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伊東潤 『真実の航跡』 : 〈百田尚樹系〉 戦犯裁判小説

書評:伊東潤『真実の航跡』(集英社)

「〈百田尚樹系〉戦犯裁判小説」とは、我ながら、とても親切な評価だと思う。

百田尚樹が好きな読者は是非とも購読すべきだし、百田尚樹が評価できない読者には一瞥の価値もない本だとわかるからだ。
無論、ベストセラー作家である百田尚樹の名を冠して類比的に評価されたのだから、きっと作者も喜んでくれるだろうし「我が意を得たり」とも思うに違いない。この調子で精進して、百田と同様の「俗情との結託」作家になれれば、この上ない喜びなのではないだろうか。

さて、ここまで読めば、私の評価は言わでもがなかもしれないが、ここまで酷評しておいて、その根拠を示さないのもよろしくなかろうから、以下に具体的に示しておこう。

まずは、この小説が「駄作」である理由を端的に示しておくとこうなる。

(1)人物造形が、紋切り型で薄っぺら。
こんなことを、今どきのエンタメに言うのはどうかとおっしゃる方もおられるだろうが、それは偏見だ。
今どきのエンタメでも、その形式によらず(つまりミステリやSF、ファンタジー、あるいは「ラノベ」などの形式であったも)深く「人間」や「社会」や「歴史」を描いた作品はいくらでもあるのだから、エンタメだから人物造形が安手のアニメみたいであってもいいなどということはないのである。 

(2)テーマの掘り下げが無い。
日本には、世界に誇るべき文学作品がいくらでもある。戦争文学に限定しても、大西巨人の『神聖喜劇』や大岡昇平の『俘虜記』といった、深く「戦争と人間」を、あるいは「軍隊」を描いた作品があるが、作者(および、巻末に紹介される本書の監修者たち)は、こうした古典的名作を読んでいない(=文学的教養に欠ける)のだろう。読んでいたら、とても今更、こんな小説を公表ことはできなかったはずだからだ。

ともあれ、以上の2点を押さえた上で、本書の「本質的問題点」を指摘すればこうなる。

(3)本作は「言い訳をしない潔い日本の軍人を描いて、日本の戦争について言い訳しているだけの潔くない小説」。

というのも、主人公である弁護士・鮫島の「日本」観、「日本人」観、「連合国」観というのが、「被害者意識」丸出しの「独り善がり(自慰的自己認識)」でしかなく、あまりにも頭が悪い(客観性の欠如)ので「まさか、これがそのまま作者の考えでもあるまい」と思いながら読み進めていくと、結局は最後までこの主人公は「立派な人物」として、作者によって全肯定されてしまっており、唖然とさせられるのだ。

『「鮫島、君は常に自分が正しいと思っている。だが世の中は、それだけじゃないだろう」
「俺はそれでよい。どんなに不器用だろうと、自分の信じる道を行くだけだ」
「この頑固者め!」
 そう言う河合の顔には、笑みが浮かんでいた。
「これからの日本には、お前のような強い意志を持った頑固者が必要だ。二度と同じ過ちを犯さないためにもな」
「それには同意する。法律に携わる者は頑固でなければならない」』(P356)

こんな調子で、それまで鮫島と裁判上で敵対していた人たちまでが、最後はみんな鮫島を褒め讃えだすという、ベタなラストに収斂されるのである。つまり、鮫島は全面的に正しかったという保証が「作劇上でなされている」のだ。

だが、下に紹介するような、主人公の「一人称の語り」を読めば、その「独り善がり」は明白であろう。

『 日米開戦は、特定の誰かが決断を下したというわけではなく、何となく流れができ上がり、日本人の大多数がその流れに乗ったという感がある。』(P153)

まずは典型的な「戦争についての個人責任」回避の言い訳である。
例えば「何となく、流れに乗って、人を殺してしまいました(社会が私をそうさせた)」という言い訳が、裁判で通用するとでも思っているのだろうか?
この主人公は、二言目には『法の正義』という言葉を口にして、さも自分がその権化でもあるかのように「勘違い」しているが、この一点を見ても、いかに『法の正義』と縁のない人物なのかがわかろう。

『 処刑者六十九名という重さは、鮫島の肩に重くのしかかっていた。
 一一日本人が、なぜそんなことをしたのだ。
 いくつもの偶然が重なったとはいえ、同じ日本人がこれほど残虐なことをしたとは、とても考えられない。』(P192)

どこの国の人間でも『これほど残虐なこと』をするものなのだ。それが「人間の歴史的現実」であり、そこに「国籍」など関係ない。
「妄信的」的に『日本人』を連呼する前に、主人公は、「人間」とはどういうものかを、少しは学ぶべきだろう。高卒程度の「歴史」知識があれば、こんな「愚問」が出てくることはないはずだ。

『 一一日本人は変わった。
 日本人は敗戦によって大きな変容を遂げた。それは旧帝国軍人たちも同じで、かつては強い精神力と固い絆で結ばれていた彼らも、今は保身に走らざるを得なくなっている。とくに敗戦によって仕事を失った軍人の生き残りたちにとって、戦犯裁判はこの上なく迷惑なものだった。
 一一敗戦は日本人から誇りを奪い去り、利己主義を植え付けていったのか。』(P193〜194)

「敗戦によって、日本人は変わった(ダメになった)」というのが、くりかえし語られる主人公の「日本人」認識だが、当たり前の知性があれば、これは、敗戦によって「変わった」のではなく、敗戦によって「地金が出ただけ」ということくらいわかるはずだ。
人は、優位に立って余裕のあるときには人格者ぶってご立派なことを口にするものだが、いったん自分の立場が危うくなると地金を出して逃げに走るというのは、今の日本の政治家や企業トップ(例えば東電の社長)なんかを見ても明らかで、これは古今東西、変わらない「人間的現実」なのである。

『 一一誰も捕虜など殺したくなかったんだ。
 赤石も乾同様、捕虜を殺したくはなかった。だがその場では、そうするしかなかったのだ。そこに戦争というものの矛盾が内包されていた。』(P233)

「誰だって人殺しはしたくなかった。だが、状況がそれを許さなかった」で済むのなら、法律や裁判はいらないだろう。
まして、その「特殊状況」が「戦争」であり、それを理由として「不法行為としての捕虜虐殺」が許されるわけなどないというのは、国際的な法的大前提なのだが、こんな寝言を言っている者が『法の正義』などとくりかえし宣うのだから、自分が分かってない馬鹿は、まことに救いがたい。

『 一一勝った者は正しく、負けた者は間違っている。それが戦争というものだ。これからは、敗戦国日本の行ったことがすべて否定される。その前提で、国際社会での存在感を高めていかねばならないのだ。』(P273)

「被害者意識」丸出しの「泣き言」であり「恨み言」だ。
『勝った者は正しく、負けた者は間違っている。それが戦争というものだ。』と納得していないから、主人公は裁判で戦うのだろう。
ならば、問題は『国際社会での存在感を高めてい』くことではなく、目の前の裁判において「公正」を目指し、それがかなわないのなら、何年経ってでも「不当な戦犯裁判」については、その非を追及すべきなのだが、主人公にその気がないのは、作者がこの作品を『フィクション』と銘打って「批判責任を回避している」ことと同様に明らかだ。

例えば、主人公は次のように、イギリスやオランダ、オーストラリアの「軍人と法廷を侮辱している」のだが、ここではそれを『紛れもない事実』であるかのように語っている。

『 シンガポールのチャンギー刑務所などでは、軍の首脳部も法廷も、刑務所内に行われている拷問や私刑を見て見ぬふりをしているという有様で、全く罪のない日本人軍属や商人までもが、厳しいリンチの末に次々と命を絶たれていた。
 一一今の日本人には、そうした無法に抵抗する武器は何もない。
 イギリスは戦犯の疑いのある者を連れてきて、取り調べの上、裁判を受けさせるかどうかを決めるというアメリカの方式を踏襲せず、一つの地域に残っていた日本人を全員逮捕し、一人ひとりを尋問し、戦犯の疑いがある者を裁判に掛けていた。その過程で拷問が行われるのは言うまでもなく、シンガポールでは残っていた軍人のほぼすべてが裁判に掛けられ、大半が死刑を宣告されていた。それでも、オランダやオーストラリアの法廷に比べれば死刑率が低いというのだから驚く。
 一一オランダやオーストラリアは連合国軍の一員、すなわち自分たちが勝者だったということを国民に印象付けたいがために、ずさんな調査で日本人を戦犯に仕立て上げ、次々と絞首台に送り込んでいるのだ。
 たいした戦いもできず連戦連敗だった両国にとって、自らの名誉と自信を回復することが必要だった。それが国民の勤労意欲を高め、経済発展へつながっていくからだ。
 一一そのために日本人の命は利用されているのだ。
 そこに根強い人種差別意識が横たわっているのは、紛れもない事実だった。』(P284〜285)

これが『フィクション』ではなく「証拠のある事実」だというのであれば、なぜ『フィクション』において、こんな根拠の定かならぬ「誹謗」を行うのであろうか。なぜ、今「裁判」で提起して、真実を明らかにしないのだ。法の裁きを受けさせないのだ。なぜ泣き寝入りするのか。
もちろんそれは、主人公(作者)の言い分が、所詮は「被害者側の、一方的な言い分」に過ぎず、法廷闘争を維持するだけの証拠など無い「放言」だからである。

だいたい、主人公は、下のような抗弁をする「頭の悪い」人である。
ここには「客観的であろうとする意志」などというものは、欠片も無い。

『「君は日本を嘲るのか」
「私が嘲るのは大日本帝国です。日本民族には、ほかの民族同様の敬意を払っています」
「それは屁理屈だ。われわれにとって大日本帝国は民族と同一だ」
「国家体制と民族は違います」
「われわれにとっては同じことなんだ!」』(P274)

気易く『われわれ』などと言うな、ということだ。
こんな頭の悪い主人公を、外国の方から「代表的日本人」とでも思われたら、まさに「国辱」である。

『 日本軍統治時代の残滓が次第に淘汰されていくのは当然としても、そこにあった良質な日本人の足跡も消されていくことに、鮫島は寂しさを覚えた。
 日本の香港統治期間は四年弱でしかなく、台湾や朝鮮の植民地統治のように、インフラを整えるまでには至らなかった。つまり、統治の成果が出る前に日本は退場を強いられたのだ。また日本から移ってきた商人たちも、中長期的な信用を売り物にする日本の商習慣を定着させる前に引き揚げねばならなかった。』(P283)

これも「ネトウヨ」水準の「日本による植民地支配・正当化論」だ。
自分たちの利益のためだけに、他国を植民地化して、そこに投資したからといって、どうして褒めてもらえると思えるのか。その手前勝手な精神構造は、およそ世界水準にはない、単なる「自慰」体質だと言えよう。

『 一一(※ 死刑判決を受けた)日本の軍人をイギリス本国の死刑囚と一緒にするな。(※ 同じように扱うな、の意)』(P346)
(※は、引用者補足説明)

国籍・人種に関係なく、同じに扱ってくれるのなら、まったく結構なことではないか。
主人公は、頭が悪く、感情だけでものを言う人なので、自分たちが特別扱いされないと、不当に扱われていると勘違いしてしまうのであろう。

ちなみに、本作で描かれる、シンガポールでの「日本人戦犯裁判」は、決して「勝者の論理」によるものではなく、「国際法」の常識にそったものである。

『「続いて、抗命行為並びに助命活動に関してです。東南アジア司令部戦争犯罪法律部では、(※ 捕虜虐殺などの行為が)上官の命令であるという申し立てについては、命令実行者が、その行為が戦争犯罪ないし違法行為であることを認識していたのかどうか、自由裁量の余地がどれだけあったのか、または命令に異議申し立てを行ったのかどうかを重視します。軍隊である以上、上官の命令は絶対です。しかし個々の事案には、それぞれ固有の事情があります。それを探り出すのが裁判なのです」
 一一この裁判の公正さを訴えるために、まず前提を思い出させたのだな。
 確かに、これらの基準には公正さがある。法に携わる者として納得はできる。だが戦争中の証拠など焼き捨てられてしまっているし、証言できる人々の多くは、すでにこの世にいない。本来なら戦争という特異な状況をもっと酌量しないと、戦犯裁判など成立しないのだ。』(P327)

仮にこの建前が完全に実現されていなかったとしても、主人公のような「非論理的かつ自己満足的な思い込み」と比べれば、およそマトモであったことは明らかであろう。
また、現実の日本人戦犯裁判でも、こうした建前が現に存在したからこそ、さすがにこれを無かったことには出来なかったのだ(それに「証拠を焼き捨てたおかげで、戦犯裁判から逃れた日本人」が、どれだけいたのかを、都合よく忘れてはならない)。

ところが、この「歴史的現実」が示される前の段階で、主人公(作者)は「国際法」の存在を無視した「嘘」を語って、読者に対し「印象操作」を行っている。これだ。

『 ここには戦犯裁判の微妙な問題が内包されていた。例えば、現場の兵たちが裁かれる場合でも、連合国側は事後的法解釈として、「違法な命令に対する不服従の義務」なるものを作り上げた。
 すなわち不法行為を命じた上官に対して、抗命しない場合は命令を受けた者も罪になるというのだ。これが適用されれば、軍隊の根幹を成す「上官の命令は絶対」という掟を破ることになり、軍隊そのものの存在基盤がなくなる。』(P277)

これが、先の部分と矛盾する「被害者側の見解」であることは明らかだろう。

「軍隊では、上官の命令は絶対」というのは当たり前だが、「例外」があるのもまた当たり前で、前記の「日本人戦犯法廷」も、そして「国際法」も、その程度のことはあらかじめ踏まえている。

「軍隊では、上官の命令は絶対」と言っても、例えば「上官が、天皇陛下のご真影を踏めと命令した」としたら、この「上官の命令」も「絶対」か?
むろん、そんなものに従うことはできないし、してはならない。なぜなら、それは「日本軍の軍規に反する行為」だからである。
であるならば「捕虜の虐殺」もまた「絶対の命令」ではない。そんなことは「日本軍の軍規に反する行為」だからである。

しかしまた、建前としてはそうであっても、現場の現実はそうはいかず、「抗命」など容易に出来ることではないというのは、「ブラック企業の労働現場」「イジメのある教室」と同じである。
本来なら、その現実に現場で抵抗しなければならないというのは「人としての努め」なのだが、それが現実に容易ではないからこそ、事後的な「裁判」があり「情状酌量」という措置もあるのだ。

だが「被害者意識」による「自己正当化」と「恨みつらみ」に染まった主人公(と作者)は、戦勝国への「敵意」から、ここで「故意の印象操作」を行っているのである。

ともあれ、主人公の「寝言」は切りがない。

『「そうじゃない。乾さんの良心に訴えたかっただけだ。乾さんはクリスチャンだが、日本人でもある。それを忘れるな」
「あなたは、まだそんなことに誇りを持っているのか!」
「ああ、持っている。日本人であること、日本人を守る盾となった軍人たちに敬意を払うことのどこが悪い」
「侵略者の手先め。日本の軍人がアジアでどれだけひどいことをしてきたか、弁護人なら知っているだろう」
「それは知っている。だが大半の軍人は誇りを持って戦い、死んでいった。そうした軍人に敬意を払うことのどこが悪いんだ」』(P321〜322)

「大半の軍人は誇りを持って戦い、死んでいった。そうした軍人に敬意を払うことのどこが悪いんだ」と宣う主人公(及び作者)は、しかし「他国の軍人」に対しての『敬意』は欠片も無いというのは、前述のとおり、イギリスやオランダ、オーストラリアの「軍人と法廷を侮辱している」事実に明らかだろう。

主人公(及び作者)は、他国民もまた、自国の軍人や司法官に誇りを持っているとは、想像もできないほど「頭が悪い」。
本書を翻訳して、イギリスやオランダ、オーストラリアの人々にも、ぜひ読ませるべきであろう。

しかし、そうなったら、作者や監修者たちは、はたして「これはフィクションですから」という「逃げ」に走らないだろうか。
私にはとうてい、そうは思えない。きっと、下のような日本人らしい逃げに走るだろう。

『 終戦後、元海軍の上層部と軍令部の幹部たちは戦犯裁判の証人に呼ばれそうな者に接触し、「責任を自分たちに押し付けると、天皇陛下の責任が問われる」ということを盾に、「知らぬ、存ぜぬ」を押し通すように指示していた。むろん天皇陛下云々というのは建前で、自らの保身に走っているにすぎない。』(P209〜210)

『「あれは米軍が進駐してくる前のことでした。終戦といってもどうしていいのか分からず、私ら学生は、教師たちと共に大学校にとどまっていました。そこに軍令部総長の使者と称する少将が現れ、軍令部出身将校だけを集めました。そこで少将は、連合国軍が進駐してきても軍令部から出たすべての命令には、『知らぬ、存ぜぬ』を通すよう命じてきました。その理由は天皇陛下を守るということでしたが、実際は自分たちの保身のためだと思いました」
 軍令部が保身に走ったという噂は、やはり本当だったのだ。』(P291〜292)

『「大局に立てば日本を利することであろうと、私は『人道的にそんなこと(※ 捕虜の虐殺)はできない』と言いました。しかもその(※ 捕虜虐殺)命令の核心部分を、(※ 作成責任者署名のない)『口達覚書』にするというのですから、卑怯この上ないことです。『口達覚書』は現物が残っていても誰が出したか分からず、軍令部の責任は問われません。つまり現場に責任を押し付けることです。しかし、それに現場の責任者が不服を唱えれば即解任です。これほど不条理なことはないと思いました。』(P294〜295)

これもまた「日本の軍人」であり「日本人」の現実なのである。
意図的に美化された、「一部例外的存在」として(比較的)立派だった五十嵐が、「日本軍人の典型」だったなどということがあり得ないというは、(歴史的・人間的)常識からしても、あるいは「スタージョンの法則」からしても、分かり切った話でしかない。そもそも「立派な人」が『大半』であったなら、それは「立派」だなどとは呼ばれないのである。

ともあれ、主人公(及び作者)の「妄想的日本人賛美」は、「悪しき日本人」の存在を「日本人」の内から都合よく排除することで成立している。頭に開いた穴から、不都合な事実は、漏れ落ちてしまっているのだ。

『 日本人が絆を取り戻す日が、再び来るかどうかは分からない。だが連合国は、そうした日本人の結束力を破壊し、個々の人間の醜さを露呈させることまで、日本人に対する懲罰として考えているに違いない。』(P215)

『 一一父さん、あんたは弱い人間だった。だが十分に(※ 医師として)戦った。五十嵐さんたちと同じ戦前の男として。
 鮫島は初めて父の気持ちを理解できた。
 一一玉音放送を聞いた時、父は日本が戦争に負けたことに泣いたのではない。あれは、父たちが大切にしてきた「日本人の魂」が失われていくことに対しての涙だったのだ。
 鮫島は五十嵐を救うことで、それを守ろうとした。だが五十嵐の生命は失われても、その精神は受け継いでいけばいいのだと思うようになった。
 一一父さん、日本は変わっていくだろう。しかし戦勝国がどれだけ圧力を掛けてこようが、どれだけ彼らの価値観を押し付けてこようが、われわれが日本人であることに変わりはない。父さんや五十嵐さんたちが大切にしてきた「日本人の魂」は、ずっと受け継がれていく。』(P325〜326)

こういうのを「宗教的譫妄」と呼ぶのであろう。

『「そうです。誰にも慮ることなく、ただ一途に真実を追究する。それが敗戦国日本で生きる、われわれの使命ではないでしょうか」』(P186)

『「そうです。真実を追究して正義を貫くことだけが、今の日本人にできることです。それをやらずに事をうやむやにしてしまえば、日本は一一」
 鮫島は感極まった。』(P186)

『 自分を納得させるように五十嵐は続ける。
「今回の裁判を通じて、君ら(※ 日本人戦犯の弁護士である主人公たち)は、真実を追究する大切さや法の正義への信頼を国際社会に知らしめることになる。つまり君らこそ、日本が次の戦い(※ 国際社会で名誉ある立場を確立するための真の戦い)に勝つための尖兵なんだ」』(P280)

「真実を追究する」などとご立派なことを繰り返しても、その基本認識が、

『 太平洋戦争そのものが、誰が強く主張したというものでもなく開戦の決断がなされたのだ。』(P295)

というものなのだ。
これでは「真実の追究」など出来るわけがないというのは、もはや論を待たないだろう。

以上、本書が「宗教的譫妄」を読者と共有するためだけの、きわめて内向きの「自慰的歴史観」に基づいた、低俗な駄作エンタメだと評価した所以である。

次に、戦争小説を書いたときは、軍記オタクではない人にも査読を依頼すべきであろう。
同類に査読させたのでは、客観性が担保できないのも当然なのである。

一一もっとも、私には査読を依頼しないでいただきたい。
これ以上、時間の無駄遣いはしたくないからだ。

初出:2019年3月24日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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