透明な存在であることについて

透明な存在であることについて、以前、神戸で連続殺人を犯した少年犯が自分が「透明な存在」であることを憎み、「透明な存在」であることから脱出するために世間からたとえ憎悪の視線を向けられようとも、その殺人という行為を止められなかったのではないかという考察をどこかで読んだ。
自分が「透明な存在」であること。それは自分が誰からもまなざされず、あるいはまなざされても無視され、自分の存在をきちんと周囲から認知してもらえないということなのだろう。
また、人は周りの人の「いいね」を希求することが普通であって、その「いいね」を希求できないこと、そこにも何らかの病理があるのではないかということを思考したことがあった。
「いいね」がなければ、多くの人は生きていけないし、「いいね」による相互承認によって自分の存在についてまた相手の存在について認め合いながら進むことができる。
「いいね」というものは多くの場合必要なのだろう。

私の場合、解離性幻聴と思われる幻聴が聴こえている。それはアルターエゴの思考のようである。そのアルターエゴという存在について自分では認識している。いわゆる「もう一人の自分」である。
分身的にその幻聴が聴こえる。また、その分身の思考を書き取ることもできる。

このブログにおいても、その分身の思考を書いている時があっただろう。
私にとってそれは分身であるのだが、それは内面において聴こえる声の存在がそのように自分の内面であるいは内面と外面の間で思考を展開しているということになる。
内面と外面の間で思考を展開する、それは自己のトポロジーからは正確に外れたところで思考を展開しているのか。
それとも自己それ自体が二重化しているのか、それは分からないけれども、自分のなかで何か心の中においてもアイデンティティが二分化しているように感じられる。

そのことを自分でどう認識していけば良いのかと思うけれども、自分で認識することは実際にはどのようにして可能になるのだろうか。

自分というものが〈私〉として組織されることが、社会のなかで生きていくうえで必要であるなら、その〈私〉というものを組織されていくようにして思考を展開していくことを必要なこととしてしていく必要があるのではないかと思う。

〈私〉というものが組織されていくように。その点において何らかの障害があったのだろう。〈私〉という言語という他者(共同体)と自己の間の分裂を正しく抱え込むような、つまり正常な自己分裂を抱えた存在として生きるということは、他者(共同体)の言語を使えるようになることと類比しているのだろう。
その点、自分はウィトゲンシュタインの「私的言語」のようなものを使っていたのかもしれない。

その点で私のブログ自体、「私的言語」のたれ流しのようなところが一部であり、その点、申し訳ないと思います。

実際に自分というものがどのようなものであるのかということについて、それは思考していかなければいけないのでしょうが、実際に、社会において相互承認のなかに入っていくこと自体が私にとって難しいことであって、一時期までは例えば実名のSNSでいいねをもらうことも間々あったのですが、研究の世界から離れてから、そうしたことも少なくなりました。

人生のある時点までは自分という存在は「なりきり」でも良かったのですが、その「なりきり」でどういう自分でなりきっていたのかは反省しないといけないなと思います。

気づいたら、自分がいわゆる異常な存在になっていたのではないかと思うこともあります。

その点については確かに反省しなければいけないです。

実際、文章を編集する時にそれを編集しようとする自我と実際そこに書かれている自我とが違うということに気づくことがあります。

ただ、そのこと自体は通常なことなのかもしれないのですが。

自分という存在について、どういう風に自覚していかなければいけないのか。

自分という存在は顔を幾つも使い分けている人だったのか、それとも本当に内面に解離を抱えている存在だったのか。
内面における言語のシークエンスは2つ以上は存在しているように感じる。

言語のシークエンスが2つ以上存在している。
そのことは確かに自分の病気なのかなと思う。

平野啓一郎さんの分人主義という考えにおいても、自分という存在、〈私〉という存在までもが分裂してしまうということはなく、〈私〉の一貫性はあるなかで、関係性のなかで様々な自分(=分人)を使い分けていくという話であった。
内面において複数のキャラが存在してしまっている時点で、解離を抱えているということになるのかなと思う。

医者も私に対して解離を認めていた。
その解離ということについて、実際にどのようにして取り組んでいくのが良いのかということについて、私の場合はそこに統合失調症も加わっているので、かなり難しいことはあるかと思うけれど、
自分はネガティブな感情を人に生じさせる(逆転移を誘発する)文章を書くのではなくて、あくまで人と人の間で承認をし合っていけるような文章を書くことができるのが理想なのかなと思う。

自分の特異性ということについて、私は拘りすぎたのかなと思う。

その点、20代を通じた自分の実存の成果について、反省と自分の総括が必要なのかなと思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?