忍たま時代は1568年(信長上洛以降)?と仮説提唱(※微訂正有)
これまでの調査(笑)の積み重ねから、土井先生ときり丸と他の諸生徒とご近所の方々は京都在住じゃないか?と仮説を立ててきました。
しかし、京都は応仁の乱によって50年以上荒廃していた…けれど、室町時代末期には祇園祭が復興していたとも聞く。
ならば、祇園祭が出来るほど復興した京都なら土井先生ときり丸が住んでいてもおかしくないのでは?(堺にも近い?し。徒歩でいけるか解りませんが、一応忍者だし…)
そこで偶然手にした上掲の本(祗園祭の中世―室町・戦国期を中心に)にヒントがありました。下記引用。
おわりに
戦国期、混乱をきわめた祇園会の式日は、元亀二年(一五七一)を境に安定化していく事になる。元亀二年といえば、織田信長によって延暦寺が焼討された年であるが、じつは祇園会の式日を混乱させてきたもっとも大きな要因というのも、このとき信長によっておもな攻撃対象とされた延暦寺大衆(衆徒)の存在にほかならなかったからである。
このように、織田政権の時代、祇園会はようやく安定的におこなわれるようになったわけだが(後略)(p189)
-------------------(京都文化博物館より引用)
永禄11年(1568)9月26日、織田信長が足利義昭を奉じて京都の東寺に入りました。
室町幕府の実権を握っていた三好勢は各所で抵抗を試みますが、織田の軍勢に圧倒されて敗退を重ね、間もなく京都は織田信長が制圧するところとなったのです。
そして10月18日には足利義昭が征夷大将軍となり、室町幕府は信長の軍事力を背景にようやく秩序を回復させたのです。
(原文の改行は筆者による)
上記の本と博物館のHPから読み解くと、京都の復興を乱していたのは延暦寺…ということで宜しいでしょうか?(衆派の皆様すみません、最近歴史を齧りだした素人の見解です)
京都上洛以降、延暦寺を焼き討ちして、京都に平安がきた…という事かな?
ちなみに、上掲の本はさっと見ただけでたまたま見つけました。
-------------------
また、これは記憶で書きますが秀吉の時代に水路が整備されたとあった気がします。
確か2日に1度はどぶ掃除。
土井先生ときり丸は、しょっちゅう町内会の掃除に駆り出されてますね。
ということは、秀吉の開拓事業以降?かな…。
時間がないので、また今度。
※訂正します。
参考資料
参考資料を読み返したら、2日に1度はどぶ掃除、ではありませんでした。
下記引用。
道路は日に二度清掃し水をまく、したがって道路はたいへんきれいで快適である。人びとは各自の家の前を手入れし、かつ地面に傾斜が有るので、泥土はなく、雨の降った場合にもすぐ乾く、
(日本教会史 / ジョアン・ロドリーゲス)
失礼しました。
ただ、このA5判型くらいの資料本は洛中洛外図の町を特に集中してフルカラー掲載しているので、当時の建物の構造がわかりやすい。(ピックアップといっても、A5なので拡大鏡などあるといいかも…)
秀吉が京都(の水路)を整備したとどこかで見た気がしますが、この本ではなかったようで…
信長が二条殿御屋敷に移徒した(1577)以降か、秀吉が妙願寺を城にして外堀を掘らせた(1584)以後辺りじゃないかと推測してます
〉〉土井先生ときり丸が京都に在住していた場合の年代。
国内で合戦が多かったのは、信長の時代と秀吉が関白になってからとどちらが多かったんでしょうか?
一応辞典はありますが、調べる気力が中々…ぶ厚い。今は往事の京都が気になります。二人の在地は京都と仮定しているので。
忍たまはしょっちゅう合戦や野武士や足軽が登場するので、合戦が多そう(多分)な信長上洛以降と仮定しています。
以上
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?