にいるだろう。

 そうして札幌の夜景を見ていたら、ふとサッポロ一番を連れて街を歩きたくなった。サッポロ一番を外に連れ出して街の空気に触れさせてあげたい。そんな思いが頭をもたげてきた。ならば外に出るしかない。僕はそう決めると早速サッポロ一番を抱きしめて部屋を出た。外に出て僕らは札幌の繁華街を歩き回った。繁華街はコロナがあったにもかかわらず一昨年とさほど変わらないように見えた。やはり東京と同じように北海道もまたあのコロナを乗り越えてきたのだろうか。だがよく見ると微妙に風景は変わっていた。派手なライトが目についたあの店はいつの間にかシャッターが降りていたし、地味な蕎麦屋は餃子のチェーン店に変わっていた。やはりコロナのせいであろうか。それとも時の流れか。変わらぬものなど何もないと人は言う。確かにそうだ。人が老いるように、果物が腐るように、鉄が錆びるように、変わらぬものなど何もない。だが、たった一つだけ変わらぬものがある。それは思い出だ。僕にとってそれはサッポロ一番と共に歩んできた日々だ。今まで僕に食べられてくれた沢山のサッポロ一番達。僕はみんなを一生忘れはしない。今胸に抱いているサッポロ一番ももうすぐ僕の思い出に追加されてゆく。そんな思いに耽りながら町中を歩いていたらいつの間にかラーメン横丁の前に立っていた。僕はラーメン横丁の看板を見てふと一昨年のあのクズの塊みたいなラーメン屋を思い出した。

 あのラーメン屋を思い出していたら不愉快な気分になってきたのですぐに引き返そうとした。が、どこかからふんわりと漂ってきた味噌の濃厚な香りに足を止めさせられてしまった。しかも匂いに釣られていつの間にか店の前まで来てしまっていた。だがここで僕はハッとして我に帰った。たしかこのあたりは一昨年来たことがある。あのクズの塊のラーメン屋がある場所ではないか。まさかこの店はあの店と同じなのか。しかし店の名前は記憶と全く違っていた。僕はこれを見てホッとした。そうかあの店は潰れてしまったのだ。コロナか、いやあの店はコロナとは関係なく潰れて当然だ。僕のサッポロ一番をバカにし、あろう事に僕が置き忘れたサッポロ一番を風俗店の店員にあげるような店なのだから。店のドアについていた張り紙には開店一周年と書かれていた。やはりそうなのだ。呪わしいあの店はとっくに潰れ、その跡地にこの味噌の濃厚に匂うこの店が出来たのだ。よく見ると店の外観も申し分ないように思われた。前の店に比べるとだいぶ素朴で、いかにも北海道を感じさせた。ドアから見える店内の内装も同じように素朴である。きっとここなら本場の札幌ラーメンが食べられるかもしれない。サッポロ一番は札幌のラーメンから生まれたのだ。なんだか彼女の親元に挨拶しに来たような気分になって緊張してきた。僕は勇気を出して店のドアをゆっくりと引いた。

「いらっしゃいませぇ〜!……ってアンタサッポロ一番さんじゃないですか!いやぁ覚えてますよ!久し振り!」
 ドアを開けた途端カウンターの店主が聞き覚えのあるバカでかい声でドアを引いた僕に声をかけてきたので唖然としてその場に立ち止まった。衝撃のあまり胸に抱いていたサッポロ一番のみそ味を落としそうになった。なぜ……何故奴がここにいるんだ。店のドアの貼り紙には開店一周年と書いていたじゃないか!この店は新しい店のはずじゃないか!店主は驚きの表情で彼を見ている客に向かって謝り僕の事を話し出した。
「ほら、この人。俺がいつも話してる人ですよ。この北海道で何故かサッポロ一番のみそ味の五個入りパックの袋抱えてラーメン屋に入ってきた変わり者。しかし驚いたねえ。二度と店には来ないって思っていたのにまた来るなんてねえ~。で、今回は何しにウチの店きたんですか?もしかしてそのサッポロ一番俺に作ってくれって頼みに来たんですか。お安い御用ですよ。代金はウチの一番安いメニュー代で引き受けますが、どうですか?」
 店主がこう話すと客から大爆笑が起きた。本当にいたんだそんな変わり者。私はてっきり冗談だと思ってました。しかし、ラーメン屋に即席麺もってやってくるなんてどういう神経してるんだ。しかもサッポロ一番なんて北海道じゃ誰も食べないものもってきて。客の馬鹿どもはそう口々に言ってサッポロ一番を抱きしめている僕を指さして大爆笑した。畜生なんて運が悪いんだ!こんな店じゃまともな札幌ラーメンなんて食えはしない。僕はさっさと店を出ようとドアの方へ振り返ったが、その時ドアから新たな客がぞろぞろ入ってきて出られなくなった。店主はその新しい客に向かって僕を指さしながらさっきと同じように僕を紹介する。客たちはサッポロ一番の五個入りパックを抱きしめた僕をまた笑った。ああ!地獄だ!もう逃げようにも逃げられない!すると店主は客たちに向かって言った
「よぉ、みんな揃ったな!今日は新規オープンの一周年だ!みんなのおかげでまたこうして店を再開することが出来た。コロナの時は本当にどうしようかと思ったぜ。みんなの助けがなきゃ首をくくっていたかもしれない。だけどみんなのおかげで潰れかけた店も、屋号も店の外装も内装も全部一新して一から始めて今やっと昔の勢いを取り戻すことが出来た。全く奇跡的だぜ!ありがとうよみんな!」
 この主人の言葉に客は一斉に拍手した。僕は一刻も早く出たかったが、出ようにも出られなかった。早く店から出ようと立ったりしたが、その度に主人と客が思いっきりガン見するので出るに出られない。拍手が鳴り終わった時主人が僕に話しかけてきた。
「ところでサッポロ一番さん、アンタ一昨年ウチのラーメン食べないで出て行ったよね?今日は勿論食べていくんだろ?」
 こんな呪わしい店などいる必要はない。僕は答える代わりにさっと踵を返してドアの方に向かった。だが店主は僕を呼び止め、それを合図代わりにして客が一斉に去ろうとする僕を止めた。
「アンタ俺の店で二度もバックレるなんて許さないよ。今度こそしっかりと俺のラーメン食ってもらわなくちゃ!アンタもしかして金がないのかい?だったら本日限定ラーメン五杯完食無料に挑戦したら?」
 店主が僕にこう言った途端客が一斉に僕に向かって「や~れ!や~れ!や~れ!や~れ!」と囃し立てた。ああ!地方とは何て恐ろしいところなのか!僕のような純真な東京人にとってまったく人外魔境だ!小心者の僕は店の雰囲気に圧されて拒否することなど出来ず、おとなしく主人に勧められた席に座ってしまった。

 主人が出してきたラーメンを見て僕は卒倒しそうになった。あの濃厚な味噌の香りはなんだったのか。これはまるで二郎系ではないか。これが札幌ラーメンとは呆れ果てる。こんなものを五杯完食なんてできるわけがないではないか。だがもう断るどころの話ではなかった。店内の全ての人間が僕をじっと見ている。しかも賭けまで始めているじゃないか。僕に賭けているらしい客は僕の腕を取って「絶対完食しろよ!でねえとぶっ殺すからな!」と脅してきた。僕は助けを求めてテーブルの上の五個入りパックのサッポロ一番の方を見た。しかしサッポロ一番は助けるどころか逆にあなたなら全部食べられると、そのビニールの袋を煌めかせながら喝を入れて来た。サッポロ一番の喝を浴びたら全部平らげるしかない。とにかく食べてサッポロ一番に男気のあるところを見せるしかない。僕は割り箸を割りとにかく目の前のラーメンらしきごみを吸い込もうと掃除機のように口を開けた。

 だが僕にはこんなゴミを五杯なんて食べることが出来なかった。それどころか一杯だって無理だった。僕は突然起こった猛烈な腹痛に耐え切れず囃し立てる主人と客たちをのけてトイレへと駆け込んだ。ああ!なんかいろんなものが漏れそうだ!こんなところサッポロ一番に見せられるわけがない。僕はトイレに入るなりすぐにズボンを脱いだ。
 便器には先ほどまでラーメンもどきだったものが次から次へと溢れている。なんか音まで出てきた。その音を聞いたのかドアの向こうの店の連中が一斉に笑い出した。もう恥の極みであった。すべてを出し切った僕はよろよろしながら自分の席へと歩いた。その僕に向かって客が一斉に拍手してくる。
「いやぁ、残念だったねえ~!で、便器はちゃんときれいにしたの?味噌とかついてないよね?」
 それを聞いて店内の連中が一斉に大爆笑した。僕はそれに耐えながらようやく席についたのだが、何故か席にいた五個入りパックのサッポロ一番のみそ味がいないではないか。僕は慌てて自分の席の周りを探した。テーブルの上も下も床も。だがいない。どこにもいない。またなのか、またなのか!またこの店でサッポロ一番が攫われたのか!僕は激怒して店主にサッポロ一番はどこだと怒鳴りつけた。だが店主は笑って言うではないか。
「いやあ、サッポロ一番さん。あなたがいない間にね。常連のお客さんがあなたの代わりに代金を払ってくれたんですよ。ほら壁にも五食完食できなかったら五食分の代金払うって貼り紙貼ってあるじゃないですか。だけどサッポロ一番さんはどうやらお金がなさそうだ。で常連さんが気を利かせてくれてわざわざラーメン代を払ってくれたんですよ。でお客さんがいくら何でもただじゃおごれねえって言って、代わりとして五個入りパックのサッポロ一番のみそ味を持って行ったわけです。サッポロ一番さん、あのお客さんに感謝してくださいよ。あんなゴミみたいなサッポロ一番が五個入った袋一つで五千円以上するラーメン代がチャラになったんですから」
「ふざけるな!」
 自分でもありえないぐらい叫んだ。何が五千円がチャラになっただ!僕のサッポロ一番はこんなラーメンもどきより遥かに美味しいんだぞ!本来お前らなんかが触ることさえできないものなんだ!それをそれを!なんだか涙が出て来た。せっかく札幌でサッポロ一番を食べようと思ったのに、なんで初日からこんなことになってしまうんだよ!ああ!僕はあまりにも鈍感だった。このラーメン屋に入る前に、いやホテルの部屋から札幌の夜景を見た時にこうなることを予測すべきだったんだ!僕はサッポロ一番を食べられる喜びに浮かれすぎて一昨年起こった出来事を頭の隅に退けてしまったのだ。僕がもう少ししっかりしていればこうなる事は防げたのに!だがまだ救いはある!僕がトイレに入っていたのは五分もない。きっと客だってまだその辺にいるはず。僕はテーブルを叩いて店主に向かってその客はどこに行ったんだ!と問い詰めた。店の連中は怒り狂う僕が可笑しいのか一斉に大声をあげて笑った。その中でも一番笑っていた店主は涙を流して答えた。
「多分風俗街かな。あのお客さんは風俗店の店員だから」
 またか!また風俗街に行かなきゃ行けないのか!ああ!歴史は繰り返すという格言はあるが、こんな繰り返しはごめん被る!だがそんなことを考えている暇はない。今は一刻も早くサッポロ一番を救わねばならないのだ。僕は主人にその店員がいる店の教えろと怒鳴った。すると店主はヘラヘラ笑いながら店の名前を言った。僕は店の名を聞いて唖然とした。なんと一昨年サッポロ一番を奪った店員がいた店と一緒ではないか!もしかしたらあの時と同じ人間かもしれぬ。
「だけどせっかくおごってくれたのになんでそんなに怒っているんですか?あのあ客さんだって善意でおごってくれたんですよ。そんなにあのサッポロ一番が惜しいんですか?私だったらあんな誰も食べないものさっさとあげちゃいますけどね」
「うるさい!」
 僕はそう怒鳴りつけて店から飛び出したが、その僕の後ろから店主が笑いと共にこう言った。
「サッポロ一番さ~ん!また来てくださいねぇ~!」

 サッポロ一番の袋を持っている人間なんてすぐに見つかると思っていたのに全く見つからなかった。僕は奴らがカバンにしまっているかもしれぬと考えた。だから怪しい通行人を片っ端から捕まえてカバンからサッポロ一番をだせと怒鳴りつけた。だが誰もカバンを見せようともせず、挙げ句の果てに警察に訴えるぞと脅して去ってしまったのだ。そんなこんなで僕は今風俗街のど真ん中にいる。ああ!とうとうこんな所にまで来てしまった。まさかこんな忌まわしい場所にまた来るなんて!ここで僕の名誉のために言っておくが、僕は生まれてから一度も風俗なるものに言ったことはない。性風俗の店は勿論キャバクラやクラブといった接待業さえもだ。なのに二度もこんなところに来てしまうなんて!だがそんな事を愚痴っている暇はない。一刻も早くサッポロ一番を救わねばならないのだ。そうして僕はサッポロ一番の誘拐者が勤めているらしい風俗店の前に立った。あれだけ探してもいなかったのだからサッポロ一番の監禁されている所はここしかない。僕は体の震えを抑えながら風俗店へと向かった。しかしその時だった。いきなりどっからか人が集まってきて僕を取り囲んだのだ。僕は取り囲んでいる人間の中に見覚えのありすぎる二人組を見た。
「お前一昨年も来たよな?サッポロ一番がどうたらこうたら喚いて!お前ここ出禁になってるんだぞ!ちゃんと監視カメラにも記録は残っているし!お前みたいな危ない奴を店に入れたら女の子の命がいくつあっても足りねえ。いいからさっさと出ていけよ!」
 何が危ない奴だ!僕はサッポロ一番を攫った誘拐犯を追っているだけだ!僕は連中を無視して店に向かって叫んだ。
「おい!僕の五個入りパックのサッポロ一番のみそ味はそこにいるんだろ?さっさと解放しろよ!でないと警察に訴えるぞ!」
 だがそこで僕は歯がいじめにされ口を塞がれてしまった。
「ったくこのキ印が訳のわからねえことを喚きやがって!店の迷惑も少しは考えろ!」
 僕はそのまま風俗街の入り口まで持って行かれた。そして生ゴミのたくさん詰まったポリバケツにぶち込まれたのだった。

 全く惨め極まりなかった。体の至る所にいろんなものが貼り付きキツイ異臭を放っていた。道ゆく人は鼻を摘んで僕を避ける。ああ!なんてことだ。これじゃまるで一昨年の繰り返しじゃないか。しかも今回は中身のたっぷり詰まったゴミ箱だから一層始末が悪い。僕は人気のない路地に逃げ、体に貼り付いたゴミを取った。そしてホテルへとついたのだが、ホテルのフロントにいた連中は僕を見て目を剥いた。僕はすぐさま階段へと逃げたが、その僕の後ろから宿泊客らしき誰かがこう叫んだ。
「あの〜髪の毛がワカメだらけですよぉ〜!」
 部屋に入った瞬間僕は泣き崩れた。ああ!なんてことだろう!浮かれ切った挙句一昨年と同じようにサッポロ一番を攫われるなんて!あれほど酷い目に遭ったのに注意もせずサッポロ一番を外に連れ出してしまった自分が呪わしい!サッポロ一番は今頃リアルに食べられているのかもしれない。ケッ、こんなにまずいラーメンは初めてだとか言われ麺を縮こませながら風俗店の店員に乱暴に噛まれているのかもしれない。いや、もしかしたら茹でられたものの、やっぱり俺の口には合わないとそのまま三角コーナーに捨てられているのかもしれない。ああ!いずれにせよもうどうしようもない!僕はサッポロ一番をどう心配しようが絶対に戻ってこないのだ。僕は泣き崩れた。自分の愚かさを悔いそしてサッポロ一番に懺悔した。だが泣き喚こうが、懺悔しようがいなげやで買ったあのサッポロ一番は戻ってこない。だけどこの感情は抑えきれない。とめどなく溢れる涙を溜められるどんぶりなんか今の僕には作れるはずがない。その時誰かが部屋のドアをノックしてきた。僕はハッと我に返って顔を上げた。

 ドアを開けるとそこにワンピースを着た女の子が立っていた。彼女のワンピースの色ははほとんど白だったが、胸のあたりにはオレンジ色の細い線と太い線がプリントされており、その線の間に円形の図形が描かれていた。そのデザインはまるでサッポロ一番の味噌味のパッケージを簡略化したようだった。恐らく彼女は隣か同じ階に泊まっていて僕が大声で泣いているのを聞いて僕の部屋に来たのだろう。彼女は今僕を驚きの目で見ていた。当たり前の反応だろう。こんなツンとつくような生ゴミの臭いとワカメを頭にぶら下げた僕を見たら誰だってびっくりする。僕は慌てて頭のワカメを取り、涙をシャツで拭って申し訳ないと彼女に深く頭を下げた。そしてそのままドアを閉めようとしたのだが、その時何故か彼女がこちらに寄ってきてこう言った。
「あなた今どうして泣いていたの?それが気になって来たの。ねえよかったら話してくれない?」
 僕は彼女がこう心配そうな顔で聞いてきたのに驚いた。見ず知らずの他人にこんな事を聞いてくる女の子がいるだろうか。だが話せと言われてもこんなこと見ず知らずの人間に話せる事ではない。大体サッポロ一番をラーメン屋で見失って風俗街まで探しに行って番人らしき男たちにポリバケツにぶち込まれたなんて言ったらお笑いぐさだ。僕は大丈夫だからと言ってドアを閉めようとしたが、彼女はするりとドアを抜けて僕の目の前に立った。
「大丈夫じゃないでしょ?そんなに泣き腫らした顔してたら誰だって心配するじゃない。いいから話してよ。あなたに一体何が起こったの?」
 彼女のその優しい眼差しを見ていると、まるで茹でられたサッポロ一番の即席麺のように僕の頑なな心もほぐれてきた。彼女だったら話していいかなと思った。僕は彼女を部屋に上げてそれから今回のサッポロ一番を襲った悲劇の顛末を話した。僕はまず一昨年札幌でサッポロ一番を食べた事を話し、そして今回も同じように札幌でサッポロ一番を食べようと札幌に来たのだが、夜のラーメン屋でサッポロ一番を攫われ、サッポロ一番を探しに行った風俗街でボコボコに殴られ、挙句の果てに生ゴミだらけのポリバケツにぶち込まれた事を全部告白した。
「僕はバカだったんだよ。またサッポロ一番と一緒に札幌に来れた喜びで頭がおかしくなっていたんだ。もう少し冷静になっていたらサッポロ一番を攫われずに無事に明日を迎えられるはずだったのに!全くバカだよ!明日サッポロ一番を美味しく食べてあげようと思っていたのに!」
 彼女にサッポロ一番への思いをぶちまけていたらまた涙が出てきた。ああ!後悔の涙は溢れに溢れて感情のダムを決壊させてしまう。だが僕はその時泣き声が聞こえてきたのでハッとして我に返って泣き声のする方を向いた。するとなんと彼女が号泣しているではないか。彼女は僕よりもはるかに激しく泣いていた。僕はびっくりして彼女に大丈夫かと聞いた。彼女は涙声で大丈夫だよ、私は大丈夫だよと答え泣き腫らした目で僕を見た。
「あなたは何も悪くないよ。だってあなたはサッポロ一番ちゃんに生まれ故郷の景色を見せてあげたかったんでしょ?きっとサッポロ一番ちゃんもあなたに感謝しているはずよ。サッポロ一番ちゃんは多分あなたに申し訳ないと思っているはずよ。あなただけに食べらたかったのに、それが出来なかったんだから!」
「君ってホントにいい人だね。だけどそんな優しい言葉で慰められてももうサッポロ一番はこの世にいないんだ。今頃はきっと無残に伸びた麺の姿で三角コーナーに捨てられたり、あるいは茹でられもせずにバラバラに砕かれて道路中に飛び散っているはずなんだ。もうお終いだよ。僕は今回の出来事で自分がサッポロ一番を食べるのに相応しい人間じゃない事を身に染みて感じたよ。あれだけサッポロ一番を食べるだけ食べておいて、いざという時にサッポロ一番を守れなかったんだから!」
「そんなことはない!きっとサッポロ一番ちゃんだってあなたの想いはわかっていたはず!きっとサッポロ一番ちゃんはどこかであなたを待っているわ!あの子は確かに伸びたまま食べられもせず放っとかれてそのまま三角コーナーに捨てられたとしても、茹でられもせずにアスファルトに叩きつけられたとしても、あの子の魂は他の子に受け継がれてきっとどこかの販売店であなたを待っているはずなのよ!」
 彼女の沸騰するほど熱い言葉は僕を完全に茹で上がらせてしまった。鍋から吹き出しそうなほど熱い湯を浴びた衝撃で僕は震えた。
「ねぇ、あなたいつ東京に帰るの?」
 僕は明後日の夜10時だと答えた。すると彼女は笑顔で言った。
「さっきあなたサッポロ一番ちゃんを食べに行くのは明日だって言ったよね。ねぇ、それを明後日にしない?明日は二人でサッポロ一番ちゃんを探しに行こうよ」
「だけどサッポロ一番なんて北海道じゃ滅多にないんだよ。それどころかサッポロ一番なんて持ち歩いてたらみんなから嘲笑されるんだよ。一昨年だって街外れの小売店でやっと見つけたぐらいなんだ。一日かけたって探せるはずないよ」
「そんな事私が一番よく知ってるよ!だから一日かけて探そうって言ってるんじゃん!ねぇ探そうよ。きっとサッポロ一番ちゃんはどこかで私たちを待っているよ」
 彼女の言葉を聞いて僕は不思議に思った。何故彼女はここまでサッポロ一番に熱くなれるのか。見知らぬ人間の僕のためにそこまで付き合うわけがない。もしかしたら彼女もまたサッポロ一番を札幌で食べたくてここまできたのか。
「君は一体何者なんだ。どうして僕なんかにそこまで付き合おうとするんだ?」
 彼女は僕の言葉を聞くといきなり怒り出した。
「そんなこと私に聞いている暇あるの?いい?私は今あなたに一緒にサッポロ一番ちゃんを探すのかって聞いてるの?さっさと答えなさいよ」
「行くさ!サッポロ一番を探すためならどこだって行くよ!」
「それでいいのよ。あなた今度から人から何か聞かれたら質問返しなんかしないで素直に答えなさいよ。でないと社会人としてやっていけないんだから」
 有無を言わせぬ口調だった。僕はとりあえずはいと返事をすると彼女はイタズラっぽく笑って「あなたちょっと臭いからシャワー入った方がいいよ」と言った。僕はシャツについたゴミを見て確かにそうだと思った。それで僕はシャワーに入ろう思い、彼女に明日迎えにいくから部屋番号を教えてくれと尋ねた。しかし彼女は首を振り今日は僕の部屋で寝ると言うではないか。これには僕も流石に驚いた。付き合っている女の子ならともかく見ず知らずの、いまだに名前も知らない女の子がいきなり同じ部屋で泊まりたいと言っい出すなんて。僕は汚い部屋だけど大丈夫かと聞いた。すると彼女はさっきみたいに膨れっ面をして「いいって言ってるんだからいいに決まってるでしょ!」と怒ってきた。

 僕がバスルームから出るとすでに自分の部屋から着替えを持ってきたらしい彼女がそこで待っていた。彼女は食べ物テーブルにカップ麺置いてあるから好きなの食べてと僕に言った。僕はありがとうといいバスルームに入る彼女を見送った。一体何故カップ麺なのか。しかもよく見ると全部サンヨー食品のものじゃないか。だが同じサンヨー食品でも当然のようにサッポロ一番はなかった。ここ札幌ではカップ麺でさえサッポロ一番は忌み嫌われているのだろう。僕はこの現実を目の当たりにして明日サッポロ一番が見つかるのか不安になった。僕はカップ麺の中からカップスターの味噌を選んで食べた。久しぶりに食べたが、やはりサッポロ一番にははるかに及ばぬ味だった。同じ会社でもサッポロ一番のようなレベルの味は作れぬものなのか。僕はカップスターを食べながらひたすらサッポロ一番を思った。明日僕らは再会することができるだろうか。明後日にあの例の草原で君を食べることができるだろうか。しばらくするとバスルームのドアが開いてバスローブを巻いた彼女が出てきた。驚くほどのわがままボディというべきか胸の凹凸は陰影どころかハッキリした線を作っていた。その水をピンポン玉のように弾きそうな肌はどこかサッポロ一番のあの白い麺を思わせた。だがそれも彼女がかすかに漂わせる匂いに比べたらどうでもいいことだった。彼女はものすごくいい匂いをしていた。それは香水ではなく間違いなく彼女自身の匂いであった。その田舎の小麦畑を思わせる懐かしい匂いはいやが故にも懐かしさを刺激する。僕は彼女を見て何故かサッポロ一番を思い浮かべた。

 それから僕らは寝ることになった。僕は彼女にベッドで寝る事を勧めたが、彼女は床に寝るからと断ってきたので結局僕がそのままベッドで寝ることになった。しかし見知らぬ女の子と二人きりでいるシュチュエーションはかなり緊張する。僕は眠れに眠れず目を閉じて開くの繰り返しだった。彼女の方をチラチラ見たが、彼女はさっきくらずっと床で僕に背を向けたままの姿勢だった。どうやら完全に寝入ってしまったようだ。僕は自分も早く寝なければと思い目を思いっきり閉じた。部屋の外から誰かの息を吐く音と廊下を歩く足音がした。外からは風がガラスに吹きつけてくる音が聞こえた。異様に静かな部屋で僕は一人眠れずにいた。だがその時だった。床に寝ていた彼女が起きてきて僕のいるベッドにやってきたのだ。
「起きてる?」
「起きているけどどうしたの?」
「眠れないの」
 なんだ彼女も寝ていなかったのか。だったら声をかければよかった。彼女は僕に顔を近づけて言った。
「あの。布団に入っていい?一人で寝てるとなんか寒く感じるの」
 僕はこの思わぬ言葉に息を飲んだ。部屋に入れたとはいえあまりにも大胆すぎる誘いだ。確かに北海道は五月でも夜は寒いだろう。だが部屋には暖房はついているし寒がるほどの冷えてはいない。僕なんか暑く感じるぐらいだ。いや彼女が言っていることはそういう意味じゃないことは僕にだってわかる。しかし僕は暑いのだ。暑いのにこれ以上熱くなったらもっと寝られなくなるではないか。彼女はダメ?と甘い声で重ねて聞いてくる。いや、ダメではないが僕がダメになってしまいそうだ。だがこの大胆極まるサッポロ一番娘は僕の返事を待たずに勝手に布団の中に入ってきてしまった。

 札幌の安ホテルに突然現れたサッポロ一番な天使。僕は同じ布団にくるまっている彼女を見て思わず目を逸らしてしまった。暗い部屋のシングルベッドに寝ている二人。少しでも体を動かしたら触れそうなほどの距離だ。僕は童貞でもないくせに体を芋虫みたいにモジモジさせた。あちこち泳いでいた目を一瞬彼女に向けると僕をじっと見つめている彼女にぶつかった。彼女は僕を気遣ってか何もしないから大丈夫だよ。と声をかけてきた。いや、全く逆のシュチュエーションではないか。本来なら男たる僕が言うべきセリフなのに。ようやく落ち着いて彼女をまっすぐ見つめることが出来た。彼女は驚かせてごめんねと謝ってきた。僕は君が心配することはないさと答えた。すると彼女は安心したかのように僕に向かってあったかいと呟いた。僕は安心してお眠りと彼女に声をかけた。すると彼女はまだ寝る気になれないと甘えた声を出してそれから少しお話がしたいと言ってきた。僕はいいさと答えた。
「ありがとう。私の話を聞いてくれる人なんてあなたが初めてだよ。じゃあお言葉に甘えてすっごい長い話するね。最初は私が生まれた頃の話をしようかな」
 それから彼女は自分のヒストリーを語り始めた。確かに長い話だった。彼女の話によると父親は札幌ラーメンが好きで現地に行くたんびに食べていたらしい。父親はラーメン好きが高じて自分で札幌ラーメンを作ったそうだ。そのラーメンは父親が今まで食べた札幌ラーメンの美味しさを凝縮したものだった。父親は自分が作った札幌ラーメンを見て思ったのだった。このラーメンを札幌で売るんだ。それが今まで美味しいラーメンを味合わせてくれた札幌への感謝だ。
「だけど全然ダメだったの。誰も振り向きもしなかったの。私すっごいショックだった。お父さんからお前の故郷は札幌なんだよ。きっとみんなお前を大事にしてくれるよなんて言って送り出してくれたのに、いざ来たら誰も私たちを見てくれないんだもの!本当に辛かった。私いつも泣いていたんだから!」
 重い話だった。彼女の話を聞いて人の想いは地球の重力より遥かに重いものだって事を身にしみて感じた。人間の想いは重力なんかじゃ太刀打ちできないほど重いのだ。彼女はおそらく父親共々札幌に愛されなかった自分と、同じく札幌に愛されないサッポロ一番を重ねているのだ。ああ!僕の不幸なんて彼女に比べたらカスみたいなものだ。僕は彼女の話を聞いて泣いた。彼女も泣いてありがとうと言った。
 それから僕は驚くほど深い眠りに入った。その眠りの中で夢に浮かんできたのは一面の小麦畑である。風に吹かれて小麦が波を打って揺れ出す。小麦は札幌の農夫たちの手によって粉となりやがて生麺となる。やがて生麺は揚げられて即席麺となるだろう。そして同時に作られていた味噌スープと一緒に袋に詰められてサッポロ一番のみそ味となるのだ。ああ!そのサッポロ一番が今僕のテーブルに運ばれてくる。運んできたのは彼女、今僕の隣で寝ている彼女だ。彼女はサッポロ一番をテーブルに置いてこう言う。
「はい、サッポロ一番できたよ」

二日目

 突然の揺さぶりによって目が覚めた。目を開けてみると着替えを済ませた彼女が膨れっ面で僕を見ているではないか。
「いつまでも寝ているのよ。サッポロ一番を探すのは今日しかないのよ。早く出かける準備してよ。とりあえず観光地を回ろうよ。観光地は他の県の人がたくさん来るじゃない。もしかしたら土産物屋さんが観光客目当てにサッポロ一番置いているかもしれない。ねえ、そう思わない?とにかくそこにカップ麺あるからそれ食べたらすぐに出発しましょ!」
 なんという豹変ぶりだろうか。昨日あれだけ僕に甘えてきたのが嘘みたいだ。僕は慌てて飛び起きて着替えを持ってバスルームへと逃げた。そして着替え終わった僕は彼女と一緒にエレベーターで一階に降りた。
 このホテルは格安のビジネスホテルで部屋を出る時はわざわざフロントに鍵を預けなくちゃいけない。僕は当然シングルで部屋に泊まったので二人でフロントに行くことは少々、いや結構気が引けた。フロントの人間にお客さんたちシングルですよねなんて言われたらなんて答えればいいのか。しかし彼女はそんなことを全く気にしていないようで早く鍵を預けましょうわよと僕を急かした。僕はフロントに鍵を預けたのだか、彼女は自分の鍵を預けようとせずにさっさと外に行ってしまった。僕は慌てて彼女を呼び戻そうとしたが、フロントは何故か彼女を呼び止めようとはしなかった。僕らをダブルと勘違いしたのか。いやホテルのフロントの人間なら部屋番でどちらに泊まっているかすぐにわかるはず。僕は訳が分からずしばらくフロントの前に立っていたが、フロントはその僕を不思議そうな顔で見てこう言ってきた。
「お客さん、鍵は預かりましたので大丈夫です。どうぞ行ってらっしゃい」
 この言葉を聞いて僕はフロントが本当に自分がダブルの部屋に泊まっていると勘違いしていると思って確認のために聞いてみた。
「あの、僕は今シングルルームに泊まっているんですよね?」
 フロントは僕の問いを聞いて怪訝な顔で言った。
「はぁ、そうですけどそれがなにか。もしかしてダブルをご所望でしょうか。生憎ですが当ホテルではお一人様のダブルはお断りしております」
「いえ、シングルで結構です!」
 全く不思議な話だった。フロントには絶対彼女の姿は見えていたはず。なのに誰も外に向かう彼女を呼び止めようともせず、まるで気付かぬふりをしているのだから。一体彼女は何者なのだろうか。

 外に出ると彼女は例の膨れっ面で立っていた。一体何していたのよと言いたげな顔だった。僕は彼女に謝り、二人で地図を手にとりあえず観光地へと行くために近くの地下鉄を目指して歩いた。その道すがら僕らはコンビニや朝からやっているスーパーを見つけると片っ端から入ってサッポロ一番を探した。しかし全くなかった。当たり前だがこんなに簡単に見つけられたら苦労はしない。彼女はやっぱりないねと寂しそうに言った。僕はどうしてここまでないのか不思議に思いあるスーパーの店員にサッポロ一番は仕入れているのか聞いてみた。すると店員は呆れたような顔をしてそんな誰も食べないものをわざわざ仕入れるわけがないと答えた。彼によれば今はAmazonだってあるからゲテモノ好きはそっちで注文しているとのことだ。だがサッポロ一番は北海道では作られていないのでオンラインで注文しても一週間は余裕でかかるらしい。それを聞いて僕も彼女もがっくりと肩を落としてスーパーを出た。店を出ると彼女は僕を見て大丈夫。絶対にサッポロ一番は見つかると慰めてくれた。

 まず僕らが向かったのは札幌市時計台であった。札幌市時計台。一昨年僕がよじ登って警備員にこっぴどく怒られた場所だ。あの時サッポロ一番に裏切られたと思い込んでやけになっていたのだ。サッポロ一番が北海道では人気がないという事実を初めて知ったショックで、バカげたことにサッポロ一番を性悪即席麺だと思い込み、サッポロ一番を全力で忘れようとやたらはしゃいでしまったのだ。僕は時計台を見てその事を思い出して恥ずかしくなった。
 彼女は札幌時計台の白さに見とれたのか食い入るように見ていた。「まるでサッポロ一番ちゃんの麺の色みたい」と彼女は言った。
 僕はその言葉にハッとした。確かに時計台の白い壁はサッポロ一番の麺の色に似ている。ああ!彼女に言われるまで全く気づかなかった。一昨年の秋もここに来たはずなのに。あの時葉はすでに赤くなっていたはず。ということは紅葉がまるでサッポロ一番のみそスープのように時計台を彩っていたはずなのにそれに気づかなかったなんて!僕はそんな事を思いながら時計台を見ていたが、なんとそこにゼルダの伝説のリンクみたいに壁をよじ登って時計台を登っている彼女を見たのだ。それは一昨年僕もやって警備員のおじさんに怒られた事だ。いけない、そんな事をやったら怒鳴られる。僕は慌てて時計台に駆け寄って彼女に降りろと注意した。だが異様に高揚していた彼女は僕の言うことを聞かずそのまま時計台の屋根まで登ってしまったのだ。僕は彼女を引き釣り降ろそうと彼女屋根まで登って彼女の手を掴んで注意してやった。彼女はその僕に向かってバツの悪そうな顔をした。時計台の下から警備員や他の観客が僕らに向かって怒鳴ってきた。だがよく聞いてみると怒鳴られているのは何故か僕だけだった。最初に登った彼女はお咎めなしだった。これは一種の女尊男卑なのか?可愛い女の子は無罪放免なのか?僕は屋根に登ってきた警備員に荒々しく腕を掴まれ引き釣り下ろされ、一人大説教を受けた。ああ!彼女は説教を受けている僕をイタズラっぽい笑みを浮かべて見ている。君は自分のせいで僕がこんな目に遭っているのを見て何とも思わないのか!僕は腹が立って彼女を叱り飛ばした。彼女は相変わらずイタズラっぽい笑みを浮かべ周りの観光客は何故か引いた目で僕らを見ている。目の前の警備員は薄気味悪いといった顔で僕らに、いや僕だけに言った。
「あなた一昨年も登ったでしょ?迷惑系YouTuberだかなんだか知りませんけどね。何度もこんなことするのやめてくださいよ!今度こんなことしたら警察に突き出しますからね!さっさと出て行ってください!」
 完全に僕だけが叱られていた。僕は警備員の薄気味悪がっている顔を見てすぐに頭を下げて逃げるようにその場を去った。彼女はそんな僕を小悪魔的な笑みで見ていた。僕らは他の観光客の白い視線とレーダーのように僕らを見ている警備員の視線に晒されながら土産物コーナーでサッポロ一番を物色した。しかしこの他県の観光客向けの場所でもサッポロ一番は見つからなかった。北海道人はサッポロ一番を特産名物だと認めたくないのだろうか。今までずっと迷惑なまでに楽しそうに振る舞っていた彼女もこの有様を見て寂しい顔をした。
「サッポロ一番ちゃんいなかったね。あの子どこにいるんだろう」

 ウィリアム・スミス・クラーク。ボーイズ・ビー・アンビシャスで有名なクラーク博士。僕は博士の有名な言葉である『少年よ大志を抱け』を我が人生の支えにしてきた。子供の頃からサッポロ一番の麺とともに博士の言葉を噛み締めていた。出来れば博士に生き返ってもらって僕の作ったサッポロ一番を食べてもらいたいとさえ夢見ていた。ああ!博士よ!あなたが育てた北海道は青年となりついにサッポロ一番を生み出したんですよ。この若きラーメンたちを頬張って上げてください。僕は未来を指差すクラーク博士の銅像を見て感極まって涙を流した。それから一昨年博士の肩に跨った事を思い出して詫びた。これもまたサッポロ一番にあらぬ疑いを抱いておかしくなっていたせいでしでかした事だ。だが決して弁明などしない。ただ膝をついて謝るだけだ。僕は彼女にクラーク博士の事を話そうと隣を見た。だが彼女がいないではないか。僕はさっきの事を思い出してゾッとして博士の銅像を見た。するとああ!やっぱり彼女が銅像に乗っているではないか!彼女はそのサッポロ一番な柄のワンピースでクラーク博士の頭の上でつま先でターンしているではないか!僕は彼女を引き釣り下ろそうと無我夢中でクラーク博士の銅像によじ登った。だが銅像の一歩手前で僕は警備員にふん捕まえられてしまった。
「貴様懲りもせずまた登ろうとしたのか!今時計台の警備員から貴様が来ていると連絡が入ってさっきからずっと監視していたんだ!性懲りも無く悪さしようとしやがって!貴様迷惑系YouTubeか何かか?迷惑動画なんかアップして金稼いでいるのか?今回は見逃してやるからさっさと出てうせろ!」
 また僕だけが叱られた。しかも登ってさえいないのに叱られた。登っていたのは隣にいる彼女なのに。彼女は僕のことなんか無視して北海道はでっかいどうなんて声を張り上げながら駆け回っている。一体この女尊男卑っぷりはなんなのだ。可愛い女がやらかしても咎められもせず、それを止めようとした僕だけがこんなに叱られるなんて!僕は警備員から解放されるとすぐに彼女に駆け寄って思いっきり怒鳴りつけてやった。
「君もまともな大人なら公共のものに登っちゃいけないことぐらいわかるだろ!僕は君のために酷い目に遭った!今度こんなことしたらもう絶好だ!」
 しかし彼女はこの僕の説教を受けても笑っているではないか。ああ!この女は可愛さで今まで世の中を渡ってきたに違いない!だがそれも今日で終わりだ!君に今ここで世の中の厳しさを教えてやる!しかしその時誰かが僕にうるさいと注意してきた。「あのブツブツうるさいんでやめてもらえます?みんな迷惑しているじゃないですか」我に返って声の方をみるとおばさんが苦々しい表情で僕を見ていた。そしてその後ろで他の観光客は明らかに引いた感じで僕に冷たい視線を投げていた。僕はおばさんの注意を受けて女の子を公衆の面前で叱るのは不味かったと反省した。僕は観光客の冷たい視線を目の当たりにしてやはり公衆の面前で叱るべきでなかったと反省した。おばさんはその僕を見て何故か触れてはいけないものを見たような顔をしながら後ずさっていった。僕はみんなの目線に居た堪れずに彼女を連れてその場を離れた。全く最悪だ。どうして彼女とサッポロ一番を探しに行くことに同意してしまったんだ。もしかしたら彼女は一緒にサッポロ一番を探すとかでたらめ吹いて僕の金で遊びたかっただけなんじゃないか。僕は人通りの少ない所まで来ると彼女に向き直ってもう君とのサッポロ一番探しは終わりだと告げようとした。しかしそう言おうとした途端彼女は涙を流して僕をじっと見つめたので僕は思わず言葉を飲み込んだ。
「迷惑ばかりかけてごめんね。私憧れの札幌の街をこうして歩くことが出来て嬉しかったんだよ。今まで暗い場所でずっと閉じ込められていたから」
 彼女の涙を見て僕はなんだか申し訳ない気持ちになった。思えば僕だって二年前彼女と全く同じことをしていたではないか。彼女は嬉しすぎるがあまりハメを外しすぎてしまっただけなのだ。僕は彼女を怒鳴ったことを謝った。そして優しく嬉しくてはしゃぐのは結構だけど人の迷惑になる事はしてはいけないよと嗜めた。彼女は涙を溜めてうんとうなずいた。観光客はその僕らを訝しげな目でチラ見していた。
 ここでもサッポロ一番はなかった。彼女はこの結果にがっくりと来ていた。僕らはサッポロ一番が落ちていないかと土産物の陳列されている台の下を見たり、他の観光客にサッポロ一番の味噌味を買っていたらいくらかで融通して欲しいと頼み込んだりした。だが店の中にはサッポロ一番のかけらもなかったし、誰もサッポロ一番を持ってさえいなかった。サッポロ一番がここでも売っていないことがわかると彼女は苦しそうに胸に手を当てて時計台の時と同じ言葉をつぶやいた。
「ここにもサッポロ一番ちゃんいなかったね。あの子ほんとにどこにいるんだろう」

 旧北海道庁本庁舎。いわゆる赤れんが庁舎は今は改装工事中らしく中に入れなかった。だが建物を覆う工事用カバーにリアルに描かれた庁舎を見た時、僕は描かれたレンガの赤みに一昨年と同じようにサッポロ一番のしょうゆ味のパッケージを思い出した。
「この建物。サッポロ一番のしょうゆちゃんに似てるね」
 と彼女がつぶやいた。彼女もやはり赤れんが庁舎がサッポロ一番のしょうゆ味に似ていると思ったようだ。それから彼女はため息をついて肩を落とした。
「だけどしょうゆちゃんもみそちゃんもいないね。二人ともどこにいるんだろう」
 そう彼女のいう通りここにもサッポロ一番はいなかった。リアルに描かれたこの建物が絵でしかないように、僕らがどんなにしょうゆ味のパッケージを思わせてもそれは幻想でしかなかった。肝心の味噌に至っては痕跡すらなかった。僕は赤れん庁舎の絵を見ながらサッポロ一番を思った。サッポロ一番。君は今どこにいるんだ。

 サッポロビール博物館。サッポロ一番と同じように札幌の名がついているこのビールは札幌の人たちもよく知っているようだ。ビールについて詳しくは知らないがこうして博物館もあるってことは札幌の人たちもこのビールを飲んでいるのだろう。だがそのビールのお共にサッポロ一番は決して出されることはない。砕いた即席麺でさえおつまみに出される事はないのだ。もし札幌の人たちに砕いたサッポロ一番の即席麺をだしても激怒してゴミ箱に放り込むだろう。僕は例の赤れんが庁舎のようにどこかサッポロ一番のしょうゆ味を思わせる博物館を見学してそんな事を想像して暗い気分になった。僕はさっさと見学を切り上げると彼女を連れて土産屋に向かった。土産屋には当然ながらビール関係のものしかない。他におつまみのチーズ、ハム、ベーコン等地元特産の品が沢山置いてあったが、肝心のサッポロ一番が全くなかった。どうしてここまで境遇が異なるのか。このビールは立派な博物館まで作られるぐらい札幌で好まれているのに、僕らのサッポロ一番は札幌では誰も食べず、それどころか不当に差別されるなんて!僕はもう出ようと思って彼女に声をかけた。だが彼女は放心状態で僕の言葉を全く聞いていなかった。彼女はたださっきと同じようにこう呟くだけだった。
「サッポロ一番ちゃんここにもいないね。一体どこにいるんだろう」

 僕らはそれからサッポロ一番を求めて札幌市内の観光名所を回ったが、どこにもサッポロ一番はいなかった。各名所の土産屋には札幌土産としていろんなものが置かれていたが、サッポロ一番の影さえなかった。子供の頃からサッポロ一番を食べながら僕は札幌の人たちはみんなサッポロ一番を夕食に食べるものだと思っていた。勿論今の僕はそんなものが都会人の田舎に対する純朴な想像に過ぎないことを身に染みてわかっている。だがそれでもこうしてその事実を何度も突きつけられるのは辛い。彼女は僕などよりずっと落ち込んでいるように見えた。最初のうちはあれほどはしゃいでいたのに、いつの間にか全く喋らないようになり、ただサッポロ一番がない事を確認するたびにサッポロ一番ちゃんどこにいるのと譫言のように繰り返すだけになってしまった。僕らは市の中心から離れて郊外の観光名所の土産物屋を訪ねたがそこにもサッポロ一番はいなかった。僕はますます落ち込んでゆく彼女が心配になってきた。元々は彼女がサッポロ一番を誘拐された僕のために代わりのサッポロ一番を探そうと言い出したのだ。なのに今では彼女のために早くサッポロ一番を探さなきゃいけない気分になってきた。僕はもう完全に喋る気力を失っている彼女に向かってサッポロ一番は絶対どこかにいるからと慰めた。だけど彼女はうんうんと頷くだけでろくに言葉を返さなかった。
 いつの間にか日が沈もうとしていた。空は一面のオレンジだった。僕はこの空を見てサッポロ一番のみそ味のパッケージを思い浮かべた。空はサッポロ一番のみそ味色なのに、僕らのいる地上にはサッポロ一番のみそ味のかけらもない。本当に僕のサッポロ一番は天国に召されてしまったのか。この札幌には二度とサッポロ一番が降りてくることはないのか。サッポロ一番を札幌で食べることは一回こっきりの奇跡でしかないのか。僕は自分と彼女が青い鳥のチルチルとミチルにでもなったような気がした。チルチルとミチルは幸福の青い鳥を探して旅立った。僕らも二人と同じように幸福のためにこの札幌で地元の人が誰も食べないサッポロ一番を探している。だが本当に札幌にサッポロ一番はないのか。チルチルとミチルは長い旅の果てに幸福の青い鳥を見つけた。僕らもこの札幌市内をくまなく探せばきっとサッポロ一番を見つけることができるんだ。僕は次の観光名所に向かおうと足を進めた。だけど彼女は突然立ち止まって言った。
「あの、もう帰らない?これ以上探してもサッポロ一番ちゃん見つからない思うの」
 そう言った彼女の顔が夕焼けに照らし出された。その顔はまるでサッポロ一番のみそ味のパッケージのように眩しく光り輝いていた。そんなみそ味のパッケージみたいな眩しい顔でそんな悲しいこと言うなよ。なんだかサッポロ一番に別れを告げられているみたいじゃないか。だが僕はこの思いを彼女に言うことは出来なかった。僕はただ素直に頷いただけだ。確かに彼女の言う通りこれ以上サッポロ一番を探しても見つからないだろう。いや、札幌ににいたサッポロ一番はもう全員いなくなったのかもしれない。ああ!もしかしたらサッポロ一番は全員この札幌のオレンジの空になってしまったのだろうか!

 ホテルに着いた時はとっくに陽が落ちていた。僕はフロントから鍵をもらうと待たせていた彼女と一緒にエレベーターに乗った。そしてエレベーターが部屋の階に着くと彼女と一緒に自分の部屋に入った。その間僕らはずっと無言だった。彼女はやっぱり自分の部屋に入らず当たり前のように僕の部屋に入ってきたが、今の僕にはそんな事はどうでもよかった。むしろ彼女が一緒にいない方がおかしいとさえ思えてきた。
 部屋に入ると彼女はテーブルの上に置かれているサンヨー食品のカップヌードルを指差して「どれか食べたら」なんて聞いてきたが、今はとても食べる気分じゃなかった。テーブルにサッポロ一番の味噌のカップラーメンがあったら食べたかもしれない。だがこの札幌にはサッポロ一番と名のつくものなど置かれているはずもないのだ。彼女もカップラーメンを食べなかった。ずっと俯き加減で座っているだけだった。
「サッポロ一番ちゃんどこにもいなかったね」
 と彼女が呟いた。今の僕には彼女の言葉に頷くことさえ出来なかった。あれだけ観光名所を駆けずり回ったのにサッポロ一番のかけらさえ見つからないなんて。結局僕はこのまま札幌を去るのか。サッポロ一番を一口も味わえぬままに。なんだか涙が出てきた。彼女が空気を察したのかシャワーを浴びてくると言って浴室へと向かった。僕は彼女が浴室の扉を閉めたのとほぼ同時に号泣した。ああ!僕が浮ついていたあまりに君を永遠に失うなんて!僕にはもうサッポロ一番を食べる資格はない。これからはコンビニのプライベートブランドの即席麺を食べて余生を送るしかない。
 今シャワーを浴びている彼女はサッポロ一番についてどう思っているのだろうか。彼女は僕のために必死になってサッポロ一番を探してくれた。その必死な姿はとてもただの協力者の態度ではなかった。彼女もまたサッポロ一番を探しているのだろうか。だとしたら申し訳がない。僕なんかと一緒にいるからサッポロ一番が見つからないのだ。何故ならサッポロ一番は僕の度重なる失態に呆れ果てて札幌から逃げてしまったからだ。
 その時浴室の方からドアの開く音が聞こえた。ふと浴室の方に首を向けるとバスローブをきた彼女がこちらに歩いてくるではないか。彼女は笑いながら次はあなたの番よと声をかけてきたが、僕の泣き腫らした顔を見て悲しい顔をした。
「ずっとサッポロ一番ちゃんのために泣いていたの?」

 僕は答える代わりに浴室へ駆け込んだ。そして最大限にしたシャワーを浴びながらまた泣いた。ああ!サッポロ一番を永遠に失った悲しみはシャワーなんかで流せはしない。サッポロ一番を失った悲しみを癒せるのはサッポロ一番だけだ。それなのに永遠にこの札幌から消えてしまったなんて!サッポロと名のつく食べ物は数あれど僕のサッポロはサッポロ一番だけなんだ!もし僕がサッポロ一番の商標を取得したら絶対に誰にも使わせない!たとえ商標ゴロだって言われても構うもんかってぐらいにサッポロ一番を愛しているのに!その愛したサッポロ一番をこの札幌の地で食べてあげようとしたのに!ああ!恥ずかしげもなく僕は泣いてしまう!まるで生き絶えた恋人を抱いて泣くように、僕は記憶の中のサッポロ一番を抱いて咽び泣いた。

 泣き疲れたらもう寝るしかなかった。僕は浴室を出てまっすぐベッドに向かった。彼女は心配そうな顔をして目で僕を見た。だけど今の僕には彼女に話しかける気力なんてなかった。
 僕は彼女に顔を向けてもう寝るとジェスチャーをした。彼女は何も言わずにただ僕に頷いた。その彼女の健気な態度を見て僕は猛烈な自己嫌悪に襲われた。
 ああ!お前は一日中自分のサッポロ一番探しに付き合ってくれた女になんて態度を取るんだ。悲しみで余裕がないからっていい加減にしろ!彼女はお前のためにあんなに必死になってサッポロ一番を探してくれたんだぞ!確かに彼女時計台やクラーク博士の銅像に登ってヤンチャしまくった。だけどそれはお前も一昨年にしでかした事ではないか。お前はそんな彼女に感謝の言葉も述べずただ子供みたいに不貞腐れているのか!そんな奴だからお前はサッポロ一番を見失ったのだ!
 だがこうやってベッドの中で一人悶々と自分の愚かしさを責めてもサッポロ一番を失くした悲しみからは到底抜け出せない。僕はまた泣きそうになった。きっと僕の涙が止まるのは体の水分がすべてなくなった時だろう。そこで人は見るのだ。サッポロ一番をなくした悲しみに泣きくれるあまり即身仏になってしまったこの僕を。

 目から涙が溢れてきて、いよいよ三度目の大号泣タイムが始まると思った時だった。僕はふと背中が優しい小麦に包まれているような感触を感じたのであった。彼女だった。彼女が昨夜のようにベッドに入って来たのだった。僕は我に返り彼女を見ようと体を回転させた。彼女は暗がりの中僕に優しく微笑んでいた。僕はその彼女の笑顔を見て激しく自分を責めた。ああ!彼女はこんなにも心配してくれているのにお前は何故突き放すような真似をしたんだ!彼女は共にサッポロ一番を愛する仲間じゃないか!その彼女にあんな事を!
 その時彼女が僕に呼びかけてきた。僕はハッとして彼女を見た。
「ねぇ、あなたサッポロ一番ちゃんと初めて食べたのはいつなの?」
 いつってそれはおそらく子宮にいた頃から。同じようにサッポロ一番が好きの両親が毎日サッポロ一番を食べた後に事をいたしていた時から。つまり生まれる前からずっと。僕は彼女の問いを聞いて果てしなき過去に思いを馳せた。だけどこんな妄想をそのまんま喋っても彼女は完全に引いてしまうだろう。だから僕は現実でサッポロ一番のみそ味を食べた時の話から始めた。
「あれは……」と喋り始めたら完全に止まらなくなった。ひとくち喋るごとにサッポロ一番への愛が溢れ出してくる。ああ!初めて僕がサッポロ一番を食べたのは五歳の時だった。昼食の時父と母は全部食べ切れたらお小遣いやると言って僕にサッポロ一番のみそ味の入った小さなお椀を差し出したのだ。僕は小遣い目当てに恐る恐る箸でその見慣れぬサッポロ一番の麺を挟んで口に入れた。ああ!その味は今も覚えている!口に入れた途端僕は一度も行った事のない札幌の大草原に飛ばされたのだ。僕はその札幌の大自然の空気を深く吸い込みながら一気にサッポロ一番を平らげてしまった。僕はびっくりした顔の両親に向かって言ったものだ。「サッポロ一番のみそ買ってくるから早く小遣い頂戴」と。僕は溢れる思いそのままにサッポロ一番について語った。サッポロ一番と共に過ごした学生時代。恋人にサッポロ一番を作りすぎてうざがられてしまった恥ずかしい思い出。そしてサッポロ一番と過ごしてきた日々の出来事。彼女は僕のこの大長編小説にもなりそうなサッポロ一番物語を時々目を潤ませながら聞いてくれた。
 それから僕は昨日の繰り返しになるけどと一昨年の出来事について語ったが、そこで彼女は僕に「ごめん、ちょっと待って」と謝ってこう聞いてきた。
「あの、今の話なんだけど。一昨年もあなたはサッポロ一番ちゃんと離れ離れになったけど、結局札幌の街外れにある小売店でサッポロ一番のみそ味ちゃんに再会出来たんだよね?」
「そうだよ。奇跡としかいいようがなかった。まさかあんな田舎の店でサッポロ一番を見つけられるなんてさ」
「もしかしたらサッポロ一番ちゃん今もそこにいるんじゃない?」
 その可能性はずっと考えていた。だけど考えてみたら一昨年あの店に行った時サッポロ一番のみそ味は一個しかなく、しかも賞味期限寸前のものだったのだ。大体観光スポットにさえサッポロ一番は置いていなかったのだ。そんなサッポロ一番をあの田舎の店が仕入れるはずがない。
「無理さ。多分あの店にはもうサッポロ一番はいないよ。それに僕にはもう時間がないんだ。今日サッポロ一番を見つけられたら明日の昼あたりにどこかの草原で食べる事が出来て満足して東京に帰ることだってできたんだけど、あれだけ観光スポットをしらみつぶしにさがしても結局サッポロ一番は見つからなかった。明日あの店に行ってなかったら無駄足を踏んだ事になる。君には感謝し切れないぐらい感謝してるけどもういいんだよ。僕は自分の愚かしさのせいでこの札幌でサッポロ一番を食べることは出来なかったけど、君というサッポロ一番好きの親切な人に出会えた。それを思い出に残して明日札幌を去るよ」
 僕がこう言い終えると真向かいの彼女は無言で目を閉じた。自分でも喋っていて辛かった。元々自分が愚かだったせいで見失ったサッポロ一番を一緒に探してくれた人にこんな事を言わなきゃいけないなんて辛すぎた。ああ!馬鹿野郎!元々お前がしっかりしていればこんな事にはならなかったのに!
「あなたはそれでいいの?」
 僕は突然言われたその言葉にハッとして目を見開いた。彼女は僕をまっすぐ見つめていた。
「私のことなんてどうでもいいのよ。あなたは大事なサッポロ一番ちゃんと二度と会えなくてもいいの?もしかしたらサッポロ一番ちゃん、一昨年のようにあの店でずっとあなたを待っているかもしれないじゃない?あなたはあの子が大好きなんでしょ?ずっとあの子を食べてきたんでしょ。だったらあの子に会いにその店に行かなきゃ!きっとあの子そこであなたを待ってる。ずっとあなたに買われて食べられるのを夢見て待ってる。明日二人であの子に会いに行こうよ!大丈夫よ!絶対にあの子はそこにいるから!」
 彼女の熱い言葉に心が動いた。確かにサッポロ一番はあの店にいるかもしれない。一昨年のように賞味期限ギリギリになるまでずっと僕を待っているかもしれない。サッポロ一番に会いに行こう。そうなんだ。一昨年だって会える可能性なんてないのにそれでもサッポロ一番に会えると信じて見果てぬ草原へと旅立ったじゃないか。きっと僕らはまた会える。僕は彼女に向かって言った。
「ありがとう。僕は明日あの店に行くよ」
 すると彼女は涙を流して「ありがとう」と言った。そして明日もついて行っていいかと聞いてきた。僕は勿論いいと答えた。彼女はそれを聞いてすごく喜んでくれた。僕はその彼女を見ながらやっぱり不思議に思うのだった。どうして彼女は他人のサッポロ一番探しにここまで関わろうとするのか。どうしてサッポロ一番を自分の友達か妹のように語るのか。
 僕はそれから彼女と明日の行程を相談し、それが決まると早速レンタカーを予約した。

 夢の中に一昨年来た草原が浮かんできた。僕はあの時のようにレンタカーからキッチン台と鍋と材料を取り出してサッポロ一番を作ろうとしていた。だけどサッポロ一番のみそ味はない。僕はサッポロ一番を探してあちこち見回した。あれ?さっきサッポロ一番を車から出したのにどこに行ったんだ?全くボケるのには早すぎるぜなんて口に出しながらサッポロ一番のみそ味を探したが、全く見つからない。あまりに見つからないので僕は泣きそうになる。どこにいるんだよサッポロ一番。出てこなきゃ君を食べられないじゃないか。そうやってずっとサッポロ一番を探していたのだが、誰かが近づいてくる気配がしたので探すのをやめて顔を上げた。そこには今僕と同じベッドに寝ている彼女がいた。彼女は香水の代わりに小麦の匂いを振りまいて僕の元に歩いてきた。僕はなぜ君がここにと尋ねようとしたが、彼女はその僕に笑って話しかけて来た。
「あなたの探しているサッポロ一番私持ってるよ」
 どこにあるんだいと僕は彼女に聞いた。すると彼女はここにあるからとこちらに背中を向けて僕にワンピースのファスナーをおろすように言った。「私早くあなたに食べられたいの」
 僕は早くこの淫らな夢から覚めようと全身に力を入れて無理矢理飛び起きた。辺りはまだ真っ暗だった。彼女は隣で小麦の香りを放って幸せそうに寝ていた。僕はその彼女に向かって心の中で先程卑猥を見てしまった事を詫びた。それからまた僕は寝入ったが、しばらくすると今度は僕が一人でサッポロ一番を食べている光景が浮かんできた。場所はさっきと同じ例の草原で僕はジャガイモとキャベツとバターを入れたサッポロ一番のみそ味を食べていた。五月の札幌の草原の風を感じながら食べるサッポロ一番はなんて美味しいのだろう。僕は歓喜に咽んで天を仰いだ。その僕に向かって天はこう聞いてきた。
「サッポロ一番美味しかった?」

三日目

 夜明けと共に僕は目を覚ました。と同時に彼女も目を覚ましたようで二人はパチクリと目を合わせて笑った。まるで一晩を共に過ごした恋人たちのようであったが、実際にはただ同じベッドで寝ていただけにすぎない。だが僕は寝ている間も彼女を近しいものとして感じていたしそのようなシュチュエーションの夢も思い浮かべたのだ。僕らはベッドから出て部屋の窓から見える夜明けの札幌を見た。
 サッポロ一番のみそ味のように光る空の下で目覚めようとしている札幌の街。僕はこの光景に見とれて歓喜のため息を漏らした。彼女もこの光景をサッポロ一番のみそ味に重ねているのか潤んだ顔で呟いた。
「お空……まるでサッポロ一番のみそ味ちゃんみたい」
 彼女は腹ごしらえになんか食べたらとテーブルの上のカップラーメンを指差した。
「あなた昨日は何も食べてないでしょ?」
「君だって何も食べてないじゃないか」
「私はいいの」
 僕は何故と聞いた。すると彼女は俯いてしばらく黙ってからこう言った。
「ダイエット中だから!」
 そんなわけで僕はテーブルの上のサンヨー食品のカップラーメンの中から昨日と同じくカップスターのみそ味を選んだ。僕はお湯を入れて出来上がるまで待っていたが、ふと窓を見ると空はもうサッポロ一番のみそ味色から青へと変わり始めていた。僕はこの空を見て今日が札幌最後の日なんだと思って感傷的な気分になった。夕方になったら僕は再びみそ味の空を見ることが出来るだろう。だけどその時僕はもう千歳空港へと向かっている所だ。この札幌の地でみそ味の空をこれで最後なのだ。彼女がもう出来たんじゃないと僕に声をかけて来た。僕はそうだと相槌を打ってカップスターのフタを開けて食べた。やっぱりサッポロ一番のみそには到底及ばない味だった。だけど僕はこのカップスターのみそ味にサッポロ一番のみそ味とのつながりを見出だした。カップスターもサッポロ一番と同じサンヨー食品だ。だからつながっているんだ。このカップスターはきっとサッポロ一番のみそ味への道を示しているはずだ。だから早く出発しなければサッポロ一番を探しに!

 僕と彼女はチェックアウトするためにフロントに鍵を返しに行ったが、その時もフロントは行ってらっしゃいませと僕に型通りの見送りの挨拶をするだけで、隣の彼女には何の注意も払っていなかった。だけど僕はそんなことはどうでもいいと思った。今僕がやることはサッポロ一番を見つけるためにまずあの店に行くことなのだから。僕らはホテルを出るとまっすぐ昨日車を予約したレンタカーショップへと向かった。

 レンタカーショップに着くと僕は店の中に入って早速レンタルのための手続きをした。レンタカーショップの店員もホテルのフロントと同じように僕の隣の彼女に全く注意を払っていなかった。彼女が白のワンピースを着ているからだろうか。だけどその白のワンピースの胸元にはあのサッポロ一番のみそ味のビニールパッケージによく似た模様があるのだ。店員には彼女が見えているのだろうか。もしかしたら彼女のあまりに透き通るような小麦粉のような白い肌が眩しすぎて彼女が見えていないのかもしれない。だが今の僕にはこんな妄想にいつまでも浸っている暇などない。さっさとここからあの店へと出発してあの店へ行ってサッポロ一番のみそラーメンを連れて行かなくてはいけないのだ。僕は車を出してきた店員を運転席からとっとと追い出してスーツケースをそのままぶち込んだ。そして助手席のドアを開けて彼女を乗せるとアクセル全開にしてレンタカーショップから飛び出した。

 車が車道を走りだした時、黙って助手席に座っていた彼女があの店の場所の道は覚えているのかと聞いてきた。だが僕にはあの店の場所はわからない。あの時も何かに導かれてそのまま道を走っていただけだから、ハッキリいってあの店どころか、草原へ行く道さえ全く覚えていなかった。僕はそれを正直に話したが、彼女はそれを聞いて思いっきり呆れた顔で言った。
「何よそれ。迷子になったらどうするのよ。あなた今日中に東京に帰れないかもしれないじゃない。私は別にそれでもいいけどさ」
「でも一昨年だって全く同じような感じだったんだ。一体どこへ行くのかもわからなくて、だけどこのままいけばきっとサッポロ一番に会えるって確信だけで車を走らせていたんだ。だから今日もきっと僕らはあの店でサッポロ一番に会える」
「ホントに迷ってあの子に会えなかったらどうするの?」
 僕は彼女のストレートな疑問にたじろいた。
「い、いやその時は……」
「ゴメン、変なこと聞いて。とにかく早くサッポロ一番ちゃんのとこにいかなきゃね!」
 彼女は笑顔でこう言った。僕はその笑顔を見て何故か一抹の不安を感じたが、また馬鹿なことを考えるなと打ち消してアクセルを踏んだ。

 朝の札幌市はやっぱり東京と同じようであった。その風景は全国各地に点在するありきたりな地方都市のものであった。ああ!ここにはサッポロ一番がいつも味合わせてくれた札幌の姿などどこにもなかった。僕はこの札幌でサッポロ一番が受け入れられない理由がなんとなくわかった気がした。現実は常に進んでいくものだ。だけど夢や思いはいつまでもそこにとどまり続ける。サッポロ一番を作った当時のサンヨー食品の人たちはこの札幌の地で食べたラーメンの美味しさに感動して自分たちでこの味を再現しようとしてサッポロ一番を作ったという。

 だがこのサッポロ一番はこの札幌の地では全く受け入れられなかった。それはやっぱり現実は進むという悲しい事実のためだ。現実はいつまでもとどまってくれない。サッポロ一番に夢や思いを込めても現実はたちまちのうちにそれを過去のものとしてしまう。
 だけどそれでも夢や思いは必要なんだ。サッポロ一番はこの僕に夢や思いを味合わせてくれた。その夢や思いで僕は生きてこられた。だから今その夢や思いを味合わせてくれた感謝の気持ちを伝えるために僕はサッポロ一番に会いに行かなくてはいけないんだ!
「あなたの言う通りよ!」といきなり助手席の彼女が叫んだので僕はびっくりして横を向いた。彼女は目に涙をためていた。僕はどうやら今考えていた事をそのまんま呟いていたようだ。

 車はいつの間にか郊外を走っていた。僕はこの閑散とした風景を見て記憶の場所の入り口にたどり着いたことに気づいた。この道をまっすぐ行けば一昨年サッポロ一番のみそ味を見つけた店に行ける。道は遠い。だがルートは一本道だ。

 一本道とはいえやはり道は長かった。あまりに長すぎてもしかしたらループしているんじゃないかと思うぐらいだった。助手席の彼女は先ほどからずっと俯いて黙り込んでいた。僕は気になってどうしたのと声をかけた。しかし彼女は全く無反応だった。それで僕はもう一度声をかけたのだが、彼女はその途端びっくりした顔で僕を見てゴメン気づかなかったと謝ってきた。僕は何か考え事をしていたのかと聞いたが、彼女はただボッとしていただけと答えた。彼女の表情がなんだか暗いのが気になった。彼女はあの店にサッポロ一番がなかった時の事を考えて不安になっているのだろうか。僕はそう考えて彼女に申し訳なく思った。その彼女のためにもサッポロ一番は絶対に探さなきゃいけない。僕は彼女に向かってサッポロ一番は絶対にあの店にいるからと声をかけた。彼女はそれを聞いて笑顔でこう答えた。
「うん、絶対にいるよ。早く会いに行かなきゃね」

 だけど現実ってやつは時にあっさりと人の夢や思いを裏切る。コンビニで買ったカップラーメンのお湯を入れにポットのボタンを押した人間に、このポットにはお湯が入っていないという事実を冷酷に突き付けるのだ。
 車はあの店のある場所まで確実に近づいていた。だけど辺りは何かおかしかった。とは言っても風景は一昨年とほとんど変わっていなった。新しい看板が一つか二つ立っていただけだ。僕は車が店に近づいていくごとに胸が高まってくるのを感じた。彼女はそんな僕に気づいたのか。「もう少し、もう少しでサッポロ一番ちゃんに会えるのね」と聞いてきた。会えるさと僕は答える。そうだもう少しで会えるんだ。僕の、いや僕らのサッポロ一番に。じきに見えてくるだろう。一昨年サッポロ一番のみそ味を見つけたあの店が。
 しかし前方にはあの店は見えなかった。代わりに高い雑草の茂みが見えるだけだった。僕は勘違いかと思って周りを見たが、一昨年とほとんど変わらない風景がそこにあった。
「どうしたの?お店はもうすぐなんでしょ?」
 彼女がこう聞いてくる。だけど答えようがない。なぜ忽然とあの店は消えてしまったのか。現実的にいえば店は廃業してテナントが取り壊されたのだろうが、僕と彼女にはそんなものは関係ない。
 僕は店があるかちゃんと確認しようと、かつて赤い建物があったあたりに車を止めて店を探した。だけどそこには雑草の生い茂った空地があるばかりだった。店の痕跡などどこにもありはしなかった。僕らの夢や思いは無情にも消えてしまっていた。かつてサッポロ一番が隠れていた店は完全に消え、青々しい雑草に取って変わってしまったのだ。

「一昨年は確かにここに店があったんだ。今じゃ何もないけど……」
 僕は車の中から店のあった空地を指さして彼女に言った。すると彼女は無表情で空地を見てただ一言「そうなんだ」とつぶやいた。
 まさかこんなどうしようもない現実を突きつけられるとは思ってもみなかった。サッポロ一番どころか店までなくなっていたなんて。サッポロ一番はここにいるはずだと思ってきたのに。あの時のように店の奥にこっそり隠れていると思っていたのに。
 涙すら出なかった。だけど僕は受け入れなきゃいけないんだ。このサッポロ一番がいないという現実を。彼女はただ無言で雑草しか生えていないこの空地をずっと見ていた。僕は今まで僕のサッポロ一番探しに付き合ってくれた彼女に申し訳ないと思った。ここでサッポロ一番が見つかれば僕らはあの草原で二人でサッポロ一番の袋を開けて最高のサッポロ一番のみそ味を作ることが出来たのに。僕らのサッポロ一番を探す旅もこれで終わりだ。僕は彼女に向かってありったけの感謝の言葉を言った。
「僕のサッポロ一番探しの旅に付き合ってくれてありがとう。このサッポロ一番を誰も食べない札幌で君のようなサッポロ一番を愛する人に逢えて本当に良かった。結局サッポロ一番は見つからなかったけど、それでも君というサッポロ一番好きの人間に会えた。今回はそれを思い出にしてこの札幌から去るよ。もう一度礼を言うよ。僕は君の事はずっと忘れないよ」

 僕が語り終えると助手席の彼女は俯いて黙り込んだ。そして無言のままじっとしていた。ひょっとして彼女は昨日の夜みたいにまだあきらめないでと言うかもしれない。だけどもうすべて探し尽くしたのだ。ここまで探してもいないということは、少なくとも僕の行動範囲にはサッポロ一番はいない。もし後でどこかでサッポロ一番が見つかったとしても僕が結局サッポロ一番に選ばれなかったということなのだ。さぁ、もう出発の時間だとハンドルを握ろうとした時、彼女がふいに僕の方を向いた。
「あ……あの、実は私サッポロ一番のみそ味ちゃん一個持ってるんだ」
 彼女が静かに放ったこの言葉を聞いた瞬間、あまりの驚きに一瞬思考が止まった。僕は彼女を穴が開くほど見つめて彼女の反応を待った。彼女は僕のびっくり顔を見てか宥めるように笑顔でまた口を開いた。
「ていっても賞味期限が今日のサッポロ一番ちゃんなんだけど、良かったら食べる?」
 彼女の言葉に僕はまだ驚いていた。サッポロ一番を持っているとはどういう事だろうか。彼女は今の今までサッポロ一番を持参しているなんて一言も言わなかったじゃないか。もしかして深夜にこっそり外出してどっかのコンビニでサッポロ一番を手に入れたのか?いや、それはありえない。あんな他県向けの観光名所にさえサッポロ一番はいなかったのだ。それなら一体彼女はどこでサッポロ一番を手に入れたのだ。賞味期限が本日のサッポロ一番なんて一昨年とまるで同じじゃないか。
「やっぱりイヤだかな……。賞味期限当日のサッポロ一番ちゃんなんて……」
「イヤじゃないよ。一昨年だってここで買ったサッポロ一番も賞味期限当日のものだったんだから。だけどなぜ君は……」
 僕はここで言葉を詰まらせた。僕を見つめる彼女の眼差しがすごく不安気だったからだ。僕はその眼差しを見て彼女がどれほどサッポロ一番を愛しているかを改めて感じた。彼女は今その自分の愛するサッポロ一番を僕に譲ろうとしている。何故そんなに大事にしているものを僕に譲ろうというのか。彼女には尋ねたかったが、何故それを聞くのに躊躇いが出てしまった。
 僕は彼女の好意を遠慮せずに受け入れようと思った。彼女はこんな僕のために今日までずっと一緒にサッポロ一番を探してくれたじゃないか。そして哀れな僕に自分のサッポロ一番をプレゼントしようとまで言ってくれた。貰わない理由なんかない。むしろ貰うべきなんだ。貰って調理してそして最高のサッポロ一番のみそラーメンを作って彼女に分け与えたらいい。それが彼女に対する僕のせめてもの礼だ。
「君がなんでサッポロ一番を持っているかなんて聞かないよ。君のサッポロ一番ありがたく頂戴するよ。ところでそのサッポロ一番はどこにあるんだい?」
「大丈夫だよ」と彼女は答えた。そしてこう付け加えた。
「ちゃんと肌身離さず持っているから」
「そうか」と僕は相槌を打った。そして彼女に言った。
「草原に着いたら二人で一緒に君のサッポロ一番を食べないか?調理は僕が全部するから君はただ待っていればいいさ」
「ええ〜っ!私は何もしないの?私だってサッポロ一番ちゃんのために何かしたいよ。この子が美味しくなるようにしてあげたいよ」
 彼女はそう言って笑った。眩しい笑顔だった。小麦粉のように白く透き通る、そんな笑顔だった。

 僕らを乗せた車は果てしなく長い一本道を進んでいた。だがここまできたらもう草原はすぐだった。ここをまっすぐいけば僕らは自然に草原に導かれる。この茫漠とした広がりの向こうに草原があるのだ。彼女は目を潤ませて「もう少しなのね。もう少しであなたの草原に行けるのね」と呟いた。僕はそうだと答えた。すると彼女はハンドルを握る僕の腕を握ってきた。僕はハッとして彼女を見た。彼女は明らかに震えていた。それは歓喜のあまりであるのか、緊張のためであるのか、それとも両方であるのか。それは僕にはわからない。だけど彼女の視線はずっと前を見ていた。この道の果てにある草原を。

 その時突然僕らは光に包まれた。雷か、あるいは直射日光をまともに浴びただけか。僕は目が眩んで思わずブレーキを押した。そして僕は見たのだ。目の前に広がる緑一面の草原を。草原は二年前と全く変わっていなかった。全く同じようにそこにあった。まるで僕とサッポロ一番を待っていたかのように。太陽は燦々と輝き、青空はどこまでも突き抜け、草原は青々しく芽生えている。ここはあの草原だ。
「ここが一昨年あなたがサッポロ一番ちゃんを食べた草原なのね」
 彼女は歓喜に目を潤ませながら僕に尋ねた。僕はそうだと答える。ああ!どこまでも広がるこの草原で再びサッポロ一番を食べられるなんて。しかも今回は一人じゃない。この彼女だっているんだ。僕は彼女に車を降りようと声をかけた。

 車から降りて僕は早速サッポロ一番を作る準備を始めたのだが、彼女は自分も手伝いたいと言ってきた。といっても女の子に力仕事をさせるわけにはいかないから、とりあえず水筒の水でじゃがいもとキャベツを洗ってくれと頼んだ。だが予想通りというかなんというか彼女は恐ろしく不器用だった。彼女はキャベツやじゃがいもを落としまくりせっかくの水を無駄にした。僕は慌ててやっぱり君は何もしなくていいと彼女を止め、車から折りたたみのチェアーを出してそこに座らせた。彼女は膨れっ面でせっかく人が手伝ってやろうとしたのにと文句を言っていたが、僕はこれもサッポロ一番のためと思って黙って耐えた。
 準備が出来ると早速下ごしらえに入った。まず水を入れた鍋に洗ったじゃがいもを入れると、それをガスコンロの上に乗せて火をつけた。それから僕は包丁でキャベツをザク切りに切り始めたが、チェアーに座っていた彼女はその僕を見て「すご〜い!」と感嘆の声を上げた。僕はその彼女を見てやっぱり手伝わせなかくて正解だったと思った。
 それから僕らはじゃがいもが茹で上がるまでテーブルで待っていたが、その時彼女がどこか悲し気な表情で深い息を吐きながらこう呟いた。
「もう少しだね」
「もう少し?」と僕はおうむ返しで尋ねた。
 すると彼女が何かを誤魔化すように笑って答えた。
「ハハ、もう少しでサッポロ一番ちゃん食べられるってことよ!今サッポロ一番ちゃんも待ちきれないって言っているよ!」
 そのサッポロ一番はどこにいるんだい?僕はこう聞こうとしたが、何故か言葉が出てこない。聞いてしまったら全てが終わってしまう気がして……。その時彼女が僕の肩を叩いて声をかけてきた。
「じゃがいもちゃん、茹で上がってるんじゃない?」
 僕は慌てて鍋の中のじゃがいもをチェックした。どうやら崩れてはいないようだった。箸を通し見たらちょうどいい感じの茹で上がりぶりだった。僕はじゃがいもを鍋から取り出してまな板に乗せると今度はキャベツを軽く茹でる事にした。キャベツが茹で上がる間に茹でたじゃがいもを切り、間もなくしてキャベツが茹で上がるとそれを鍋から取り出してそれもまた板の上に乗せた。こうしてサッポロ一番のみそラーメンの下ごしらえは終わった。

 さて、こうして全ての準備が終わり、いよいよサッポロ一番の出番となった。僕は最終段階を目の前にして急に緊張してきた。たかがラーメンを作るのにこんなに緊張するなんておかしな事だ。きっと彼女がいるせいだろう。彼女の視線が僕にプレッシャーを与えているに違いない。そうなんだ。今から作るサッポロ一番のみそラーメンは僕だけが食べるんじゃない。二人で食べるものだ。だから最高級に美味しいものを作らなくちゃいけない。彼女の肌のような麺と朝焼けと夕焼けのようなみそスープが輝く最高のラーメンを。
 僕は彼女に向かって準備が出来たから君のサッポロ一番を出してくれと言った。しかし彼女は急に暗い顔になって僕から身を引いた。僕はこれを見て彼女が嘘をついていたのだと思った。何のためにこんなすぐバレるような嘘を。いや勿論僕を落ち込ませないためだ。サッポロ一番をなくした僕にせめて草原でも見せて慰めてあげようと思ってこんな嘘をついたに違いない。だけどそんな嘘は却って人を悲しくさせるだけなんだ。僕は彼女の言葉を待つしかなかった。彼女が正直に嘘をついていたと告白したら、僕は彼女の嘘を許すだろう。許して彼女に改めて感謝の言葉を述べるだろう。僕は彼女を見つめてその時を待った。
 だけど彼女は黙ったまま突然立ち上がって僕に背を向けた。まさか彼女は僕から逃げるのかと思った瞬間だった。彼女はこちらに振り返ってこう言ったのだ。
「サッポロ一番のみそ味ちゃん服の中にあるから背中のファスナー下ろして……」
 あまりに衝撃的な言葉だった。全く意味さえわからなかった。どういう事なんだ。まさかサッポロ一番がホントに彼女が着ているワンピースの中にあるとでもいうのか。それとも彼女はサッポロ一番の代わりに自分を僕に捧げるというのか。頭が沸騰し即席麺のシワが入った脳みそが茹で上がる。僕は真意を確かめるために思いっきり彼女を凝視した。君は一体何を考えているんだ。
 彼女はそのまま背中越しに僕を見つめていた。その潤んだ目を見ていると僕の疑念が下らないように思えてきた。彼女が今僕に大事なものを捧げようとしているのは事実なんだ。それがサッポロ一番でも他のものでも。僕は勇気を出して手を彼女のワンピースに近づけた。
「そのまま思いっきり下ろしていいから」
 彼女は再び僕に背中を向けてそう言った。彼女は震えていた。その震えっぷりをみていたら躊躇いが生じてきた。でも彼女の思いはしっかりと受け取らなきゃと決意して僕は彼女のファスナーに手をかけた。

 ファスナーに触れた瞬間、僕はそれがあまりにペラペラなのに驚いた。どう考えてもアルミなんかじゃない。これはビニールじゃないか。この感触はあのサッポロ一番のビニールパッケージそのものじゃないか!真っ白のワンピースの胸にあるサッポロ一番のみそ味のビニールパッケージによく模様。その全身から放つ小麦の匂い。そしてこのビニールパッケージの感触。僕は驚きのあまり目を剥いて彼女を見た。君はまさか……。僕は今までの彼女の行動や発言を思い返して考えた。彼女は何故かホテルのフロントや観光場所の警備員やレンタカーショップの従業員に認識されなかった。彼女が一昨日語った自分のヒストリー。それは今冷静に読めばサッポロ一番が開発されるまでのヒストリーそのまんまではないか。彼女のサッポロ一番に対する態度。それはまるで肉親に対する態度そのものではないか。彼女の放つ小麦の匂い。それはまさにサッポロ一番のみそ味の即席麺そのものだった。ああ!こんなこと信じられない!幽霊なんか信じない僕にこんなこと信じろって言われても無理だ!彼女は勿論幽霊ではない。だけどそれ以上にありえない存在だ!まさか彼女がサッポロ一番そのものだったなんて!
 僕はファスナーから手を放してがっくりと項垂れた。そうなのだ。彼女は人間じゃなくてサッポロ一番だったのだ。だから彼女はあの時サッポロ一番は自分が持っているって言ったんだ。持っていて当たり前じゃないか。自分がサッポロ一番そのものなんだから。
「どうしたの?何でファスナー下ろさないの?ファスナー下ろして私を裸にしないとサッポロ一番食べられないよ」
「食べるなんて出来るわけないだろ!僕が食べたら君は完全に消えてしまうじゃないか!今、やっと君の正体がわかったよ。君は、君はサッポロ一番のみそ味なんだろ!?」
「そうよ。あなたの言う通りよ。私、これでもちゃんとしたサッポロ一番のみそ味なの。大分劣等生だけどね」
 僕は頭がおかしくなりそうだった。今彼女の口から僕の推測が全く正しいことが裏書されたのだ。僕は今現実にいるのだろうか。信じようたって信じられるはずがない。今まで人間だと思っていた彼女が実はサッポロ一番だった。こんなぶっ飛んだ話どこの世界にあるんだ。
「自分の事を冗談めかして語るはやめろよ!僕はホントに何だかわからないんだよ!今まで一緒にいた女の子が実はサッポロ一番だったって知って普通でいられる人間がどこにいるんだよ!大体君はわざわざ僕のところに現れたんだ!スーパーかコンビニの売り場で大人しく待っていれば誰かが買ってくれたじゃないか!」
「みんなが買ってくれたらわざわざ人間の姿になって街中を彷徨いてなんかいないよ!」
 彼女は僕に向き直ってこう叫んだ。僕は彼女の言葉に胸を打たれた。彼女は僕に向かって言った。
「だから私暗い倉庫から逃げ出したのよ。さっきも言ったけど私賞味期限ギリギリだったからあとは廃棄処分を待つだけだった。私、他のサッポロ一番ちゃんたちと一緒に泣きながら自分の運命を呪った。ああ!せっかくサッポロ一番として憧れの札幌デビューしたのに誰も振り向いてくれなかったんだもの。札幌の人たちは私たちサッポロ一番を無視して他の日清のラーメンや明星の即席麺買っていった。スーパーの人たちはいつも私たちをこんなパチモンいくら値引きしても札幌の人間は誰も買わねえよなんて私たちを罵倒してた。半額でも七割引きでも私たちは売れなくて、もう捨てようって事になってとうとう暗い倉庫に閉じ込められたの。そうしているうちに他のサッポロ一番ちゃんは賞味期限が来たからってみんな知らない所に連れてとうとう倉庫のサッポロ一番は私だけになっちゃった。私このまま誰にも食べられずに廃棄されるなんて嫌だって泣き叫んだの。せめて無料でも誰かに食べられて生涯を終えたいって。そしたら奇跡が起こったの。私は突然人間の姿になっちゃったの。私人間の姿になれたことが嬉しかった。今までただ買ってくれる人を待つばかりだったけどこれからは食べてくれそうな人を探せるって。他の廃棄処分になったサッポロ一番ちゃんのためにも私サッポロ一番として絶対に食べられて生涯を終えたいって思ったの。だから人間の姿になったらすぐこの札幌を廻って私を食べてくれそうな人を探したわ。だけどいくら探しても私をサッポロ一番を食べてくれそうな人はいなかった。顔にでっかく『ラーメンは好きだけど、サッポロ一番には興味はないぜ』とか『札幌じゃサッポロ一番なんておよびじゃないんだよ』なんてスカした書いてある人ばかりだった。だけどあなたは違ったの。なぜか頭に大量のワカメとゴミをかぶって街中を彷徨っていたあなたの顔には誰よりも太く大きい字で『サッポロ一番大好きです!』って書いてあったの。そのあなたの顔を見た瞬間この人になら食べられていいと思った。この人に食べられたら幸せに成仏できそうだって思ったの。だから私あなたをつけてホテルに入ったの」
「それであの夜君は僕の部屋を訪ねて来たのか……」
「そうよ」と彼女は答えた。そうだったのか。そういうことだったのか。僕は一昨日彼女が部屋に訪ねて来た時の事をいま改めて思い返した。彼女は最初から僕に食べられるつもりで僕の部屋に来たのだ。まったくなんてことだ。
「だけど私あなたと話してやっぱり自分みたいな賞味期限寸前の年増サッポロ一番なんか食べさせちゃダメだって思い直したの。あなたは私思うより遥かに本気でサッポロ一番を愛してくれていた。この札幌でサッポロ一番ちゃんと最高の思い出を作りに来てくれているんだってわかった。そんなあなたに私みたいな年増を食べさせるわけにはいかないって思って、それで私あなたにサッポロ一番ちゃんを一緒に探そうって言ったの。若いサッポロ一番ちゃんが見つかったらあなたに食べてもらおうって思って。私はその若い子を美味しそうに食べるあなたを見ながら成仏できればいいかなって思ってた。だけどサッポロ一番ちゃんはどこにもいなかった。観光地にいるんじゃないかと思ってたけど、そこにもいなかった。そしてあなたから話を聞いてもしかしてそこにサッポロ一番ちゃんいるかもって訪ねたあの店はもうなくなっていた。私、サッポロ一番をここまでして探してくれるあなたをずっと見てやっぱり私が食べられてあげなきゃって思ったの。賞味期限切れ当日の私なんかじゃあなたの心は到底癒せないと思うけど、でも他の子はもう札幌にはいないし……」
 とここで彼女は話を止めて僕をじっと見て、そしてこう言った。
「お願い!私を食べてください!」
 今目の前に立っているのはどっからどう見ても人間の女の子だった。その子が自分を食べてなんて正気でないことを懇願している。だけど彼女は人間ではなくサッポロ一番なのだ。彼女はサッポロ一番として当たり前の事を言っている。自分を食べてくださいなんて。でも僕にそんなことは出来るはずがない。だって目の前にいるのは人間じゃないか。こんなにかわいい女の子じゃないか。出来るはずがない!君の正体がいくらサッポロ一番だったとしても僕に君を食べるなんてことはできない。
「やっぱりこんな賞味期限当日の死にかけの年増女なんてイヤなの?」
「ち、違うよ!そういうことじゃ全然ないんだ。賞味期限とかそんなことどうでもいいんだよ!美味しいサッポロ一番を食べられるものならいくらだって食べるさ。だけど君は絶対に食べられない。君を食べたら君には二度と会えないじゃないか!僕はただ君を失うのが耐えられないだけなんだ!何故ならば、僕は君を好きになってしまったからだ!」

 僕は衝動的にとんでもないことを口走ってしまった。ああ!なんてことを言ったのだろう!全くバカげたことを言ったものだ!彼女はあくまでサッポロ一番なのに!彼女は僕の突然の愛の告白に驚いて目を剥いた。驚かせてごめんよ、だけど僕だって驚いているんだ!まさか食べ物に本気で恋をしてしまうなんて!だけどこの気持ちは本当なんだ。僕は君を失いたくない。君をこのまま東京に連れて帰ってずっと一緒に暮らしたいんだ。
 彼女はその僕の視線に耐えられなかったのか突然俯いた。顔がまるでみそ味のように真っ赤だった。彼女は恐らく愛の告白なんて初めて受けただろう。当たり前だ。彼女は人間じゃなくてサッポロ一番なんだから。しばらくしてから彼女は再び顔を上げて僕にこう言った。
「あ、ありがとう。告白されるなんて初めてだったからホントにびっくりしちゃった。あなたの気持ち嬉しいよ。私が人間だったらまっすぐあなたの胸に飛び込んでいたかもしれない。……でも私はサッポロ一番なの。茹でられて食べられるために生まれた即席麺なの。私たちサッポロ一番は誰かに食べられるために生まれて来たの。私も工場で生まれた日からずっと誰かに食べられる日を夢見て来た。だけどこの札幌ではそこに現れたのがあなただった。あなたを見つけた時本当に涙が出るぐらい嬉しかった。こんなにサッポロ一番を愛してくれる人がこの世界にいたなんてって!私はあなたに食べられたいの!この体を全てあなたに捧げたいの!それが私のあなたへの愛なの!ねえ、お願い!私をそんなに思うなら私を食べてすべてを満たして!それがサッポロ一番の私にとって一番うれしいことなんだから!」
 彼女の言葉を聞いて涙が出て来た。サッポロ一番の彼女がこんなにも僕を思っていることが凄く嬉しかった。勿論彼女に、せっかく人間の姿になったのだからこのまま人間のふりをして過ごせばいいじゃないかって説得することは考えた。だけどそれがサッポロ一番として生まれた彼女にとって幸せなことなのか。サッポロ一番として生まれた彼女の幸せは何か。それは僕に食べられたいと真剣なまなざしで懇願してきた彼女を見ればわかるじゃないか。僕の答えは一つしかなかった。
「わかった。……僕は君を食べるよ」
「ありがとう」
 そうして彼女は再びこちらに背中を向けた。僕は再びビニールパックのファスナーに手をかけた。このビニールパックのファスナーを破ったら人間としての彼女は消えてしまう。彼女はその瞬間にサッポロ一番のみそ味に戻ってしまうのだ。僕は最後に彼女に別れの挨拶をした。
「短い間だったけどありがとう。僕は君のことを一生忘れないよ」
 すると彼女は小麦粉のような眩しく笑って答えた。
「バカね、もっと言うべきことがあるでしょ。私は今からあなたに食べられるのよ。美味しくいただきますとかちゃんと言ってよ!」
「ゴメン、肝心なこと忘れていたね。君をちゃんと最高のサッポロ一番のみそラーメンにしてあげるから安心して旅立ってくれ。僕のじゃがいもとキャベツとバター入りのサッポロ一番のみそラーメンはほんとに美味しいんだぜ。じゃあここでさよならだ」
 その僕の挨拶を聞いて彼女はゆっくりと頷きそして僕にこう言った。
「本当にありがとう。私今世界で一番幸せだよ。大好きな人に食べられるんだから。でもこれでさよならじゃないよ。私たちサッポロ一番はあなたがサッポロ一番を食べ続けてくれる限りずっとあなたのそばにいるから。永遠にずっと。さっ、このまま延々こんなことやってたらあなた東京に帰れなくなるよ。さっさとビリって私の服を破っちゃって!」
「わかったよ」
 僕は泣きながら手に力を込めた。彼女のファスナーはずるずると降りていき、その下の美しい小麦粉色の背中が露わになった。だけどその背中から波上の模様が浮いてきた。これはサッポロ一番のみそ味の即席麵だ。今人間としての彼女は消えようとしていた。彼女の背中がだんだん透明になっていった。その消えゆく中彼女は僕の方を振り返った。
「さよなら……またね」
 そして彼女は完全に消えた。

 そして僕の手の中に即席麺がむき出しになったサッポロ一番のみそ味が残った。これが彼女が僕に食べられたいと願ったありのままの姿なのだ。これが生まれたままの彼女の姿だった。僕はサッポロ一番の姿に戻った彼女を慈しむように抱きしめた。彼女の姿はとても今日が賞味期限とは思えないぐらい若々しく涎が出そうなほどおいしそうだった。僕は彼女を抱きながら鍋の方へと向かった。早く彼女を最高のみそラーメンにしてあげるために。

※※

 これで僕と彼女の物語は終わりだ。僕はその後出来上がったサッポロ一番のみそラーメンとなった彼女を食べた。このみそラーメンは麺からスープまですべてが彼女だった。確かに彼女の言う通りだと思った。離れ離れになったとしても僕と彼女はまた会うのだ。こうしてサッポロ一番を食べている限りきっと僕らはまた会うだろう。人間の彼女とは恐らく二度と会えないだろうが、サッポロ一番の彼女にならいつでも会える。僕はこれからもサッポロ一番を食べ続けてゆくだろう。一生僕とサッポロ一番の彼女の物語は続いて行くのだ。その時どこからか彼女と似たような声がした。その声は僕にこう尋ねていた。
「サッポロ一番美味しかった?」

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