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丸山ゴンザレス 『世界の危険思想 悪いやつらの頭の中』 : 日本人の犯罪〈被害者〉向き思考

書評:丸山ゴンザレス『世界の危険思想 悪いやつらの頭の中』(光文社新書)

世界の「危険地帯」取材で知られるジャーナリストが、自身の経験を通して、殺し屋などの各種犯罪者が「なぜ、そんなことが平気でできるのか?」と、その頭の中を考察した一書。
著者自身も「はじめに」断っているとおり、『危険思想』と銘打ってはいるが、いわゆる「哲学・思想」の類いではなく、「どんな考え方をしているのか」ということを、あくまでもリアリズムの立場から考察した本だ。

私が本書を手に取ったのは、『危険思想』というタイトルにまんまと引っかかったからだが、それでも中身をチェックした上で「またにはこういう本も面白いかもしれない」と思ったからこそ、購読することにした。
と言うのも、日頃は、宗教、科学、政治、文学といった、インドアでインヘッドなことばかりを追っかけているので、たまにはこういうアウトドアでアウトヘッドでアウトローなことにも接しておいた方がいいだろうと考えたのだ。
それでも、「本」で接するというところが、我ながら病い膏肓だとは思うのだが…。

さて、中身だが、期待していたほど驚くような話は無かったし、驚くような「頭の中」には出会えなかった。
紹介されれば、さもありなんといった感じで、例えば「殺人犯」の頭の中は「金のためにやる」とか「やるしかないからやる」とか「やれるからやる」といった感じで、なにか文学的に深い「闇」のようなものがあるわけではない。ほとんど「深く考えていない」だけといった感じで、単に「状況適応」的な感じなのである。
人間、やれる環境で、やるべき状況におかれたら、案外簡単に、例えば「殺し屋」にでもなってしまえると、そんな感じなのだ。

だから、つまらないと言えばつまらないし、怖いと言えば怖いのだが、「まあ、人間って、そんなものなんだろうな」という感じなのであった。(「感じ」ばかりで申し訳ない)。

で、私が最も共感できたのは、本書の内容としては脇筋になるのだが、著者が外国旅行をする日本人へ「悪い奴の餌食にならないための心がけ」として語っている「外国の観光地で、観光客に対し、やたらフレンドリーに近よってくる現地人には気をつけろ」という助言であった。

『私から見て危ういなと思う日本人の行動として、「断れない」がある。わりと多くの人が拒絶することに慣れていないのだ。
 詐欺師や強引なキャッチなんかは、ナンパ塾の授業と同じように、数をこなしているだけなのだ。だから明確に断りさえすれば、それ以上は追いかけてこない。もし追いかけてくるなら、それこそ近隣にお店に飛び込んだり、通行人や警察に助けを求めるべきなのだ。
「そんなことしたら、相手に悪い気がする」
「そこまでしなくても」
 もしかしたら、そんなことを思った人もいるのではないだろうか。それは甘い。むしろ考え方がおかしい。』(P122)

「日本人とは違って、外国人は見知らぬ人にもフレンドリーに接して、親切な人が多い」という印象があるからだろう。外国の観光地などで、そうした人が近よってきた時に、日本人は、相手がフレンドリーなら、自分もフレンドリーな態度で接しなければ「悪い」という意識を持ちがちで、毅然と相手の要求を断れず、ずるずると引き込まれて「カモになる」というケースが、他国人より多いようなのだ。

いかにも「個」の確立が不十分で、自分の意志を明確に(露骨に)相手に伝えるのが苦手な(と言うか、無用の罪悪感を感じる)日本人らしい話なのだが、これは、なにも外国での話に限ったことではない。

日本でも詐欺の類いというのは、だいたいこのパターンで、最初は親切にしておいて信頼させ、あとで、普通に考えれば無理な要求をしてくるのだが、その頃にはすでに「断っては悪い」とか「断ると、この人を疑っているようだから悪い」などと考えるように仕向けられてしまうのだ。
これが、欧米人なら「そっちは喜んで。でも、こっちは結構です。それとこれとは話が別ですから」と明確に意思表示ができるのだが、日本人は、こういう「割り切った考え方(論理的思考)」が苦手で、どうしても感情や場の雰囲気を優先して流されがちなのである。

例えば、ネット上で「ネトウヨ」批判などをやっていると、以前はよくネトウヨが群をなして「掲示板荒らし」に来たものだが、イマドキは「荒らし」を排除するシステムも進化したせいか、ろこつな「荒らし」というものは少なくなった。しかし、そうした防衛システムの網をくぐる方法として、「善意の第三者を装って近づき、あれこれと注文をつける」という手法を採用するネトウヨが増えてきた。
そういう人物というのもたいがい、最初をこちらを形式的に誉めておき、その後にいろいろと注文をつけ、実質的にこちらの意見にケチをつけるという、姑息なやり方をする。だから、いまどきのネトウヨは、自分の政治的立場を隠し、「中立的第三者」を装いながら、他人を誘導しようとすることが少なくないのである。

そうした場合、多くの人は、その人物が「本物の善意の第三者」なのか「偽物の第三者(つまり、問題当事者の仮の姿)」なのかの区別がつきにくいので、ひとまず「(本物の)善意の第三者」であろうと仮定して、丁重な対応を心がけて、あまりづけづけと自分の意見を主張せず、遠慮がちに意見表明をし、相手の言い分に花を持たせるような書き方さえしがちである。
しかし、この「お客さん対応」がいったん固まってしまうと、途中から、対応形式を変えることはやりにくくなる。
突然「あなたは何が言いたいのか? 本当の狙いは何なのか?」などと直截に聞けなくなって、相手のペースに巻き込まれてしまいがちなのだ。

そしてこれは、典型的な日本人の「いい人」の思考パターン・行動パターンであり、どこの馬の骨とも知れない人間が近づいてきた場合に(つまり、弱肉強食かもしれない場面で)は、とても危険な考え方だというのは、本書の著者も指摘するとおりなのである。

「知らない人が近よってきたら逃げなさい」と子供に教育している親が、じつは自分が同じ状況になると、親切なつもりで対応して、結局は相手のいいようにコントロールされる、といったことが、ままある。まただからこそ、オレオレ詐欺や還付金詐欺に引っかかる人が後を絶たないし、これは日本人特有の被害(の大きさ)なのかもしれない。

たしかに「犯罪者とて同じ人間」であるのは確かだが、「頭の中まで同じ」だとは限らない。
犯罪者は「良心の咎めもなく、平気で嘘をつく」のだが、これは「自分が悪いことをしている」と考えるのではなく「騙される方が馬鹿なのだ」と考えるから、平気なのである。

だから、やたらに「いい人」ぶるのは危険だ。しかしまた、自分が「いい人ぶっている」という自覚のない人が大半だからこそ、日本人は、「日本は、おもてなし国だ」なんて、臆面もなく「勘違いの自己賛美」をするのだろう。

ともあれ、「他人の頭の中」というのは、容易に窺い知れるものではない。ましてや「犯罪者」をや、なのである。

初出:2019年7月2日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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