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短編小説 『人生ランナー』



はっ...はっ...はっ...はっ...はっ...

規則的な自分の呼吸音だけが頭蓋にこだまする。
素人に毛が生えた程度の市民ランナーの私は、5kmを過ぎるともう息が上がってくる。いつもならとっくに切り上げて、さあひとっ風呂浴びてビール、といくところだが、今日はここでやめるわけにはいかない。

...何としても、一刻も早く、コースをもう1周しないと。

私が走っているのは都内の広大な公園のランニングコース。
選ぶコースにもよるが、私が今日選んだのは1周あたり1.5kmという一番標準的なものだった。コースの途中にある花壇に綺麗な秋桜が咲いていて、見る度に疲れが一瞬忘れられる、という単純な理由でこのコースに決めた。

走り始めて二つ目の大きなカーブを曲がった。
ストライドを大きく、直線時よりも減速しないよう意識をしながら駆け抜ける。

コース横に設置されているベンチに、高校生と思しき男女が仲睦まじい様子で座っているのが見えた。二人のはにかむ笑顔が私の心の端っこをくすぐる。若い男女のペアなど、この公園では極めて一般的な光景だ。社会人になってしばらく経った私からすると、高校時代などもうだいぶ昔のことのように感じるが、自分にもこんな、甘酸っぱい青春時代があったっけな。
そんなことを思いながらカップルを横目に走り抜けた。



コース2周目に入り、同じく二つ目の大きなカーブを曲がると、先ほどと同じベンチが見えた。
今度は大学生くらいのカップルが座っている。手に持つホットコーヒーで暖を取りながら二人で楽しそうに話をしている。先程の高校生はもう移動してしまったのだろうか。
身体が暖まってきて、頰で感じる風が心地良くなってきた。


**


私がかすかな異変に気づいたのは3周目のことだった。
ベンチには、スーツ姿が様になる社会人風の男と、髪の長い清楚な雰囲気の女性が座っていた。男性は女性に何か小さな物を手渡し、女性は目の端に涙を浮かべている。
鈍感な私でも分かる。彼と彼女は、たった今、これから一緒に生きていく誓いを立てたのだ。

遠くから姿を捉えて、彼らの横を通り過ぎるまで、長く見積もってもほんの二十秒程度。
凝視するわけにもいかないが、こうもカップルばかりが目に入ってくると嫌でも顔を見てしまうというものだ。

1周目と2周目に見た男女と、目の前で結婚の契りを立てている二人は、とても似ていた気がした。

いや、同じ人物ではなかったか。

まさかな、と思いながら再び視線を前に戻し、脚を前へと進める。


***


疑惑が確信に変わったのは次の周回だった。
4周目、同じベンチには、両親と思しき男女と小さな子ども一人が並んで座り、楽しそうに笑い声を上げていた。

両親は少し歳を重ねているように見受けられるが、先程私が見ていた男女たちと間違いなく同一人物だった。


驚いたことに、どうやら私は、このコースを周回するごとに彼らの人生を早回しで目撃しているようだった。

何かのドッキリではないか。そう思い辺りをキョロキョロと見回してみるが、時間は夕暮れ時、人もまばらになってきている。ここまで大掛かりな戯れを、わざわざ私のような一個人に仕掛ける意味が見当たらない。自分に起きている不思議な出来事をにわかに信じられないまま、私は次の周回へと進んだ。



****


5周目。
ベンチには、割腹のよくなった父親と、綺麗に年齢を重ねた母親と、成長した長男と、娘と思しき小学生くらいの女の子がベンチの前で遊んでいた。

幸せという言葉をそのまま形にしたような、そんな4人の光景。見ているだけで、脚の疲れが飛んでいく。自分に起きている不可思議な現象のことはいつの間にか頭の端の方へと追いやられ、気付けば私は彼らの姿をもう一度見たい、その一心で走るようになっていた。



*****


6周目。両親によく似た若い男女がベンチの前に立ち、座った両親を心配そうに見つめている。
父親は、前周で見たときとは同じ人物とは信じ難いほど、痩せ細っていた。
何があったのかは分からないが、ひと目見て、彼の体調に異変が起きていることが見て取れた。
妻が夫を気遣うように下から顔を覗き込んでいる。

何を話しているのだろうか。
余程立ち止まって、彼らに話しかけたいと思った。
でもただの通りすがりである私が一体何をどう話しかけられるのか。
あなたたち家族の歴史を、私はずっと見てきていますとでも言うのか。
信じてもらえるはずもない。
百歩譲って信じてもらえたとして、その私に一体なにができるというのか。

私には走り続けることしかできなかった。
彼らの行く末を見守ることしかできなかった。
脚はとうに疲れ切っている。息も上がっている。

はっ...はっ...はっ...はっ...はっ...

...何としても、一刻も早く、トラックをもう1周しないと。



******


遂に7周目、9kmを走り切った。普段の私ならとうに音を上げている頃だ。いつものカーブに差し掛かる。脈打つ鼓動と呼吸音がやけに大きく感じるのは、きっとオーバーワークによるものだけではない。

ベンチを視界の隅に捉えた。
駆け回る孫を目を細めて見つめる、歳を重ねた女性の姿があった。
隣に私が知っているくしゃっとした笑顔の男性の姿はなかった。
代わりに彼の顔によく似た息子と、その妻と思われる若い女性の姿が目に映った。
この家族の人生から、彼がいなくなってしまったことを突きつけられたようだった。

父親によく似た笑顔の息子が、小さな子どもを抱き上げている。
年老いた女性は、いつかのときのように、いや、いつかのときよりもずっと多くの皺を刻んだ目の端に、涙を溜めて微笑んでいる。


私はベンチを通り過ぎ、ストライドをより一層大きくして駆けていった。彼らは皆笑顔だった。あの男の人もきっと喜んでいることだろう。
汗が頬を伝う。私は脚に力が戻るのを感じた。

ラストスパート、秋桜が綺麗な花壇まで走り切ろう。
これまでで一番の力を振り絞り、私はスピードを上げた。





*******



なんとも不思議な気持ちだ。
子どもの頃からよく家族で来ていた公園に今日は自分の息子を連れて遊びに来ている。

父が死んで1年。塞ぎがちだった母を半ば強引に連れ出した。

きゃっきゃと声を上げて走り回る息子を、母は目を細めて嬉しそうに見てくれている。


「どうしたんですか、お義母さん」


母が目の端に指を当てていることに気づいた妻が、声をかける。


「ごめんなさいね、昔からよく来ている場所なものだから。
つい、あの人のことを思い出してしまって。」


母はそう言いながらも、嬉しそうな、優しい笑顔をしていた。


やわらかい風が、落ち葉を巻き上げて吹き抜けていった。

なんの風だろう、と皆で沿道の方を見やるも、
遠くで父が好きだった秋桜が小さく揺れているのみだった。




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