見出し画像

酩酊する地平線

いつもの病院の中庭。私は日陰のベンチに座って、隣の友人は長年愛用している車椅子に座ったまま、ただ時間が流れるのを感じていた。飲み切ってしまったラムネの瓶を振る。

カランカラン、カナカナカナ、カラン、カナカナカナカナ

ガラス玉の音とセミの声が混ざり合った。

「夜が何で暗いのかってさ」

沈黙を破った友人は、言いかけて、ラムネを飲んだ。少し顔をしかめている。

「うわ、完全に抜けてる。砂糖水だ」

「早く飲まないからじゃん。それで、何」

「ああ、あのさ、隣のベッドの子にさ、小学生くらいの男の子なんだけど、昨日急に質問されたんだよね。たくさんのお星さまが宇宙にあるのに、なんで夜の空は暗いの?って。キラキラした目向けられてさ。今まで考えたことなかったなぁって。何でなの?あれだけ星とか銀河とかあるのに」

「なんて答えたの?」

「夜は太陽が休んで、宇宙全体が暗くなるからって、ごまかしましたけど。納得いかないって顔で見つめられましたけど。そんで、天文学得意だった人に今聞いてるんですけど」

飽きもせず、ヒグラシは鳴き続けている。ふふふと笑いながら、ラムネの瓶を振った。

「事象の地平線」

「事象の、ちへーせん?」

「そう。宇宙には光の地平線があるんだよ。何百億光年も先に。地球に届くのは、その地平線より内側の星の光だけ。つまり、夜にお目にかかれるのは、ごく限られた数の星だ。だから、夜は暗い。と、昔どこかで聞いた」

「そうかーなるほどなるほど。覚えとこ」

ラムネを飲み切る友人をじっと見る。ヒグラシの声が遠くなる。数年後の夏にも、友人の命が地球上にある確率は、かなり低い。医者はとっくに本人に伝えている。しかし、友人は少しも怖がらない。落ち込まない。いや、隠しているのだろう。ウフフヘヘヘヘという怪しげな笑い声が響く。

「酔ったな、これは」

「ただのラムネじゃん」

また大きくなったヒグラシの大合唱と、私達の笑い声が混ざる。

事象の地平線の先には、どんな星があるのか、きっと友人は私より先に知ることになる。でも、あと数十年は友人が私の傍で生きていられる運命に、今からひっくり返せないだろうか。

ビー玉を取り出そうと、ラムネの瓶をひっくり返している友人を眺めながら、遥か遠くにある星に祈る。



この記事が参加している募集

眠れない夜に

お気に入りいただけましたら、よろしくお願いいたします。作品で還元できるように精進いたします。