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閑雅な〈迷宮散歩の日常〉 : panpanya 『おむすびの転がる町』

書評:panpanya『おむすびの転がる町』(白泉社)

著者の作品集は3冊目か4冊目である。そのあたりがハッキリしないのは、評者にそろそろ認知症が出はじめたせいかも知れないが、たぶんそれだけではなく(いや、きっとそうではなく)、作者独自の世界観が完璧に揺るぎないものであり、それ故にこそ、ぜんたいに区別がつきにくいからなのだ。斑がないのである。
どんなにネタを変えようと、作品を貫く雰囲気は完全に一定しており、その「panpanyaワールド」とでも呼ぶべき世界の「空気」が、たまらなく心地よい。しかも、他では決してお目にかかれないシロモノなのである。

いずれも同じような雰囲気の作品でありながら、しかし決して飽きさせない作風というのは、高度に芸術的な完成度を持つものだと言えよう。
だからこそ読者を選ぶ傾向もあるのだけれども、まただからこそ、この作家の作品は、人に隠れて独りでこっそりと愛でたい「秘宝」のような魅力を発してもいる(したがって、わかりやすい戦いとか友情とか恋愛とか感動とかを求める人、向きではない)。

私は、「迷宮もの」とでも呼ぶべき一群の作品が大好きである。「この日常」から一歩踏み外した先に広がる、どこか薄暗い閉じた世界を蜿蜒と彷徨う態の作品だ。
じつは、私はそんな夢をよく見る。知らない町だとか、行けども尽きぬ広間が連なる薄暗い和風邸宅の中とか、あるいは長い廊下の高層建築である学校の中とか、そんなところで、私は目的地にたどり着けなくて焦ったり、帰り道がわからなくなったりと、大抵は困った事態におちいってジタバタすることが多い。
そんな、一種の「悪夢」を見るのだから、それと似たようなフィクション(小説やマンガや絵画や映画など)に惹かれるというのは、矛盾したことのように思えるけれども、そこが人の心の複雑なところで、私はできるかぎりそんな悪夢の醸し出す雰囲気を、忠実に再現した作品はないものかと、常日頃から気に掛けている。
そして、本書の作者と出逢ったのも、そうした探索のなかでのことなのだが、しかし、本書の作者の場合は、私が求めていた「悪夢的な迷宮譚」とは、すこし趣きが違っていた。いや、端的に「悪夢」ではなく、むしろそれは「懐かしい迷宮」だったのだ。

私の求めていたものとは少々違っている。けれどもそれが、私には瑕疵とは感じられず、むしろその独自性が貴重なものと感じられた。こんなものを描ける作家は、ほかにいないのではないか。

この種の「迷宮彷徨譚」というのはたいがいの場合、「日常からの離脱」を希求しており「行きて戻らぬ物語」となっている。
作者も読者も、どこかで「この退屈な日常」にウンザリしており、「私もどこかへアッシャー・イン」したいなどと願っていて、その願望が物語化されている場合が多い。だから、元の日常へなど帰りたくはないのだ。

ところが、本書の作者は、それとは真逆に「身近な日常」をとても愛している。愛していればこそ、その日常を仔細に観察して、私たちが忙しさと効率性と焦りに急き立てられて見落としている「迷宮への抜け道」を発見する。
著者にとっては、その抜け穴の先に展開する迷宮は、決して「異世界」でも「死の世界」でもない。むしろ「失われた懐かしい日常」なのである。現にいま生きている日常よりもむしろ、もっと密度の濃い日常、いつの間にか失ってしまっていた「懐かしい日常」なのだ。

だから、その世界は、主人公を温かく迎えてくれ、そして最後は元の世界へと送り返してくれる。
そっちの「日常」は、少々希薄で味わいに欠けるかもしれないが、そっちがお前の世界なんだから、せいぜい頑張って生きろよ。それでも、どうしても疲れた時には、またこっちに遊びに来いと励まして、主人公を優しく送り返してくれるのである。

「この日常」に疲れて「どこか遠くへ行きたい」と願うのも無理からぬ現代社会ではあるけれど、それでも、愛情を持って仔細に観察するならば、私たちの周囲にも「懐かしい日常への抜け穴」を見つけることができるのではないか。
そんな、押しつけがましさのない「励まし」を与えてくれるのが、著者の描く「迷宮譚」の特質なのではないだろうか。

初出:2020年3月31日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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