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橘玲『もっと言ってはいけない』 : 橘玲の理論的矛盾「現実語りの現実無視」

書評:橘玲『もっと言ってはいけない』(新潮新書)

面白い本だ。それは、その内容もさることながら、わざわざ人の神経を逆撫でするようなことを書かねば気の済まない著者の性格も興味深ければ、そんな著者の想定どおりに「自分がバカにされた感じて、その怒りを露にする知的レベルの低い読者」の反応も面白いからだ。

本書に書かれていることは、極めてシンプルだ。大雑把に言えば「人種によって、知的能力に差がある」という事実である。
こう書くと「人種差別だ」と言いだす人が多いというのは、著者も当然のごとくあらかじめ想定している。だから、著者はそれが科学的には否定できない事実であることを、多様なエピデンスを示すことで証明しているのだが、それでもこの証明を「イデオロギー」的に頑なに受け入れない人が多いこともまた、あらかじめ想定している。そして、著者の真の狙いは、そういう「イデオロギー的妄信者」を批判することにこそある。

つまり、著者は「人種によって、知的能力に差がある」という事実を指摘することによって、「人種差別を助長する」ことを目的としているわけではなく、「政治的に不都合な事実=否定すべき悪」という図式でしか物事を考えられない人々、「事実」と「是非善悪」を区別できない人々を、批判しているのである。

個々人の間に「知的能力差」や「体力的格差」あるいは「容貌的美醜」があるというのは、ほとんどすべての人が認めるところだろう(ごく少数だが、これを否認して「知能の質的差異はあっても優劣は無い」とか「形態的差異はあっても、本質的美醜は存在しない」などと、うまいこと言う人もいるだろうが)。
だが、そうした「格差の現実」があることと、それを理由に「差別してもいい」ということは、同じではない。というのも、人というのは「人」であるかぎり「差別してはいけない」のであって、「知的優劣」や「体力的格差」や「美醜」などは、差別を正当化する理由にはならないからだ。

そして、この「人間的原理の理念」を知的にしっかり理解しておれば、「現実的差異」の存在を怖れる必要など無いのだから、個人間だけではなく、人種間に「知的優劣」や「体力的格差」や「美醜格差」があってもぜんぜん構わない。「事実を事実と認識すること」と「差別すること」とは、別問題だからだ。
もちろん、「知的(体力的)に劣る」とか「容貌的に醜い」と言われる方は気持ちの良いものではないが、しかし客観的な根拠を示しての「単なる(悪意の無い=差別的ではない)事実の指摘」なのであれば、それを事実として認めるのが「知的」であるということなのだ。

なお、一般に「知的優劣」という場合の「知的」とは、「現代社会において求められる種類の知性」という「現代の人類全体にほぼ共通して求められる知性」のことであるから、現代世界において概ね一般性を持つ(「体力」はさらに一般性を持つ)が、「美醜」の問題は「時間的・空間的に極めて限定されたブーム」的なものを除けば、結局は「個人の趣味」の問題でしかないから、一般性を持つ(一般論としての)「美醜の優劣」というのは、論理的には、ほぼ語り得ない。
平たく言えば「白人が美しく、黒人が醜い」とは言えない。「白い肌が美しい」という美意識も「黒い肌が美しい」という美意識も、どちらも正しく、間違いではない(赤色と青色のどちらを美しいとは、客観的には決められない)。つまり、現代の万人共通の美醜基準が設定できないから、一般的な事実(現実)としての「美醜格差」などは語れないのだ。(例えば、グロテスクなものの中に美を見る人は少なくない。事ほど左様に「美醜の問題」は単純ではない)

ともあれ、このようなわけで「不都合な事実を怖れることはない。むしろそれを直視する勇気こそが、知的な人間のすべきことだ」というのが著者・橘玲の主張である。

しかし、ここで終れば「嫌われ者」にはならないのに、著者はここで「なのに、リベラルは偽善的にこの事実を隠蔽する」と批判するから、自身リベラルであるにも関わらず、リベラルからは嫌われるし、リベラルには見えないのだ。

「リベラルは偽善的に、人種格差という不都合な事実を隠蔽する」という橘玲の非難は、大筋においては正しいと、私も思う。ただ、リベラルが不都合な事実を「善意において」隠蔽することを、必ずしも批判はしない。なぜなら、橘玲自身も認めているとおり、人間には「知的格差という厳然たる事実」があるので、多くの人が「不都合な事実」を正しく理解できるとは限らないからだ。より正確に言うなら、リベラルな知識人が隠蔽したがる「不都合な事実」とは「極めて誤解されやすい事実」なのである。

リベラルな知識人だって、基本的には「事実はすべて、そのまま明らかにして、すべての人の理解を求めるのが好ましい」と考えている。しかし、それがほとんど不可能な事実があるというのもまた現実であれば「この種の事実を、剥き出しに語るのは止しておこう」と考えるのは、当然の配慮だ。喩えて言うなら「自殺妄想にとらわれている人には、刃物は渡さない方が良い(彼・彼女にも刃物を使う権利があっても)」というのと同じことだ。

もちろん、こういう考え方は「大衆保護の名目において、情報操作をすることを正当化する」ことになりかねない危険なものではあろう。しかし、ここでリベラルが問題としているのは「名目」ではなく「実際であり本心」、「偽善」ではなく「善意」そのものなのだ。実際に本心から善意において「理解力に劣る多くの人たちのために、不都合な情報を隠蔽している」のであって「自分たちに利するように、知的に劣る人を誘導するために、善意を装って、特定の情報を隠蔽している」わけではないのである。

こう書くと「リベラルなら、なぜ人々を信じないのだ」と、そう批判する人もいるだろう。リベラルの理想主義的美意識からすれば「無条件に大衆を信じる」ことは素晴らしいことだから、それをしたいのは山々なのだが、しかし、リベラルだって「知的に盲目」なのでなければ「残念ながら、難しい話を正しく理解できない人は大勢いる」という「現実」を見ないわけにもいかないのである。

だから、著者・橘玲による「リベラルは偽善的に、人種格差という不都合な事実を隠蔽する」という非難は「読みが浅い」と評価するしかない。
リベラルがそのような「偽善的な善」を行うのは、本書の著者である橘玲よりも「現実を直視している」からであり、橘のように「自分の感情だけで」言葉を発してはいないからなのだ。そして、そのあたりの「察しの悪さ」による「配慮の無さ」が、橘玲を「リベラルらしからぬ人」にしているのである。
つまり、「現実を直視せよ」と言うのであれば「現実を直視した上で、適切な発言をせよ」ということにもなって、子供のように単純に「王様は裸だ」なんて吹聴してまわる幼稚な行為で、いい気になるな、ということにもなるのだ。

なお、本書に不快な思いをさせられて、わかりやすい反発をしているのは、リベラルな知識人ではなく、リベラルだけれど知的ではない人か、ネトウヨを含めた個人的に知的に劣った人たちであろう。

仮に「日本人は、世界で最も知的レベルが低い」という科学的事実が判明したとしても、それは「日本人は、全員バカだ」という意味ではなく「平均すれば、世界一バカだ」という意味でしかなく「日本人のなかにも、世界の最先端レベルの賢い人もいる」という事実をなんら否定するものではない。
だから、自分に自信のある日本人なら、こうした「不都合な事実」にも動ぜず、冷静かつ知的に対応することができるし、逆に、自分の個人的能力に自信が無い者は「日本人は、世界で最も知的レベルが低い」と言われると、まさに「お前はバカだ」と言われているような気になるので、「日本がバカにされた」と、一般論に見せかけて、「知的格差の現実論」を感情的に否定するしかないのである。

そして、こういう(ネトウヨに象徴される)頭の悪い人(傷つく人)が、現実として少なくないからこそ、そういう人のためにも、リベラルは「誤解される可能性の高い、不都合な事実」をそのままには語りにくいのだし、橘玲のように単純に「正直に語れ、現実を直視せよ」などと、現実無視の呑気なことも言えないのだ。

考えてもみて欲しい。「人種によって、知的能力に差がある」という事実を紹介すると「それなら、優れた人種が劣った人種を管理支配すればいい。それが合理的だ」と考える、ヒトラーや麻生太郎のような「頭の悪い人」は、残念ながら少なくないのだ。

初出:2019年2月6日「Amazonレビュー」

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