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神田橋條治 『技を育む (精神医学の知と技) 』 : 精神医療界の〈運慶〉

書評:神田橋條治『技を育む (精神医学の知と技) 』(中山書店)

本書に紹介されている、著者・神田橋條治の「精神治療実践」は、話だけなら、完全に「オカルト療法」にしか聞こえないし、そんなことの書かれた本を、「無神論者」である私が読むことなど、本来はなかっただろう。
私が本書を手に取ったのは、ラカン派の精神科医で現代思想にも詳しい評論家の斎藤環が、最近刊行した、與那覇潤との対談本『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』で、本書を積極的に紹介していたからだ。

神田橋條治は、たいへんユニークな精神科医である。
「精神科医」というと、フロイト派だユング派だラカン派だといった、「思想・哲学」的な理論を収めた医師だという印象が、私たち「読書家」の間にはある。つまり、精神科医と言えば「知識人」だという印象があるのだが、神田橋の場合は、徹底した「治療者」であり「現場の人」であり「治療の技術的実践者」であり、要は「治してナンボの、技の人」だ。

しかし、神田橋は決して、よくあるような「学問嫌いの現場主義者」ではない。
彼は、自身には幼少時から「発達停滞」のきらいがあったためか、「実感」を伴わない「理論」には満足できないため、それが頭に入ってこなかった。だから、否応なく、自分の資質に自然なかたちで「精神治療の実践力」を身につけるためには、現場における経験と修錬を通して「現に治る有効な手法」を探る、という道を選ばざるを得なかったのだと、そう謙遜に述べている。

もっとも、「経験を通して身につけた技術」とは言え、それをまったく「理論化」しないで済ませることはできない。当然「なぜ、このやり方は有効なのだろうか?」と考え、その「説明」を「自分なりに」模索して、「仮説」を立てて「方法論化」せずには済まないからである。

つまり、通常の「学問(医学)」が、病態を「科学的」に説明しようとし、それに基づいた合理的治療法を確立しようとするのに対し、神田橋は逆方向から、つまり「成功した治療法」から逆算的に、その理論的根拠を構築しようとするのである。だから、神田橋の理論は「科学的」ではない。
一般に科学的な理論が演繹法であるのに対し、神田橋の理論は帰納法的な理論なのだ。科学的一般論から始めるのではなく、個々の治癒症例から始めて、その本質的ロジックを導きだそうとするものなのである。つまりそれは「解釈」の一種だと言えるだろう。
したがって、神田橋の理論は、科学的理論とはちがい、「例外」的なものを切り捨てないために、非科学的な様相を呈してしまう。その理論は、あくまでも「解釈」であり「過渡的な説明」であり、その意味では「仮説」や「物語」でしかないので、「そんなもの信じられない」という人が多くても、それは仕方のない代物なのだ。なにしろ、そこには「科学的根拠」は無く、ただ「事例を統括する説明」があるだけだからである。

しかし、神田橋自身も、そのことは重々承知していて、自身の説明に納得できない人、特に「学者」が多いであろうことは、よく理解している。
それでも彼が平気でいられるのは、彼の「理論」であり「説明」は、「実践的技による効果」に「かたちを与える」ためのものであり、そのことによって「技を定式化して安定させた上で、さらに検討の対象とするため」であって、そうした認識を、多少なりとも「他者に伝えたい」と思うからである。「実践的な技術」が何より大切だとは言っても、それを「言語化」しなければ、それは個人的な身体的記憶に止まって、時間の経過にともに、おのずと失われてしまわざるを得ないからなのだ。

では、神田橋の「技」とは、どういうものなのだろうか。
それを、次のような「イメージ」で説明することも出来るだろう。

夏目漱石の名品『夢十夜』の第六夜は、仏師の運慶が登場する。

『『運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから…』
運慶が仁王像を彫っている。その姿を見物していた自分は、隣の男が「運慶は、木の中に埋まっている仁王を掘り出しているだけだ」と言っているのを聞く。自分でも仁王像を彫ってみたくなり、家にある木を彫り始めるが、何度やっても仁王は出てこなかった。』(Wikipedia「夢十夜」)

運慶は、まったく迷うことなく、仁王像を掘り出していく。その迷いのなさは、夢の中の男の説明によると、運慶にとっては「木を掘って、仁王像を作る」のではなく、「あらかじめ木の中に埋まっている、完成品としての仁王像を掘り起こす」だけの行為だからだと言う。しかし、夢の中の「自分」も、夢の中で同じことをしようとしたが、いっこうに木の中に仁王像を見いだすことはできなかった。そういうお話だ。

つまり、「なぜ、治るのか」という「謎」に対する神田橋の「理論的説明」とは、この夢の中の運慶における「なぜ、迷いなく掘れるのか」という「謎」に対する「木の中に、仁王像が埋まっているからだ」という「説明」と同質なのである。

神田橋は、長年の経験と修錬と試行錯誤によって、患者なのかに埋まっている病巣や病因が見えるようになった。透視術を身につけたわけではないが、ほぼ「わかる」ようになったのだ。
だが、この「わかる」は、科学的な言葉では説明できない。なぜなら、この「わかる」は、神田橋と同様の「長年の経験と修錬と試行錯誤」、さらには「資質や才能」がなければ、共有不能なものだからである。素人が運慶の真似をしたって、木の中に仁王像を見つけられないのは、当然なのだ。

したがって、神田橋の「理論」であり「仮説」であり「物語」は、信じられなくて当然であり、信じなくてもかまわない。しかし、彼の「長年の治療実績という現実」を無視することはできない(事実として運慶は、迷いなく傑作を掘り出す)。
彼の「説明」が不十分で不完全だとしても、「多くを治してみせた」という「現実」まで否定したり無視したりすることは、「科学的」な態度ではないからだ。

だから、科学者は、単に「神田橋の理論」を否定して満足するのではなく、神田橋の実績を、より「科学的に説明する」理論の構築に努めなければならないだろう。
神田橋の理論の、どこが不十分であり、どこが間違っているのかを、科学的にハッキリさせて、科学的に理論を構築するのが、科学者の務めであって、「わからないものは、ひとまず否定する」という態度は、決して「科学的な態度」ではないのである。

神田橋の理論は、例えば「エーテル仮説」のようなものだと考えればいい。
「エーテル」とは『光の波動説において宇宙に満ちていると仮定されるもので、光が波動として伝搬するために必要な媒質』(Wikipedia「エーテル」)で、宇宙空間を越えて届く「光」というものを合理的に説明するためには、その波動の媒介物がなければならない、「真空では伝わりようがない」としてひねり出された「理論」だ。
しかし、これは『特殊相対性理論と光量子仮説の登場などにより、エーテルは廃れた物理学理論だとされている。』というわけで、より「科学的な理論」によって取ってかわられたのであり、同様に神田橋の「不思議な治癒」に関する「説明」も、この「エーテル理論」と同様の「仮説」でなのだから、それは単に「否定」されるべきものではなく、より科学的な説明によって「乗り越えられるべきもの」なのである。

では、科学者ではない私たち「一般人」は、神田橋の理論を、どう考えればいいのだろう。
これは比較的簡単で、それを判定するに足る判断材料を充分に持っていないとか、それをあえて採用する必要がないというのであれば、「判断停止」しておればいいし、通常の治療法で治せる医師のいない難病にでも自分や家族が罹ったのであれば、神田橋を頼ってみればいい。それで治るという保証は無くても、ダメ元なのだから、試さない理由はない。
しかし、それで仮にうまく治ったからといって、神田橋の理論まで「鵜呑み」にする必要はない。いや、むしろ「妄信」してはいけない。それでは、「宗教」に頼って、現に病気の治った人が、その宗教の「教義」まで、丸ごと「鵜呑み」にして信じてしまうという「思考停止」の誤りと、同じことになってしまうからだ。

では、私自身は、どれくらい神田橋を信じているだろうか。

私は、彼の「治療実績」を、信じても良いと思っている。それはたぶん「ハッタリ」や「嘘」ではなく、事実だろう。しかし、彼の「理論」は、あくまでも「個人的な解釈」でしかなく、「仮運用のための物語」でしかないと思う。なぜ、そう思う(判定する)のかと言えば、それは、彼の「文体」から、彼が「故意に嘘をついてはいない」と看取できるからだ。本書の著者が嘘をついていないというのは、かなり確度の高いものとして、その文体から、私には「わかる」のだ。

しかし、そうした判断が、すべての読者に可能だというわけではない。同じ本を読んでも、驚くほど読みの深い人もいれば、驚くほど読みの浅い人もいる。そして、この違いが何に由来するのかを忌憚なく言えば、それは「訓練」と「才能」の差なのである。

つまり、私は「読書」における「読解」について、神田橋同様の経験と修錬を積んできたので、神田橋が嘘をついていないというのは、ほぼ間違いのない事実として推認できるのだが、しかし、この「読解力」は、誰にでもあるものでもなければ、誰にでも身につくものでもない。それは、ある意味で残酷ではあれ「明らかな事実(現実)」である。では、私に有って「読めない読者」には無いものとは何なのかと言えば、それは、科学的かつ具体的には説明しづらいものであろう。
だからそれは、「説明」ではなく、このように「実績」として示すしかないのであり、世の中にはまだまだそういうものが、現に多く残されているのである。

私は「無神論者」だから、「神」の存在を信じないし、「宗教教義」もすべて間違っていると否定する。しかし、例えば「神」が絶対にいないということを論証することはできないので、絶対にいないとは言えないことも知っている。これと同様、神田橋が「治療実践」のなかで見いだした「現実」も、理論的には不十分であり、そのままでは間違っていると言うべきだけれども、そこに「何かがある蓋然性は高い」とは認めるのだ。私が「全知」でないかぎり、知らないこと、知り得ないことの存在は、認めるしかないのである。

初出:2020年7月10日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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