見出し画像

『祈り』と『化身』-日本人の心と社会の歴史的構成-「宗教的感情」フレームから見た日本の美術芸道-日本文化 日本的な感情・美意識・価値観の源流(改訂Ⅱ.「宗教的な感情」から見た日本文化 美術芸道-日本的な感情・美意識・価値観)

「祈り」と『化身』-日本人の心と社会の歴史的構成-『宗教的感情』フレームから見た日本の美術芸道-日本文化 日本的な感情・美意識・価値観の源流

 *昨年五月・七月・八月にアップした同名の原稿のアップデート版です。
まだまだ学ぶことが多く間違いもあると思われますが、以下2024年四月の時点で学び考えた事項を提示させて頂きます。
画像などはパブリックドメインのものを使用しておりますが、文章の引用含め著作権等で何か問題がありましたらすぐに削除など対応いたしますのでよろしくお願いいたします。


始めに:本論の要旨

以下は本論で展開する議論の要旨です。

中世-平安・鎌倉時代を中心に宗教が絶大な存在であった時代。死後地獄に堕ちる恐怖がすべての人々に浸透していき、数百年にわたり神仏に対して毎日のように『畏れます』『讃えます』『救いたまえ』『鎮まり給え』『悔い改めます』『敵を滅ぼしたまえ』など強い感情を持ち祈り続ける時代が続きました。

「美術に描かれる自然」もまた、神仏のような神霊であり絶大な信仰の対象で『畏れ』『讃え』る祈りの対象でした。
そして和歌-王朝文化は無意識に自然-神霊を『讃え』『鎮める』行為と本論では考えているのですが、これも数百年以上継続しました。

日本人は中世に
【祈り】:人格神的な神仏を畏れ讃え、自然-神霊を畏れ讃えて数百年祈り、和歌-王朝文化による無意識の呪鎮行為を続け、そして
【化身】:神仏や神霊などの感情や意思を意識-無意識に同化、内面化する営みを数百年続けてきましたが、

室町時代-江戸時代に入り、神仏が絶対的権威でなくなりつつある時代になっても「宗教ではないはずの芸術芸道」「文化や美意識価値観」「社会システム」に至るまでこの時代の文化は中世の宗教感情-【祈り】【化身】の無意識の残滓に大きく影響を受けており、

昭和から令和に至る現代日本の文明も依然として中世の宗教感情-意識の残滓に大きく影響を受けています。それは私たち、現代日本人の美意識や価値観、生きる理由死ぬ理由、働く意味や社会関係、さらには経済社会システム全般をも深いところで規定しています。

では本論に入ります。

1 中世の宗教美術などに紐づけられる「宗教的感情」を考える

1-1 浄土教絵画(仏像)やその他の宗教的な表象などの『宗教表現』

下右は平安末期に描かれた「地獄草子」です。天平の昔から仏教儀式で地獄図は使われており枕草子にも地獄絵の記述があります。当時の人たちは数百年にわたり死や地獄を本当に「畏れ」、神仏に対し「怒りを鎮めたまえ」と祈り続けていました。

その左は、死が近付いている人を阿弥陀如来が菩薩と共に迎えに来る来迎図です。平安末期の「迎講」という宗教行事等で使われました。この時代、人々の心は「阿弥陀仏を讃え帰依します」「私をお救いください」(地獄に墜とさないでください)の声-祈りに満ちていました。

『日本の中世の初期は、庶民の間に、地獄への恐怖の感覚が深く浸透した時期であり、神仏に寄付を行えば亡者供養と自分の極楽往生がかない、地獄堕ちが避けられる、とする勧進興行の場に多くの人々が吸い寄せられ、そこに多額の物品・金銭が落とされた時代でもあった』(中世芸能講義:松岡心平先生)

十世紀末に源信「往生要集」の克明な地獄の描写の影響で地獄草子のような絵が多々描かれ、地獄に堕ちる恐怖は一般庶民にまで浸透します。
中世の社会では神仏-宗教は人間の生活全てに強大な影響力⁻支配力を持っていました。農業で降雨を祈る呪術的祈禱は生産活動の不可欠な一環、領主に年貢を納めることは宗教的善行で領主への反抗は宗教的悪行-神仏の怨敵行為で地獄に堕ちると脅されるわけです。

本論では、この時代の人たちが地獄絵図や浄土教絵画を前に強く抱いていた「畏れます」「救いたまえ」等の、神仏などに対する宗教的感情などの考察から探求を開始しました。 

 

上左は北野天神縁起絵巻です。菅原道真は、死後数百年を経ても怨霊として怖れられ「怒りを鎮めたまえ」と祈られると共に天神の加護を求められていました。その下は不動明王像です。中世の仏教は政敵や憎い相手を呪うことにも関わり、この絵は「敵を滅ぼしたまえ」の祈り(呪い)の絵です。

右は浄土教の二河白道図、水の河(貪欲な心)と火の河(怒り憎しみの心)の間の細い白道を渡ることで往生者が極楽往生を遂げる様が描かれた、懺悔-悔い改めの祈りの絵です。

 

上は東大寺南大門の金剛力士像です。外敵を払う仏法の守護神で恐ろしい忿怒相の金剛力士像のこの気迫と力強さ。例えば出陣前日の武士は、この像を前に「我も明日はこの力強き素晴らしき金剛力士の如く仏敵を蹴散らすぞ」と自らを鼓舞したかとも想像します。
この金剛力士像を「讃える」気持ちは、動的・感情豊か・肉体的で古代の多神教の神々を讃えるのに似るかと思われるのですが、一方で先ほどの阿弥陀来迎図、定朝などによる日本の仏像への感情は「讃え帰依する」-静的・理知的・精神的で文明後の一神教の神に似るものと思われます。

以降、赤字の「讃える」と青字の「讃え帰依する」、二つの「讃える」を区別し表記します。 

 上は「人間が宗教的な表象を前にしたときに胸中に浮かぶメッセージ・宗教的感情」の一覧です。網羅的なものではありませんが、以降これを前提に進めさせていただきます。

 

 平安末期-鎌倉時代は民衆にまで地獄への恐怖の感覚が深く浸透し、神仏を讃えます、讃え帰依します 畏れます 悔い改めます 我を救いたまえ、怒りを鎮め給え、敵を滅ぼしたまえ …等々、地獄に堕ちることを畏れるすべての人たちの心をこれらの祈りが圧しておりその時代は数百年続きました。

なお、日本-世界の神々は人間に対して「我を讃えよ・我を畏れよ・悔い改めよ」等命令しているのではないでしょうか。
表の左半分の「神仏を讃えます、讃え帰依します 畏れます 悔い改めます」は「神仏の命令に従っております」という神仏の命令に対する「返答」と言えるでしょう。
上表の右半分は、神仏への「返答」ではなく、人間から神仏への「依頼」と言えます。神仏へのメッセージ-祈りにも、『神仏の命令に対する「返答」』『人間から神仏への「依頼」』 の二種があるかに考えられます。


1-2 神霊との【憑依】に関わる「意識状態・場」

ここで神霊との【憑依】に関わる「意識状態・場」につき説明-考察します。
平安時代には病気など不幸の原因である「物怪」を退散させるために「験者」が加持祈祷を行いましたが、その姿は一般の人々には不動明王などの化身のように見えたでしょう。
また、中世では領主に年貢を納めることは宗教的善行であり領主への反抗は神仏への怨敵行為でした。一般の人々は意識-無意識のうちに、領主や僧侶の命令-言葉を神仏の言葉として受け取り、領主や僧侶を神仏の化身のように感じる部分があったと推定されます。
そして、歌人が和歌を詠む姿・舞人の舞・美しい佇まいに、一般の人たちは意識-無意識のうちに美の神の面影を重ねることもあったでしょう。武将の雄姿や言動や佇まいに、部下や民衆は猛々しい金剛力士のごとき戦神の面影を見ることもあったと思われます。
領主・僧侶・詩歌人・舞人・武人・職人などはときに一般の人々の前で神仏や美の神、戦神、その化身のように演じ振る舞ったでしょう。その中で、彼らは意識-無意識のうちに神仏のように感じ・考え・振る舞うことがあったと推測されます。阿弥陀仏のような慈悲の心、金剛力士のような仏敵を許さぬ憤怒の心、美の神のような心が部分的に内面化され、彼らはそれにふさわしく行動し振舞ったと推測します。


これ以降、【憑依】という言葉を「完全に神霊に心を乗っ取られたような状態」から「部分的に神霊の感じ方や考え方や振舞いを内面化した状態」までの、幅広い状態を含むものと考えて使います。「憑依をあまり厳密な神憑り状態としない」(「古代和歌の発生」古橋信孝先生)考え方をとります。

この「命令する者・僧侶・詩歌人・舞人・武人・職人など」が「一般の人々」から見て神仏や神仏の化身のように見えている場は、深い精神性を湛えた宗教的空間となっていたでしょう。このような状況が数百年続く中で、一般の人々も、神仏を畏れ讃え、詩歌や舞の美に心を奪われ、武将-戦神の姿に鼓舞される中、神仏-神霊に【憑依】されていったと推測します。この宗教的空間の中で、一般の人々も神仏の心-阿弥陀仏のような慈悲の心、金剛力士のような仏敵を許さぬ憤怒の心、美の神のような心を部分的に内面化し、人々はそれにふさわしく行動し振舞ったと推測するものです。

このように、宗教が絶対的な権威と影響力を持っていた中世においては、
・しばしばある人間が意識-無意識に神霊に【憑依】されたような状態になり
・一般の人からはその人間は神霊あるいは神霊の化身のように感じられ、
・その場は深い精神性を湛えた宗教的空間となっていた
・一般の人々も神霊に【憑依】されていった  …と思われるのです。

神霊に【憑依】されたとき人は神霊と同じように感じ考え行動したり、神霊に魅了され心を奪われ我を忘れ、神霊に人格を乗っ取られ別人格のようになることすらあったでしょう。神霊に【憑依】された状態は身心を神霊に提供し、神霊の意を身心で体現している状態です。ある意味神霊に「近い」状態です。それゆえに【憑依】された人は、ある種の高揚感・安心感・満ち足りた意識状態-快さの状態にあるのではないかと思われます。

以上を踏まえ【憑依】された人間においては二つの「自分」が存在します。一つは
・【祈り】の自分・・・讃え畏れます、救い鎮め給え…など神霊に対し人間として祈る自分、もう一つは
・【化身】の自分・・・他の人間に対し神霊の化身のように振舞い力を行使する自分です。
【化身】の状態の人が意識-無意識に発する「我を讃えよ・畏れよ・悔い改めよ」のメッセージは、先の『神仏から人間への「命令」』のコピーです。
仏教-宗教の支配が絶対的な時代が数百年続いた時点では、最上層から最下層に至るすべての人たち-すべての【憑依】された人間は、二つの「自分」=【祈り】の自分、【化身】の自分を共に内面化していた
でしょう。

続いてはこれら【祈り】【化身】の「宗教的感情」について考えてみます。以下の表の左側の【祈り】の欄の下を見てください。

人間は神仏からの命令への返答である「讃えます」「畏れます」「悔います」、人間から神仏への依頼の「鎮まり給え」「救い給え」「滅ぼし給え」などのメッセージを意識-無意識に神に対してー「人から神へ」送っていたと考えます。
青の「讃え帰依せよ」と赤の「讃えよ」は区別し色分けして表記します。(「無意識で起きている事」-「感情の憑依」は表の右側の説明の際に説明します。)

【祈り】の状態で神と交わっている人は神を感知している高揚感に包まれ、彼は阿弥陀如来の絵などを見て歓喜し「讃え帰依します」という「賛美」の宗教感情や、金剛力士像の勇壮な姿に「讃美」、地獄草子を見て「畏れ」、二河白道図には「悔い改めます」、道真の怨霊の絵を見て「鎮め」、不動明王の前で怨敵を呪いつつ「憎悪」などの宗教感情等を抱いたでしょう。
そして自分や周囲の人が苦しみの中にあって阿弥陀如来像などを前に「救い給え」と切に祈る時、その人の心の中は「悲しみ」が強くあるのではないでしょうか。意識-無意識に、神に対して「私の心は悲しみに満ちていることを見てください」と演じ訴えているのです。
一番下の欄のように【祈り】状態の人間は祈りと「祈りを込めた表現活動」を行います。

図表の右側は【化身】状態の人間の「宗教的感情」などです。神が人間に発する命令・宣言である「我を讃えよ・畏れよ・悔い改めよ・我は攻撃の神」などにつき、彼は神の化身として神の代わりに命令・宣言しているのです。
支配者の場合は、神仏の威を背景に「我は世を統べる神」(の使い)、武将なら「我は攻撃の神仏」(の権化)という宣言を意識無意識に他の人間に発しています。彼が僧侶なら「我は民を救う慈悲の仏(の化身)」、美しい舞を舞う白拍子なら「我は美の神」(の化身)等となるでしょう。これらは「神から人へ」(「神に憑依された人」から「人」へ)向けられた宣言-メッセージです。

その下の「無意識で起きている事」ですが、
【祈り】状態の人は感情が神の強い影響下にあります(「感情の憑依」)。これに対して
【化身】状態の人は意志までも神の強い影響下にあり、神の化身として他者に影響力や力を行使しています(「意志の憑依」)。
【化身】状態で神と交わっている人は、無意識に神と一体化し高揚感に包まれています。彼は、支配層の人間なら「我は世を統べる神」(の使い)としての万能感に満ち命令支配、主張、哄笑し、武将なら「我は攻撃の神仏」(の権化)として憤怒・憎悪・攻撃衝動、敵を見下す哄笑の衝動に駆られ怨敵を攻撃し、僧侶なら慈悲の仏の権化として、静謐な高揚感とともに「慈しみ」の感情のうちに民を救う行動をとり、白拍子なら舞で美を表現する、等と考えます。
世界では、ギリシャやインド等の多神教では性的に奔放な神々、遊ぶ神は多々見られます。そのような神々が日本人の意識-無意識にもあると考え、グレーの欄はそれを表記したものです。
なお中央に右・左向きの矢印と「個人の意識行動のなかで常に混合往復」と記述しました。中世の人々は、【祈り】【化身】の二つの「自分」をせわしなく代わる代わる生きていたと思われます。

当時、【祈り】状態にあること-「祈ること」には深い安堵や救済、幸福感、晴れやかな気持ちなどの快さが伴っていたでしょう。神霊への祈りの義務を果たした満足感、願いが叶えられる期待、また神霊への感謝の祈りには幸福な気持ちが伴っていたでしょう。また、【化身】状態にある人は、活力の漲り・自信・万能感などを体験していたでしょう。当時【祈り】【化身】状態にある人は、現代で言う「幸福・至福」に近い心の状態にあったと思われます。彼らは数百年にわたり、【祈り】【化身】に伴う「幸福・至福」の心の習慣を続けていたのです。

 

古代-中世の日本人の仏教以外の神霊との関りについて
ここでは当時の日本列島人の浄土教-仏教以外の、神霊との関りにつき補足させて頂きます。
・夜刀神 (やとのかみ)-「うちはらわれ祀られる神」
8世紀の「常陸国風土記」には箭括麻多智(やはずのまたち)が葦原(あしはら)を開墾しようとしたところ夜刀神(蛇の神々)に妨害されたので、麻多智は夜刀神を打ち払い、その後に祀祭者となり祀ったとあります。
人間にうちはらわれ祀られる神-神霊の在り方です。
・救済のために人間に造寺や修行、供養を求める「苦しんでいる神」
8世紀には各地の神社に神宮寺が建立されました。たとえば気比神社の神宮寺建立の由来ですが、武智麻呂(むちまろ)の夢に現れた気比神(けひのかみ)が「われ宿業に因り神たることもとより久し。今仏道に帰依せんと欲し、福業を修行せんと欲すれども、因縁を得ず」と告げ、武智麻呂は神の依頼に応え神宮寺を建立したのです。(『藤原家伝』)
若狭の比古神社に伝わる話(『日本後紀』)では、疾病の死者夥しく天候不順で穀物も実らなかったとき修行中の赤麻呂に神が「我れ神身を稟けて、苦悩甚だ深し。仏法に帰依し、以て神道を免れんことを思ふ。斯の願を果すこと無ければ、災害を致すのみ」と告げ、赤麻呂が神の依頼に応え道場を建立し修行すると疾病も天候不順も収まりました。
神宮寺などの造寺や造仏以外に神前読経なども行われたこの時代には、苦しんでいる地方の神が人間の助け(造寺造仏や修行、読経など)により救われるという話を多々見つけることができます。
・「日本霊異記」の生者の供養を求める「苦しんでいる死者」
なお9世紀初頭の「日本霊異記」(「日本国現報善悪霊異記」)を見ると、前世に稲を盗んだため牛に生まれ変わった男が自分の子と僧に供養され往生する話、死んだ男の髑髏が人や獣に踏まれて苦しんでいたが旅の僧が髑髏を樹上に置いたので救われた話、前世に非道な行いを重ね地獄で苦しんでいた男がいたが子が仏を造り経を写し三宝を供養し償う話…など苦しんでいる死者の霊が生者の供養を求め、救われる逸話が多々描かれています。
浄土教-仏教の諸仏、また菅原道真の怨霊など強大な神霊とは別に、苦しみを抱え、人間-生者の助けを求めておりそれにより救われる神霊-神や死者の霊が古代-中世の日本人の精神世界には多々存在していたのです。
これら「苦しみを抱え人間-生者の助けを求めておりそれにより救われる神霊」の在り方も念頭に置いていただきつつ、続いては中世の数百年【祈り】に似た感情を喚起し続けた文化=和歌と王朝文化を見て頂きます。

1-3 神仏を描かず宗教感情に似た感情を喚起する和歌-王朝文化の『D表現』


和歌に宗教性や救済を見出す議論は中世から現代まで多々存在します。
池永三郎先生「日本思想史に於ける否定の論理の発達」には、平安貴族の文化においては自然、山里が非常に重要であったこと、新古今和歌集の時代の没落しゆく貴族階級の間で、和歌の文化を究め没入することが宗教的な救済に近かったこと、それは西行や鴨長明が自然の中に救いを得たことに近いことが論じられています。
その他亀井勝一郎先生も、『歌作-歌を作ることは、美のためのきびしい修錬をめざす一種の「行」の世界となった。』、磯部忠正先生も『日本人にとって、花や月を詠むことによってしか、ほんとうに己れのこころを語ることができない』など和歌の文化に宗教的、救済的なものがあると論じています。 

和歌の源流にある宗教性
鈴木日出男先生は「古代和歌の世界」で(p62)

ぬばたまの夜さりくれば巻向の川音高しも嵐かも疾き
(万葉・巻7・一一〇一人麻呂歌集)
たらちねの母に障らばいたづらに汝も我も事や成るべき
(万葉・巻11二五一七作者不明)

の二つの和歌をあげ
『前者の「ぬばたまの夜」は嵐を呼びおこすような夜の暗闇の恐怖感を鮮明にし、後者の「たらちねの母」は子との絆を強くひきつける母系家族の威厳を彷彿とさせている。このような枕詞が、和歌の文脈において詩的なイメージをふくらませる言葉である点は、疑う余地もない。』…
『古代の人々はこのように、畏怖すべきもの、驚異的なもの、崇高なもの、偉大なもの、大切なもの、美しいものなどを言う場合、・・・枕詞を用いて強調したのである。そのような言葉の用い方の背後にはおそらく、彼らの生活のなかの広い意味での信仰的な心情が作用していたものと思われる。』
と記されています。古今和歌集にも多々登場する「枕詞」とは、時代を遡ると宗教性-信仰的な心情が作用していたものなのです。
古代歌謡の「土地讃め」の歌も宗教性-信仰的な心情に関わるものです。単にその土地の美しさを讃めているのではなく、その土地に入るときには「土地讃め」の歌でその土地の地霊を鎮めることが必要だったのです。

佐藤和喜先生の「景と心-平安前期和歌表現論」には、和歌の宗教性-信仰に関して多くの記述があります。例えばp18別れや旅立ちを詠んだ歌である離別歌は単に別れる際の心情を読んでいるのではなく『旅の安全を保障する呪術的な意義を持っていた』のです。離別歌によって留まる者の心(魂)が旅立つ者に分与されることで『こことそこ、こちら側と向こう側とは呪的につながり、旅の安全と再会が保障される』のです。

そして古今集離別歌冒頭の二首

立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む
(古356在原行平)

すがる鳴く秋の萩原朝たちて旅ゆく人をいつとか待たむ (古366)

を例に、古代においては歌に詠まれる「待つ」とは『神に祈ったり、呪術的な行いをしたりして待つこと』であり、神への祈りー呪術的行為だったことが記されています。
また古今和歌集の仮名序の「花に鳴く、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」を提示され、p31神の司る四季の循行は鶯や蛙など自然の生き物の声により示されると記されています。和歌はそれを歌う-寿ぐものだったのです。
ほととぎすと花橘のような「鳥獣と花の組み合わせ」も『p51鳥獣と花との組合せは、…神の来訪とそれを迎える巫女との関係をその発想の根底に持つ』ものだったのです。
このように、
●古代の人たちが歌を詠むとき彼らの心には、意識-無意識に「神」が存在していたのです。
●自然は「神」に近い、「神」のような存在だったのです。そして
●古代の人たちは、「神」をあからさまに描かずに、自然を詠み、貴族社会全体で豊饒な表現を生み出し続けたのです。
●豊饒な表現の創造-蓄積-創造…のプロセスの中で、古代の人たちの意識-無意識の「神」は、豊かに深められていった
 と推測するものです。

 
王朝文化-和歌の文化の原点を規定した古今和歌集の特徴
古今和歌集は以降の和歌の文化-王朝文化の美意識を規定したと言われているのですが、『古今和歌集 全注釈』片桐洋一先生)には

『古今集の和歌は、外界の事物を事物のままに詠む〈写生〉の歌ではなく、事物に託して移ろいゆくものを我が身のこととして嘆き惜しむところに抒情の中心がある。花は待たれて咲き惜しまれて散る。…人も同じ。「我が身世にふるながめ」(春下・一一三)を愁え、人の心が花のように移ろいゆくことを嘆き、惜しむのである。』と記されています。 

また「古今和歌集評釋」(窪田空穂先生)には

『古今和歌集の中心をなしてゐるものは、春夏秋冬の歌六巻、戀の歌五巻、合せて十一巻である。この四季と戀とは・・・一つの色調に塗りつぶされてゐる。それは、未だ見ざる美しさ樂しさに憧れる心と、既に亡び去った美しさ樂しさを思ひ偲ぶ心とで、美しさ樂しさその物は没したといふ特殊なものである。』と記されています。

『いまはこの場に無い-あるべき完全な美を想起し「嘆き、惜しむ」美意識』が古今和歌集の美意識であり、貴族たちの生活の美意識だったのです。

以下は古今和歌集の歌です。

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
(小野小町 009)
垂れ籠めて春の行くへも知らぬ間に待ちし櫻もうつろひにけり
(藤原因香 999)
三輪山をしかも隠すか春霞人に知られぬ花やさくらむ
(紀貫之 035)

花の色はうつりにけりな…の歌は、桜の盛りが過ぎた、失われたことと自分の容貌の衰えを重ねています。垂れ籠めて…の歌は、病気で臥せっていたうちに、春の行くへも知らぬ間に、待っていた桜の季節も過ぎてしまったのです。三輪山を…の歌の三輪山は桜の名所です。それを隠すか、霞よ。人に見られず桜が咲くよ、と歌っています。
『いまはこの場に無い-あるべき完全な美を想起して、「嘆き、惜しむ」美意識』が古今和歌集、和歌の文化の基調に流れており、このような心の働き、感受性と表現活動を数百年も続けてきたのが和歌-王朝文化なのです。
今風に言えば脳内AR/VR能力の芸術-文化です。

ここで、古今和歌集の文化に則った歌人が「今は失われた素晴らしいなにか」を詠む-「思う・偲ぶ」心を「なにか」を擬人化して想像します。

「なにか」とは、彼らの心に意識-無意識に存在していた「神」が該当するかと思います。ここで「浄土教-仏教の諸仏、また菅原道真の怨霊など強大な神霊とは別」に「苦しみを抱え、人間-生者の助けを求めておりそれにより救われる神霊-神や死者の霊が多々古代-中世の日本人の精神世界には存在していた」ことを思い出して下さい。古今和歌集の和歌は、悲しみや欠落を負った神霊的なものを讃え、その苦しみを和らげ鎮めるためのメッセージ(祈り)のように感じられないでしょうか。
左上の讃え:歌人には失われた「なにか」の限りない美や尊さを讃える心があります。
右下:その「なにか」は失われたことによる悲しみ・欠落を負っているので
鎮め:歌人には失われた「なにか」の悲しみが鎮まるように祈る気持ちがあります。
右上の救い:歌人は無意識に「なにか」の悲しみが癒え救われることを祈っていて、「なにか」が救われることで歌人も救われると感じています。
左下の畏れ:その「なにか」は歌人を脅かす存在ではありませんが「なにか」への畏敬の念は歌人の心の底流にあるのです。

対象となる神仏が明示されていないながら、古今和歌集の文化には「讃え」「畏れ」「救い」「鎮め」等のメッセージに関わる美的表現があるのです。
 和歌-王朝文化の『今はこの場にないものを思う・偲ぶ美意識』は、尊い「なにか」に対する『讃え』『畏れ』『救い』『鎮め』の心の動きと結び付けられるのです。

和歌を詠むときの『予期』と『驚き』『偲び』そして『幻視』
続いて以下六首の古今和歌集の和歌をご覧ください。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
(藤原敏行朝臣 018)
谷風に解くる氷のひまごとにうち出づる波や春の初花
(源当純 999)
散りぬとも香をだに残せ梅の花恋しき時の思ひ出でにせむ
(よみ人しらず 048)
桜色に衣は深く染めて着む花の散りなむ後の形見に
(紀有朋 066)
五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
(よみ人しらず 139)
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に浪ぞ立ちける
(紀貫之 089)

最初の二首は秋が来たと目にはっきり見えるものではないが、風の音に秋の訪れをはっと気付かされる-驚かされる。谷風に氷が融け、その隙間に現れる波こそ春の初花なのだ…といった意味の和歌ですが、このような和歌が詠まれるには、歌人には生活の中で常に精妙な自然の変化に耳を澄まし待ち続ける祈り待ち-『予期』する心が必要です。そして変化を見出した歌人の心には動き-『驚き』がありそれが歌となるのです。古代、季節の訪れは意識-無意識に神々の訪れに近い‐等しいイベントでした。そしてこの時代の和歌の多くは贈答歌や唱和歌など二、三人以上の場で詠まれ、そこで人々は歌が詠まれるのを耳を澄まし期待して『予期』-待ち、よき歌が詠まれた際には『驚き』-動く心があったでしょう。

三、四首目はこのまま散ってしまっても香りだけでも残してくれ梅の花よ、お前が恋しいときの思い出にしたい。桜色に衣を染めて着よう、やがて散ってしまう桜の思い出の形見となるように、といった意味です。今を咲き誇る梅や桜を前に、既に過去のことのようにその美を『偲ぶ』情緒が詠まれているのです。時系列的に整理すると何者かの訪れを『予期』する心があり、そのものの訪れに『驚き』、過ぎ去ったそのものを『偲ぶ』のです。

なお五首目は漂い来る橘の香りに昔関係があった女性のことを思い出した、まさに『偲ぶ』情緒の歌ですが、同時に詠み手は昔の女性の面影を『幻視』しているのです。そして六首目は、桜を吹き散らした風のなごり-浪残り-に水なき空に浪が立っているよ、と機智を効かしつつ現実には存在しない美しい水なき空の波を『幻視』していると言えます。
ここで挙げた『予期・驚き・偲び』『幻視』の心の働きは古今和歌集、そして和歌-王朝文化に横溢していると言えるでしょう。

ここにおいて
和歌-王朝文化の場には、神霊の訪れを待ち焦がれ-『予期』し、神霊の訪れに心が動き-「驚き」、過ぎ去った神霊の顕れを『偲ぶ』び、神霊の姿や徴(しるし)を『幻視』することに近いものがあったと推定
『予期』:「神の訪れの予期」の美的表現、
『驚き』:「神の訪れの驚き」の美的表現、
『偲び』:「過ぎ去った神の顕れの偲び」の美的表現、
『幻視』:「神の姿や徴を見る「幻視」」の美的表現(いずれも神仏は明示せず)を加え、
和歌-王朝文化では『讃・畏・救・鎮』『予期・驚き・偲び』『幻視』の8つの心の動きがあったとします。

 ここで和歌の特性を表現する「D表現」という概念を導入します。
・「D表現」とはあからさまには神仏を描いていない表現 でありつつ
・『讃・畏・救・鎮』『予期・驚き・偲び』『幻視』等の心の動き、
・崇高-強度がある-美的-あはれ-深遠等「深い=Deepな」感情体験を喚起する表現
です。
・多くの王朝文化の作品は「D表現」に入ります。
・今後、「D表現」に喚起される感情を「D感情」、
神仏を描いた「宗教表現」に喚起される感情を「宗教感情」と表記
します。
・人格神的神仏への宗教感情の表記「讃」「救」「讃えます」…等に対し、「D感情」の表記においては『讃』『救』『讃えます』等、『』の二重鍵括弧で表記します。
 和歌-王朝文化の『今はこの場にないものを思う・偲ぶ美意識』は
『神仏を描いていないのに宗教のような感情を喚起するD表現』
なのです。


古代の人たちが歌-和歌を詠むときの彼らの心に起きていたプロセス

●古代の人たちが歌-和歌を詠むときの彼らの心には意識-無意識に「神」が存在していた
●自然は「神」に近い、「神」のような存在
●古代の人たちは「神」を描かず深い感情を喚起するD表現として自然を詠み、貴族社会全体で豊饒なD表現を創造し続けた
●それらの表現には『讃・畏・救・鎮』『予期・驚き・偲び』『幻視』などの宗教的な祈りに近い心の動き-D感情が随伴していた
●古代の人たちは豊饒なD表現の創造-蓄積-創造…のプロセスを重ね、D感情を喚起し深める体験を重ねた。
●宗教的な「祈り」に近い心の動きが随伴しているそのプロセスの中で古代の人たちの意識-無意識の「神」は、豊かに深耕されていった

以上のプロセスをこのように図示するものです。なお前掲のように、和歌-王朝文化の美とD感情には「脳内AR/VR能力」が関わっていました。


次図は和歌⁻王朝文化に関わる人間の【祈り】【化身】の「D感情」等です。

古代の人が和歌を詠む際に意識-無意識に存在していた「神」を『』で囲い『神』と表記しその『神』への【祈り】【化身】も、【『祈り』】【『化身』】と表記します。
「畏れます」「讃美」等も『』で囲った『畏れます』『讃美』等のD表現、D感情として表記します。

表の左側は【『祈り』】の状態の人間の「宗教的感情」等です。和歌-王朝文化では『悔います』『滅ぼし給え』は希薄と思われ、グレー・薄字で表記しました。 ※ここの『あはれ』の表記についてはすぐ後で説明します。
表の左側の【『祈り』】は人から『神』への方向のメッセージです。感情の憑依が起きており、『神』を感知している高揚感Ⅰのもとにあります。
なお古今和歌集、和歌-王朝文化で喚起されるD感情には8感情のどれも含みかつ融合した「X」としか言えないようなD感情があると思われ、この「X」として8感情の中央に『あはれ』というD感情を追加しました。
「メッセージ等」の欄の『あはれ』はこの「X」 -『あはれ』に対応するメッセージです。貴族が感極まり『あはれ』と口にするとき、それは無意識には『神』に向けたメッセージでもあるのです。

『悔い』『憎悪』は希薄と思われ、グレー・薄字の表記です。
D感情のもとで人は『祈り』、表現活動などを行う、としました。

表の右側は【『化身』】状態の人間の「D感情」などをまとめたものです。『悔いよ』『我は攻撃の神』は希薄と思われグレー・薄字で表記しました。表の右側は『神』から人へ(「『神』に憑依された人」から「人」へ)の方向のメッセージで、意志の憑依が起きており、『神』と一体化した高揚感Ⅱのもとにあります。
例えば規子内親王が天禄三(九七二)年の壮大な歌合を主宰した際や、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が舞う際などに彼らは「高揚感Ⅱ」のもとにあったでしょう。
D感情の例ではこの規子内親王等想定し「美を統べる万能感」としました。一方で希薄と思われた「哄笑の衝動等」「怒り・憎悪・攻撃衝動」「主張 哄笑」「怒り憎しみの表現 攻撃」はグレー薄字で表記しました。
なお王朝文化の恋愛の文化、源氏物語の光源氏等を想定し【『化身』】に「性的衝動」「性的放縦」を明記しました。
【『祈り』】【『化身』】の両者は「個人の意識行動のなかで常に混合往復」しています。

そして人格宗教表現の際に似て、和歌-王朝文化においても【『祈り』】【『化身』】に伴う深い安堵や救済の感覚、幸福感、活力や自信、万能感を感じる心の習慣を彼らは数百年にわたり続けていたのです。

1-4 神仏の現れとして自然を描く-『自然宗教表現』

続いて神仏の現世での現われ、宗教表現として描かれた中世の自然の絵を見て頂きます。
左の絵は宮曼荼羅という宗教画です。中世には神社の神殿の周辺の深い山を浄土と見做す思想が広がっていました。

右上の阿弥陀来迎図ですが、美しい山林には春夏秋冬全ての季節の植物が描かれています。この山は現世ではない、浄土の世界なのです。その下は室町時代の「日月山水図屏風」。生命あり蠢くような山や荒々しい波などが神秘的です。
これらの表現を『自然宗教表現』*と呼びましょう。これらの絵でも畏れ・讃え・鎮め・救いたまえ等の感情が喚起されますがそれは『宗教表現』と比べると言語化されておらず曖昧不明瞭ながら、人間に強い影響力を持っていたと推測します。

*この時代には神仏と独立した物質的なnatureを意味する「自然」の概念は無く、あくまで現代の視点による限界を持った呼称と考えてください。

 以下に「自然宗教表現」の場合の「宗教的感情」を図表で示しました。

自然の神の場合も人格宗教表現の神に似たメッセージ等や宗教感情があり、
しかし比較的言語化されていないと考え、表では濃緑で区別して表記しています。
「自然宗教表現」では「讃え帰依します」「讃えます」の二つを一つに統合し、「哄笑の衝動等」「主張 哄笑」、「我は性的奔放の神」「我は遊ぶ神 その他」等は希薄と思われグレーの薄字で表記しています。

宗教儀式等で「自然宗教表現」の絵画などの前にいる際人間は【祈り】状態にあると考えます。
【化身】状態は、例えば宮曼荼羅にある神社の深い山を守る立場の人や、平安時代の修験者、山伏なども自然なる神の【化身】状態にあったかと推測します。後の時代の能に出てくる山姥も【化身】状態と考えます。
次章からはこれらの枠組みを踏まえ、中世以降の芸術や芸道、生活文化を読み解きます。

2. 『D表現』の視点で室町時代以降の芸術や芸道、文化を読み解く

2-1 五山文化を経て-中国の山水画と雪舟や狩野派の山水画に見る日本の自然-神霊

日本の山水画は「五山文化」の影響を大きく受けています。「五山」とは鎌倉-室町時代に幕府の保護の下で宋元中国文化の受け皿となった相国寺、円覚寺などの禅宗寺院です。
五山は「中国の宋元の上層階級の詩画書や思想哲学、生活文化」を日本で育みました。室町文化そのものが五山で育まれた芸術や感受性、様々な生活文化が編集統合される中で形成された部分があるのです。
五山の文化は足利義満の頃から将軍家周辺を通して広く社会に影響を与えていきます。

五山の中で尊ばれた中国の絵画と自然の描写ですが、




右:伝 胡直夫の夏景山水図、足利義満の所蔵品です。夏の濃霧の深山幽谷に光がさし、びゅ!と風が吹き隠者が立ち止まり風に抗い屹立。自然に対峙する意志ある人間です。
左:梁楷の雪景山水図、室町将軍家の所有物です。荒涼とした雪景色の山の中騾馬に乗る人間。中国のとてつもなく深い雪山、、峻厳な自然の只中で己の道を行く人間を描いています。
 人間と隔絶し、人間の畏怖も礼拝も求めぬ超然とした山-自然。それに対峙する人間。或は悠然と我が道を行く人間。中世日本の「自然宗教表現」や、やまと絵の自然・その中の人間の在り様とまったく異なる世界観です。
この世界観に近い思想を「花と山水の文化誌」(上垣外憲一先生)から紹介します。

11世紀の中国(北宋)の政治家・文学者の蘇軾

の著した「前赤壁賦」では、蘇軾の友人が長江の雄大無限と比べて人間の生のはかなさ、悲しさを語るのに対して、蘇軾はp172

『君はそれが水と月のようなものであるということを知らないのか。逝く者はかくの如しという孔子の言葉のように、水は流れるが、滾々とながれて尽きない。月は満ち欠けするが、しかしとこしえに存在する。変わるという点から見れば天地も一瞬で変化せざるをえない、変わらないという点から見れば、物と我ら人間は皆無尽なのである』と答えます。

中国の山水画の自然-人間像は蘇軾のような思想に支えられたものなのです。

続いては鎌倉-南北朝時代の日本の五山の僧侶、雪村友梅に関する記述です。p195
『雪村友梅の宇治川を詠んだ詩句を見ると、彼が意識的に「もののあはれ」的な宇治川の連想を吹っ切ろうとする表現をまず提出していると感じられる。
江流勇決龍蛇鬪 橋影横斜蠕蠊腰 山寺殿摧僧寂々 一樓鐘扣幾昏朝
江流勇を決し竜蛇闘う   橋影は横斜す蠕蠊の腰
山寺殿は摧れ僧寂々たり  一楼鐘を打つ昏朝幾ぞ
宇治川の勢い良く泡立ち流れる様は、竜蛇が決闘しているようだ。
橋の影は長く、うねる流れに映っている。
山寺は堂宇も荒れて僧も少なくひっそりしている。
鐘楼の鐘も朝暮れどれほどの年月を経たものか。』…
『宇治川といえば、宇治の山荘での『源氏物語』「宇治十帖」で宇治川の水の流れは恋の逢瀬の伴奏ともなり、恋愛の滅びの相と共感しあう無常滅亡を現す水』なのですが、源氏物語や王朝文化で詠まれる自然と比べ五山の禅僧である雪村友梅の描写する自然はまさに苛烈です。

足利義満の時代以降、日本の五山の禅宗寺院で周文、如拙などの日本人も山水画を描きますが、彼らの山水画の自然-神霊や宗教性は中国-異郷のものに感じられます。

それは当時の日本人の心根には近しいものでは無かったかと推測されます。

 そして日本ならではの山水画を大成させた雪舟が登場します。雪舟は応仁の乱の頃に二年間中国の明にわたり、中国の自然や人々や暮らしをつぶさに観察しています。

上の四季山水図(山水長巻)は16メートルに達する巻物の山水画で、中国の四季の雄大な景観とその中の様々な人間の営みが描かれ、画風や構図、建物や人物なども中国風ながら、自然を含めた全体の情景は日本人の心情、感覚にも親しいものとなっています。黒々とした筆遣いや迫力ある岸壁の描写などは雪舟の特徴的な表現です。
春の梅花など季節ごとの植物や景観、夏の川辺の瑞々しい情景などが描かれます。隠者が峻厳な岩山を歩く一方で川辺の人々の暮らしぶりが描かれ、人里離れた山中の寺院があり、秋の村に人々が集まり賑わう情景があります。

 下の天橋立図も、周文などの中国-異郷風の風景とは異なる日本人に近しい自然が描かれています。瑞々しい水墨画の手法で日本三景の一つ天橋立を描くことに成功したこの絵は、雪舟が実際に現地を歩き実景を描いた、当時には珍しい「真景図」です。上空から眺めたような自由で大局的な視点で古代からの日本の神話と仏教の聖地を描いた宗教的意味を有する絵と言えます。

浄土教の時代から雪舟の時代にかけての日本人の描く自然-神霊の変化ですが
・燃えさかり畏れ鎮めなければならない自然-神霊ではなく
呪術的でない、鎮められ穏やかな自然-神霊 になり、
・人間は自然-神霊の強い場に取り込まれ従属的な存在ではなく
人間は自然に対峙し得る明確な自我の境界を持つ存在 になり、
・自我と自然-神霊の作る場の境界はあいまいであったのが
人間は自然-神霊から自立し、無心の境地も感じられる。 
・しかし人間は自然と対峙・超然とするのではない。生命に満ち人間に近しい自然-神霊と人間は場を共有し、静謐に-ときに強く関わり合うような関係性になった。
・描かれる自然-神霊の描写は禁欲・抑制的 ・・・と変わったかに見えます。

この変化は、数百年の間で進んだ自然と人間の関係の変化を反映しているものですが、同時に先の五山文化-宋元の禅僧や文人文化の影響としても理解できるものです。

 以上の変化について図のように4つの特性をまとめました。

1  自然から自立した強い自己
2  無心-神霊の相対化
3  生々しく心理侵襲的ではない自然-世界
4  自然-神霊を描く表現の型・禁欲・抑制
以降これらを「五山文化的な特性」と考え黒枠で表記
します。

 中世の「自然宗教表現」と比べると雪舟以降の山水画、唐絵は「自然-神を描いている宗教表現」という性質を保持しつつ「神をあからさまに出さず、しかし自然を深い精神性をもって描いている」D表現的な性質を持っていると考え、以降、
雪舟以降の山水画、唐絵については「自然宗教-D表現」と表記します。

図のように「自然宗教-D表現」では描かれる自然-神霊が心理侵襲的でないことから明るい緑で表記しました。【祈り】の「滅ぼし給え」、【化身】の「我は攻撃の神」等は希薄と考えグレー・薄字で表記し、「五山文化的な特性」を示すため全体を黒枠で囲いました。
今後はこの図表のように、前章の図の下半分にあたる部分を省略して表記します。

この時代、自然宗教-D表現に触れる人たちの意識-無意識は主に左の【祈り】の領域で動いていたかと推測し下方に「主たる領域」と表記しました。 
右半分の【化身】は、この明るい緑の自然-神が人間に無言で命じている内容と同じです。

雪舟の描く自然と人の風景には美しさや満ち足りた世界が描かれていると思えます。雪舟の全盛期は応仁の乱の後の戦乱の時代で、雪舟以降の山水画-唐絵を鑑賞したのは当時の戦乱の時代の支配-上流階層の人たちです。彼らの中には雪舟等の絵を観て意識-無意識に「戦乱の世ではなく、自分たちの周囲だけでもこのような満ち足りた世になるとよい」など意志する人たちもいたのではないでしょうか。
彼らは、明るい豊かな自然のような自信-万能感を胸に、満ち足りた世界をつくるために領民などに命令、支配した部分もあったかと想像するものです。

雪舟の時代以降、中世の「自然宗教表現」に加え、「自然宗教-D表現」-明るい緑の自然-神、洗練された宗教感情-D感情が、新たに日本人の心の引き出しに加わったと考えます。

2.-2 能に見るD表現とD感情・「D空間」

能の曲:あからさまに「神仏」を描かず多様な深い「D感情」を喚起

 能は「神仏」に祈る宗教行為ではないながら多様な深い「D感情」を喚起する芸能です。
能の「曲」(物語)が喚起する「D感情」の全体像を図に沿い説明します。
※古来の祝禱藝「翁」などの曲は含まない範囲での論考であることをご了承ください。

1.複式夢幻能とは死者や鬼神の霊の鎮魂・呪鎮の物語のD表現(『敦盛』など)
2.悲痛な運命の人や神霊を悼む、観客が『救いたまえ』…と祈ってしまうD表現(『隅田川』など多々存在)
3.恐ろしい鬼や地獄のような情景を描く『畏れます』のD表現
4. その鬼を武者が滅ぼす『滅ぼしたまえ』のD表現
5.讃え帰依されるべき菩薩の智慧と崇高さの「江口」などのD表現
6.讃えられるべき美の女神、多神教の美神の如き美しい舞のD表現
能の「曲」は宗教感情に似た様々なD感情に紐づけられることの詳細を以下説明します。

1.複式夢幻能とは死者や鬼神の霊の鎮魂・呪鎮の物語のD表現(『敦盛』など)
能という芸能の総体に通奏低音のように鎮魂・呪鎮の側面があります。
「複式夢幻能」とは能の代表的な形式の一つですが、それは

旅の僧のもとに土地の者が現れその地の物語を語り、自分がその物語の主であることを示唆し姿を消す。なおも僧がその地に留まっていると、今は亡き物語の主が昔の姿で夢幻の中に現れ過去を語り踊り、僧の供養とともに消えていく・・・

といった、鎮魂・呪鎮の意味合いの強い戯曲形式です。複式夢幻能は死者や神霊を舞台の上に登場させ、過去の物語を美しく語らせ舞わせることにより、古典文化の様々な物語を豊かな解釈、新たな解釈を添えて提示することを可能にしました。それは当時の室町将軍家や貴族周辺の知識階級を惹きつけ、能はそれまでの日本の芸術教養を集大成したものとなり、そこでは異界の存在である亡霊や鬼が舞う幽玄美にあふれる舞台が展開されるのです。

例えば能の『敦盛』では非業の死を遂げた平家の若き武将である平敦盛の霊が、彼を打ち取り今は出家し彼の菩提を弔おうとしている熊谷次郎直実(今は蓮生)の前に現れます。敦盛は自分の最期や平家一門の最後の運命を振り返り蓮生に語ります。最後に敦盛は「出家した蓮生と自分とは敵-かたき同士ではなく、ともに極楽に生まれ変わるであろう」と告げて終わります。

『野宮』では源氏物語の六条御息所の霊が旅の僧の前に現れます。生前、源氏への愛の妄執に駆られ生霊となり源氏の寵愛を受けている葵上をとり殺しにいくまでした御息所。御息所は生前の源氏との愛の記憶、美しい記憶・悲痛な記憶・生々しい怨みの記憶を静かに旧懐の思いのままに僧に語りつつ、未だに妄執から抜け出られない自らを嘆きます。
御息所の鎮められず、救われない悲哀の美が描かれています。

能には実在の人物である敦盛・義経・西行なども登場しますがそれらは「物語」の水準で語られており「死者としての神」-「神霊」が描かれているのでは無いと考えます。一方で非常に緊張感のある舞台の中で仮初めでも死者の霊を鎮め、回向させる(救う)-非常に深い、『鎮』『救』の非宗教的D表現、D感情の場です。
世阿弥の時代、武士は戦闘殺傷を通して死者の怨みを畏れる局面が多々あったことを想うと、能の呪鎮の物語は現代人の想像以上に深く痛切なD感情を喚起したとも思われます。

2.悲痛な運命の人や神霊を悼む『救いたまえ』のD表現(『隅田川』『定家』『鵺』など)
能には人間や神霊の悲痛な物語も多いです。我が子をさらわれ狂女となった母が武蔵の国隅田川で子の死を知り慟哭する『隅田川』。老残の小野小町の嘆きを描く『関寺小町』。白拍子が驕慢の罪で死後も苦しみ続ける『檜垣』。あの世の闇の中浮かばれぬ悲哀の『鵺』。これらの物語には、観客は悲惨な死を遂げた人の弔いの際に感じるような悼み、救いを祈るような感情を抱くのではないでしょうか。

3.恐ろしい鬼や地獄のような情景を描く『畏れます』のD表現
能の鬼や地獄のようなD表現の『畏』に紐づく描写-表現は多々挙げることができます。『安達原』では山伏たちが陸奥の安達原で野中の一軒家に宿を請うのですが、宿の主の中年の女は実は鬼女であり、彼女の留守中に閨を覗くとそこには膿み血にまみれた死骸が積み重ねられていました。女は鬼女の正体を表して恐ろしい形相で追いかけてきます。
先に挙げた六条御息所は『葵上』では光源氏の愛を奪われた恨みから生霊となって、源氏の寵愛を受けている葵上を責め連れ去ろうとし、御息所は怨霊の姿と化します。
『鉄輪』では男に裏切られた女が丑の刻詣で恨みの鬼に変じ男の命を奪おうとします。
その他にも鬼、地獄のような描写は能の中に多々見ることができます。能の鬼などには仏教以外の日本土俗文化的な由縁も感じられます。当時の人は土俗的なカミへの宗教感情、畏を感じたかも知れません。

4. その鬼を武者が滅ぼす『滅ぼしたまえ』のD表現
人に害をなす神霊や鬼などが『滅』-滅ぼされるD表現の作品は能の中に多々見ることができます。『葵上』で怨霊と化した六条御息所は、最期は比叡山の横川の小聖の不動明王の呪文、祈祷により調伏されます。『鉄輪』では不実な男を怨み貴船明神にて丑の刻詣を重ねた女が髪を逆立てた恐ろしい形相に豹変し、鉄輪を戴いた女の生霊は安倍晴明が設えた祭壇の三十番神の神力により退散させられ消え失せます。その他にも鬼女を祈り伏せる『安達原』、女の変じた蛇体を祈り伏せる『道成寺』、鬼神を退治する『紅葉狩』等々を挙げることができます。

5.讃え帰依されるべき菩薩の智慧と崇高さの「江口」「芭蕉」などのD表現
世阿弥の時代、高度な宗教的哲学的思惟の多くは仏教の言葉で語られたと思われます。能の観客である将軍や貴族などの高度な知的レベルを考えると、能の表現に深い仏教の智慧が多々現れることも理解できるものです。能には「神仏を讃え帰依する」ことを現わすような仏教の教義智慧が多々現れます。この場面で崇高な神仏への【同化-憑依】も生起しているでしょう。

『江口』では遊女の姿を借りて現れた普賢菩薩が旅の僧にこの世の無常を説きます。遊女の姿で「それ十二因縁の流転は車の庭に廻るがごとし」(十二の因縁から生じる六道=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六の境遇=における無限の輪廻は車輪が地を廻るごとし)の言葉に続いて永劫の輪廻の中で煩悩に迷わされる私たちの生について仏教用語を駆使し美しく論じ、最後は普賢菩薩の姿となり白象に乗り西の空に去っていきます。

『芭蕉』では、平民の女と見えつつ実は植物の芭蕉の精が僧に「薬草喩品あらはれて、草木国土有情非情も、みなこれ諸法実相の…」(法華経の薬草喩品にあるとおり草木も国土も、有情である生き物も非情の命なき物も、すべてそのままで悟りの相にある)と説き深い仏教の教えを僧に説き驚かせ、静かに舞った後に最後には女の姿は消え破れた芭蕉の葉のみが残るのです。僧侶ではなく、遊女や芭蕉の精が深い仏教哲理を語ります。ソクラテスにエロスの哲理、奥義を説いた巫女ディオティマを彷彿とさせるものです。

なおここで現れる普賢菩薩や芭蕉の精は、先ほどの敦盛などと同様に「物語」の水準で語られており、この普賢菩薩もその場で「救いたまえ」と祈る対象ではないと考え「神仏」が登場しますが「D表現」と判断しました。

ちなみに能には「草木国土悉皆成仏」という「この世にあるものすべてはそのままで悟りの相にある」という仏教の本覚思想を源流とする言葉を多々見ることができます。これは現在に至る日本人の自然-宗教観に深く関わるものです。

6.讃えられるべき美の女神、多神教の美神の如き美しい舞のD表現
『熊野』にもあるように多くの能で舞は必須の要素で最大の見どころです。熊野の、深い憂いを秘めつつ満開の桜の中で舞う姿は美神にも似た女性の最高の美を顕しています。先に金剛力士像を「讃える」気持ちを動的・感情豊か・肉体的と記述しましたが、熊野の舞を「讃える」気持ちはその女性版と位置付けました。金剛力士像では戦神のような荒々しさや生々しさでしたが、美神にも似た熊野の舞においては美と洗練が現れています。古い多神教の美の女神に対するような「讃え」の感情が熊野では喚起されると考えます。美の女神との【同化-憑依】も生起しているでしょう。 

郡司正勝先生は「おどりの美学」の中で日本の舞踏について、世阿弥(花鏡)を引用しつつ以下述べられています。

『P11世阿弥が「花鏡」のなかで「抑々舞歌とは根本如来蔵より出来せり」といい「天人の舞歌の時節」「天道は舞歌の時節」といっているのは、舞踊とはこの地上界のものでなく、佛世界や天上界から、この地上に影をとどめたものであるとしている思想である。…

中世、死して天上に迎えとられる幸運な人々は、その臨終に菩薩群の妙音を聴くといった来迎思想や、舞に感応して天が雨を降らせるといった説話のごときは、それらの日の舞踊の世界を支えていた重要な思想であった。舞踊は、見物のために舞われるのではなく、神に奉納するものであり、祈禱のために舞われるものであって見せるためのものではなかった。その美しさは人間を対象としない陶酔境の純粋さがあった。…

P15舞踊はなにかを表現するものでなく、それ自体が力であり遡れば呪力であったので、そこには人間を表現する介在を許さなかったものがある。舞踊は舞踊のためのもので、まして踊手の表現をみるためでもその魂を知るためでもない。舞踊家は一個の伝導体でしかない。』

能の舞とは神々の世界と現世をつなぐものであり能の舞手は一個の伝導体です。神々の世界と繋がるという能の舞によりそこは深い精神性のある「D空間」と化すのです。

なお「おどりの美学」には、西洋と日本の舞踏の異なることも記されています。郡司先生はヴァレリィを引用しつつ、西洋では舞踏とは大地から解放されて自分の存在を確かめる行為、洋舞が両手を高くさし上げ、爪立ちをし、あるいは跳躍を特徴とするのに対し、日本の舞踏では腰を入れてしっかと構えて浮かぬことをその基本とし舞台を廻り、摺り足で歩き反閇(へんばい)といって強く足拍子を踏むことなどを特徴とすることを挙げ、

『洋舞がもし大地から解放されて高く天上へ自由を求めて外へ外へと跳躍する表現だとすれば邦舞は地上を恋い慕い大地に愛着するあまり、俳徊して去り難いという表現だといわねばならないのではないか。またこの西の放射的動きは天上憧憬的、東の内包的動きは地上愛着的だともいえよう。』

とまとめられています。

ここでは能の舞を「宗教的感情の表現を、神々を描かないD表現に転換」した『讃』に紐づけました。しかし、海外の多神教の神々の乱舞し飛翔する舞がまさしく『讃』であるのに対し、能の舞には『鎮』の要素が強く感じられます。能の舞は多くはシテが舞いますがシテは人間でありつつ神霊でもあり、これは人間であるシテの『鎮まり給え』の心と『神霊を讃える』心が複式に表現されているのです。 

能の感動が誕生する瞬間を祈り待ち-『予期』、感動の誕生に心が動く-『驚く』
世阿弥の能楽論を見ると『即座和合の入門』『時の調子に合わせる事』 (拾玉得花)には舞台の「気」を敏感に察知し演者の「我意」を合わせ観客の心を捉えると記してあり、『心より出で來る能』『冷えたる曲』(花鏡)には何も演技していない演者の「心のはたらき」が観客の心を打ち成功する境地があると記してあります。修行を重ねた演者が舞台と観客の「気」を敏感に感じ取り適切な時節を待ち、観客も息をひそめ演者の振る舞い-その場に現れるものを祈り待ち-『予期』しているのです。これは宗教儀式で神意が降りてくるのを祈り待ち-『予期』し神意が降りた瞬間に心が動く-『驚く』ことに似ているのです。
能のD感情にも『予期』『驚き』がある
のです。 

なお、能を観る観客たちの心は主に【『祈り』】の領域で反応しつつ、副次的には【『化身』】の領域でも反応していたと推測します。
ここで、【祈り】【『祈り」】と【化身】 【『化身』】ではどう心の動きが違うのか整理してみました。

・【祈り】【『祈り」】は、人から『神』へ-人間より上位にあるものに祈る、報告する、褒め讃えるモードです。感情の憑依-感情が神に影響されており、高揚感Ⅰ-、神を感知している高揚感に満たされています。一方で
・【化身】 【『化身』】は『神』から人へ(「『神』に憑依された人」から「人」へ)-自分より下位にあるものに命じる、宣言するモードです。意志の憑依-行動と意思が神に影響されており、高揚感Ⅱ-『神』と一体化したような高揚感に満たされています。

具体例としては左のように整理できます。【『祈り」】と 【『化身』】とは、単に思いの強弱ではなく、世界に対する主体の在り方の違いがあると考えています。

能の「曲」に見られるD感情に戻ります。
(7.王朝文化のD表現を継承する美については先の方で例示します。)

8. 『自然宗教表現』に近い自然の神の超絶した孤高と孤独のD表現(『姥捨』など)

増田正造先生の「能の表現」の『姥捨』の描写を引用させて頂きます。通常の悲苦の世界を超越した深い能の表現を描写されています。

『老人を山に捨てる残酷な風習を背景としながらこの能は冷たい美しさに冴えかえっている。怨みも悲しみも浄化されて、あるものは永遠の月への思慕と、絶対の孤独である。』

かつて山に捨てられ、幾年月を経て山の妖精となってしまった老女が都からきた男の前に現れます。月が照る山頂で老女は都人とともに夜遊を楽しみ、舞い、月に絡めて極楽浄土の荘厳をうたいあげつつ、突然自らの生身の生の孤独、この世への妄執がよぎります。夜が明け都人は去り老女の霊は超絶した孤独の裡に姨捨山になり『姨捨』は終わります。『姨捨』の舞台である深山の自然には、来迎図や宮曼荼羅、日月山水図屛風などの『自然宗教表現』に近いものを感じます。

『それは宇宙の運行を思わせて、淡々と、あるがままに徹して流れた偉大な孤独。感傷も、諦念もなく、すべてを排除しきって澄みきった”そのもの"に昇華していた。それは何という生命の強靭さだったろう。鬱然として蟠るも、悠久の流れに身をまかせるも、それは既に宇宙の姿と共に在った。ある時は影満ち、ある時は影欠けて、端然と佇む姿は人生の秘奥を窺わしめ、うつり行く型のひとつひとつは万物流転の摂理を頷かしめた。』

『姨捨』では地獄を抱えつつもそれを通り過ぎた世界が描かれています。『姥捨』の老女は救済されたのか、煩悩妄執の裡にあるのでしょうか。
老女は救済されつつ、かつ煩悩の裡に沈んでいるのではないでしょうか。
先ほど紹介した『江口』も「江口の遊女は普賢菩薩となって救済された」というより「遊女の苦界に沈みつつ普賢菩薩でもある」そのように見るべきと思われます。深いD感情のうちに苦界にあり菩薩でもある。能の深いD空間では人の存在も複式のようです。

9.禅の無心 五山-禅僧文化的な特性
世阿弥の能は、禅に造詣の深い観客、特に足利義持の厳しい目に鍛えられました。世阿弥が能芸の境地を論じた「九位」など、世阿弥の中期以降の能楽論では頻繁に禅の用語を見ることができます。世阿弥の「花鏡」にも「無心の位にて、我が心を我にも隠す安心にて、せぬ隙の前後を綰ぐべし」など「無心」の言葉を幾つも見ることができます。
そしてこれまで見た能のD表現には「五山-禅僧文化的な特性」に近い特性を見ることができます。先ず
1 自然から自立した強い自己:能ではあたかも神霊が訪れているような物語世界、神霊と人間が未分化-融合し、人間の自我が従属的位置にあるような場を、人間が自律的に構築しているのです。これは、自然-神霊に従属していた状態と自然-神霊から完全に自立した状態の中間-移行期の状態と位置付けられるものです。
2 無心-神霊の相対化:世阿弥など能を演じる側も能を観劇する側も五山の文化の禅の無心の境地、中国-宋の思想などを知っていました。中世の浄土思想のもとで仏教が絶対的な支配力を持っていた状態とは異なり、世阿弥の能の世界では神霊を畏れ普賢菩薩を讃えつつも、そこには五山的な多様な宗教性の理解の下での「無心-神霊の相対化」が進みつつあったと推測します。
3 生々しく心理侵襲的ではない自然-世界:先の『姥捨』では、恐ろしい深い山の奥深くにありつつ都人は老女と共に夜遊を楽しみ舞い月に絡めて極楽浄土の荘厳をうたいあげました。心理侵襲的ではない自然-世界です。一方で『安達原』では鬼女の家を前に不意に日が暮れます。『山姥』でも暮れるはずのない時刻に日が暮れ山姥の庵に誘い込まれます。能の自然は、不意に日が暮れ天候が崩れるなど非常に「心理侵襲的」な要素も強いです。「能の自然の移行期的な特性」が現れていると言えましょう。
4 自然-神霊を描く表現の型・禁欲・抑制:能では恐ろしさ凄惨さを湛えた鬼や神霊の所行が演じられますが、それらは美しい表現の中に「封じ込まれ」ているかに見えます。『安達原』では鬼女こそ般若の面の鬼の装束になりますが、膿血の死骸の山は言葉のみで表現されます。観客の想像力を信頼し、具体的表現は禁欲的・抑制的なのです。

能では「敦盛」のような死者と生者の静かかつ激しい対話も、「熊野」のような深い鎮痛を抱えた上での美も、菩薩の智慧と崇高も、恐ろしい鬼神や地獄も、超絶した孤高と孤独も描かれます。この広大な情念-心の炎の広がりを表現するために、表現の禁欲・抑制が必要なのではないかとも思われます。

なお、世阿弥の時代の能は台本・演出ともに固定されていませんでした。今日の能の「定められた型」は後の時代、秀吉や徳川幕府による式楽化の中で定まったもののようです。

能は王朝文化の「ここに無い美しいものを偲ぶ-幻視する」美を継承

上は能の『熊野(ゆや)』を元に作成した図です。 下段は『熊野』の抜粋、上段は観客が観劇しつつ脳裏に想起すべき事項が記されています。観客には舞台を観つつ平家物語・仏教の説話・新古今和歌集の歌など膨大多様な情報を偲び-想起-幻視することが期待されています。能の舞台と、このような想起-幻視した情報をAR/VR(拡張現実/仮想現実)の如く脳内で重ね合わせて、初めて深く能の夢幻の美を鑑賞することができたのです。王朝文化の「ここに無い美しいものを偲ぶ-幻視する」美が能の世界を成立させているのです。
複式夢幻能の情報空間には、和歌-王朝文化の「今は失われたものを想起し偲ぶ美意識、消えゆくものを悲しみ慈しむ美意識」、王朝D表現の『鎮‐讃‐救』に紐づけられるような感情が発展的に継承されています。能の空間は深いD感情を喚起する空間であり、D表現の場・空間でありDeepな「D空間」と呼べるものでしょう。

なお、『熊野』は平家の最後の当主の武将平宗盛と、その寵愛を受ける熊野の二人による花見が舞台となっています。今を盛りと咲き誇る都の桜の中なのですが、熊野は遠い故郷の母の病が重いことを手紙で知らされており、花見の中にありつつ心は晴れません。上記の抜粋部分の後、重い心を抱えた熊野は宗盛に舞を求められます。熊野は「自分の深い憂いの思いは誰も知らない」と一人呟きつつ、美しく即興の舞を舞います。鎮めと救済に近接する悲しみとあはれのD感情の美はこのように深められ継承されているのです。

この他にも『井筒』では、旅の僧の夢に紀有常の娘の霊が現れます。娘の霊は、夫婦であった在原業平を偲び語り、かつての業平の服装で舞い、井戸の水に映る自分の姿に業平を想い…夜が明け僧の夢も終わると共にすべては消えます。観客が想像し偲ぶと共に作品の中の娘の霊までも想像し偲ぶ、複層的に夢幻のように偲ぶ、「D空間」の芸術です。

能の感動が生まれる「場」 『予期』と『驚き』の場
ここで能の舞台-〈能の感動が生まれる「場」〉の特徴を図にしてみました。

能の舞台とは「おもしろきもの(感動)の訪れ」を「祈り待ち-予期」し「感動には心が動く-驚く」場です。
能の演者たちは「修行 無心(人-内面)」の状態にあり
能が演じられているときそこは「外部から隔絶」され
演者、更に観客席までも心を一つに「集団で一つの場」を形成しています。「場の設え(モノ・環境)」儀式や振舞い(人-外面)」が精緻に組み立てられています。
ここでは「些事の中に奥義が現れ」、能が演じられる只その一回-「モノ・人・場の一回性(一度だけ)」が強く意識されます。演者にも観客にも能という「芸道への讃え・畏敬の感情」が強くあります。集団で神意が降りてくるのを待つ一回限りの厳かな宗教儀式にも似た状況が能の舞台では生起しているのです。

 能が演じられる周囲の中世の人たちの心の中で生起していたこと

●彼らが能を演じ-観劇するときの彼らの心には意識-無意識に「神」が存在していたのではないでしょうか。
●能では非宗教・物語の水準で『神仏』、自然などが描写され、深い感情を喚起する豊饒なD表現が創造され続けました。
(宗教ではないD表現=物語の水準で「神」に近いものを描写)
●それらの表現には『讃畏悔救鎮滅-予期驚き偲び-幻視』などの宗教的な祈りに近い心の動き-D感情が随伴していました。
●能はD表現の創造-蓄積-創造…のプロセスを重ね、能に関わる人はD感情を喚起され深める体験を重ね、彼らの意識-無意識の「神」は、豊かに深耕されていった…と推測するものです。
なお和歌-王朝文化と同様、能の美とD感情にも「脳内AR/VR能力」が関わっていたことは「熊野」の解説でも示しました。

このように、人格宗教表現や和歌-王朝文化に似て、能は【『祈り』】【『化身』】に伴う「深い安堵 救済 幸福感」「活力 自信 万能感」の心の体験を創造し、それは数百年後の今も継承されているのです。

2-3 茶道に見る王朝文化のD表現の継承 D空間と「D-コミュニケーション」

2-3-1 王朝文化のD表現の継承者としての茶道
茶道も王朝文化のD表現を色濃く踏襲しています。千利休の言葉を伝えるものと江戸時代に見なされていた「南方録」には、
武野紹鴎が「わび茶の心とは新古今和歌集の藤原定家の歌にある」と


 見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ 

の歌を示し、千利休はやはり新古今集の藤原家隆の歌

  花をのみ待らん人に山里の 雪間の草の春を見せばや

を茶の信条としていたと記されています。

この「見わたせば」の歌は既に消えたものを悲しみ悼む美意識を、「花をのみ」の歌は過ぎ去った季節の花を思い出し(偲び)訪れる春を待ち偲ぶ美意識を示しており、これは去った人や神霊を偲び惜しみ、悼む王朝文化的なD表現-D感情の心の働きです。なお幕末になりますが茶人としても著名な大老の井伊直弼の「茶話一会集」には
「茶会の後は亭主も客も余情残心を持ち心静かに今日の茶会が再びかえらないことを思い、一人で茶をたてて飲むことが茶の道の極意であること」
などが記されています。これもやはり偲ぶ心、失われたものを惜しみ悼む王朝文化的なD感情の働きでしょう。

2.-3-2 茶道にあらわれる自然の『五山-禅僧文化的な特性』
「熊倉功夫著作集第一巻 茶の湯 心とかたち」には、利休の露地(茶室に至る道、茶室の庭)は奥深い山の風情であり山中の如くの別世界をつくりあげようという意識が込められていたこと、茶の湯では「山中にある聖なる世界が展開している」こと等が述べられています。茶室とは二重三重に外界から遮断され茶室に入ることは宗教行為の「籠る」に大変よく似ているのです。茶事は一時の遁世であり、茶室においては俗塵の入ることを避けたのです。

そしてポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリーゲスの「日本教会史」には、当時の日本人が茶道に傾倒し茶室や露地造りに丹精をこらし、粗末な樹皮や木材を自然のままに使いすべての点で自然を模倣し、そこにすぐれた均衡と調和が保たれるようにしていた等が記載されています。

ここで茶道にあらわれる自然の『五山-禅僧文化的な特性』を考えてみます。
茶道の-千利休などの茶人には、
1 自然から自立した強い自己 2 無心-神霊の相対化の境地が感じられます。
茶道では山-自然を奥深い聖なる地、異世界として心中に抱きつつ、千利休などの茶人は禅の修行などもあり強い自己を持ち自然に対峙し侵襲されず自立しています。聖なる山-自然を認めつつ、無心の境地もありその聖性に呑み込まれず相対化していると言えます。
そして茶道には
3 生々しく心理侵襲的ではない自然-世界 4 自然-神霊を描く表現の型・禁欲・抑制 が見られます。
粗末な樹皮や木材をそのまま使うなど華美や生命力旺盛な自然を避けさびたることを良しとします。生々しく心理侵襲的ではない自然です。茶席の花も一輪か二輪をかろくいける等、茶席ではすべての表現が禁欲・抑制的であることも明らかでしょう。 

2.-3-3 茶道と日本文化のD-コミュニケーション
「日常の行いすべてをD-コミュニケーションの営為とする」文化
「南方録」の最初の部分に
『小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て修行得道する事なり。…水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶をたて、仏にそなべ、人にもほどこし、吾ものむ。花をたて香をたく。みな〱仏祖の行ひのあとを学ぶなり。』とあります。

茶会を行うにあたり水を運ぶ、薪をとる、湯をわかす…など、一見些事に見えるすべてが仏道修行であり深い意味がある、つまり茶会に関わる全ての行いが、深い精神性を持つD表現、D-コミュニケーションの営為となることを示しています。

茶会では自然や人工物との間にさえ深い「D-コミュニケーション」が交わされています。
茶道の本質に「日常の行いすべてをD-コミュニケーションの営為とする」文化があり、茶人の日常の挨拶、掃除、何気ない仕草などはみなD表現、宗教的に近い営みになり得るのです。

 茶道は日本の生活様式そのものを芸術化したものです。茶室の建設様式は武家や上層階級の邸宅などに影響を与え、数寄屋建築の名で日本の伝統建築を代表しています。「市中の山居」茶室周辺の露地は日本庭園に大きな影響を与え、和食の伝統「一汁三菜」は利休らが定着させました。江戸以降の茶碗陶器の発展には織部、遠州など茶人が大きな影響を与えています。掛物や茶花(華道)もわび茶の成立と共にあり、茶道具に使われる西陣の高級絹織物である裂地など茶道に関わり日本の生活様式を芸術的に高めたものは多いのです。
その他無形の「心配り」「もてなしの心」なども含め日本的な生活様式においては数多の茶道に関わる文物が美の原型を作っています。「日常の行いすべてをD表現の営為とする」文化も茶道文化の浸透に伴い、生活全般に浸透していったのではないでしょうか。

 「心にかなふ」茶会の「場」 『予期』と『驚き』の場
茶道の〈互の心にかなふ茶会の「場」〉の特徴は能とほとんど同じ図で示せます。

茶会とは準備段階を含め「心にかなふ会となること」を「祈り待ち-予期」し「心にかなふ会においては心が動く-驚く」過程です。茶会とは奥深い山中のごとくに「外部から隔絶」され、亭主も客も心を一つに「集団で一つの場」を形成しています。
「場の設え(モノ・環境)」「儀式や振舞い(人-外面)」が精緻に組み立てられ、茶会のただその一回、「モノ・人・場の一回性(一度だけ)」-井伊直弼の「一期一会」-が強く意識されます。
能と同様に茶会でも、集団で神意が降りてくるのを待つ、一回限りの厳かな宗教儀式にも似た状況が生起しているのです。

 王朝文化のD表現の「侘びたる」継承者としての茶道
茶道における自然は「生々しく心理侵襲的」ではありません。ロドリーゲス「日本教会史」の茶室の「粗末な樹皮や木材を自然のままに使い」という自然も王朝文化のやさしい緑の生命に満ちた自然と明らかに異なります。

そもそも茶道は「侘茶」であり「わびたる」「寂びたる」ものを志向してきました。日本文化では中世以降、能や枯山水、心敬の連歌の「冷えさび」の美などを産み出し、茶道の自然の美もその系譜上にあります。
以上を踏まえ「千利休の茶道における和歌-王朝文化」が「平安時代の王朝文化」と異なることを、茶色で表記するものです。なお、茶道では希薄と考えられる項目はグレー薄字で表記しました。

【『祈り』】【『化身』】の統合
茶室の場、千利休の様々な逸話などから【『祈り』】【『化身』】の様相を考えますと
【『祈り』】:茶会の亭主も客も、何者かを讃え・畏敬の念を示し、あるいは鎮まり給えと祈るのに似たものを感じますが、明確に言語化することはふさわしくないかに感じます。
【『化身』】:千利休の逸話、佇まいにはある種の迫力を感じます。利休の佇まいに対しては「讃えよ・畏れよ」・・・に近いものを感じますが、これも明確に言語化することはふさわしくないように感じられます。
利休などの茶人には「何者かを讃えつつも」「同時に自らも讃えられる対象である」ものが感じられ、しかしそれを言語化し言い切ることは妥当でないと感じられるのです。

平安時代の和歌-王朝文化においては【『祈り』】-和歌に涙するモード、【『化身』】-和歌を『讃えよ』と命じるモード、と両者を明確に分離して想定できます。しかし茶道-茶会においては【『祈り』】【『化身』】の二つのモードが茶人の佇まいの中に渾然一体となっている境地があると感じます。これは
茶道の茶会では【『祈り』】【『化身』】のモードが統合されていたのではないでしょうか。

茶会においては【『祈り』】【『化身』】のそれぞれに対応する要素が感知されつつ両者の要素は渾然一体であり分離できません。
両者の要素の本質が損なわれず統合されているのです。
なお脇に濃緑の「自然宗教表現」と明緑の「自然宗教-D表現」を置きました。

茶会では「山中にある聖なる世界が展開」されておりこれは濃緑の「自然宗教表現」に近いと感じます。一方茶会の場に雪舟以降の山水画は調和するとも感じます。千利休の茶道においては統合された茶色の和歌-王朝文化の精神が濃緑の「自然宗教表現」明緑の「自然宗教-D表現」の両者を含み調和していると考え図示しました。
以上、茶道も【『祈り』】【『化身』】に伴う「深い安堵 救済 幸福感」「活力 自信 万能感」の心の体験を創造-深化させ、かつ日常の全てに拡大する方向を示したのです。

和歌-王朝文化の時代と比べ、千利休の茶道の時代に至っては人間と自然-神の関係も当然ながら大きく変容しています。千利休の茶道の文化においては自然は『讃えるべき対象』というより『人間の表現の素材』となっているようです。
利休の朝顔の茶会の逸話は有名です。利休の庭に朝顔の見事に咲いていることを聞いた秀吉公が利休の朝会に行ったが庭には朝顔が一輪も咲いていない。興ざめと思いつつ秀吉公が小座敷に入るとそこには色鮮やかな朝顔の一輪だけが床にいれてあり、秀吉公はじめ共の人々も目が覚める心地であったといいます。鮮烈な一輪の朝顔を秀吉に見せるために、利休は庭の朝顔をすべて摘み取ったのでした。ここには自然を讃える人間の在り方ではなく、一期一会の場のために自然を果断に使い尽くす人間の在り様が現れているようです。
また、十代の千利休が武野紹鷗に庭の掃除を命じられた逸話があります。庭は掃除が行き届いており木の葉一つ落ちていなかったのですが、しばらく思案した後に利休は木の幹をゆすり数枚の葉を落としたのでした。物陰から見ていた紹鷗は、利休の美意識の非凡なことに驚愕したと伝えられています。茶道は、自然や人の在るべきようを活かしつつも、最後は茶人が大胆に介入する美の在り様を示していると思われます。
茶道には自然の美-日本人が感じる自然の美が十全に活かされています。茶道は日本の生活様式そのものを芸術化し、それは江戸時代を通じて日本中の広範な階層に浸透し深化発展を遂げました。千利休の茶道は、日本人の感じる自然の美を、広範な人たちが生活の中で自由に、快適に使用できる形に「捌いた」と言えます。
平安時代に古今和歌集の編者の紀貫之たちは自然-四季のあるべき姿、恋のあるべき姿を規定しました。古今和歌集-和歌-王朝文化は無意識に自然-神霊を讃える営為でした。千利休の茶道は自然の美の方向を規定し人間主体に生活の中で活用できるように調えたのです。
王朝文化では主体は自然-神霊であり、自然-神霊を崇め讃えることが目的だとするならば、茶道では主体は人間であり、人間のために自然を愛でる-活用することが目的であった-そのような対照があるのです。

2-4 芭蕉の俳諧に見る王朝文化のD表現の継承  D表現の拡大

2-4-1 王朝文化と『五山-禅僧文化的な特性』継承のD表現としての芭蕉の俳諧

松尾芭蕉の「おくのほそ道」は読む人が日本や中国の古典を思い浮かべて『偲ぶ』ことで深くあはれを感じ鑑賞できるようになっています。

「おくのほそ道」で芭蕉は最初の「発端」で李白を引用し、西行に由縁のある柳を見て「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」と西行を偲んで詠み、奥州平泉ではそこで最期を遂げた義経を偲び「夏草や兵どもが夢の跡」と詠みます。

「おくのほそ道」は日本や中国の古典、様々な故事等の知識と情感を重ね偲び鑑賞する構成になっており、脳内AR/VRの王朝文化の「偲ぶ」文化を継承しています。

芭蕉の俳句の「道のべの木槿は馬に喰われけり」-道沿いに綺麗に咲いていた木槿の花がぱく、と芭蕉の乗っていた馬に喰われてしまった-や「五月雨を集めて早し最上川」などの句を見ても、俳句は十七文字という極限的に少ない文字数-欠落しているとも言える情報量によって句を詠む人の脳内に膨大な情緒情報、美の感覚を創出する文学であり、王朝文学のD表現を継承するものといえます。
小西甚一先生は「俳句の世界」で『「描写しないことによって描写する以上に表現する」のは、禅における「不言の言」と共通する。…これは芭蕉俳諧の核心となる把握態度』であると記されています。

 芭蕉の俳諧も茶道と同様に『五山-禅僧文化的な特性』を有しています。
芭蕉の俳諧の根底には求道的な強い自己が感じられます。情緒に流されること無く無心であり抑制・禁欲的です。表現に於いては「さび」「閑寂」を旨とし、描かれる自然は力強い場合は有っても心理侵襲的な生々しさは皆無です。芭蕉の俳諧で描かれる自然も、茶道で示した「茶色の図で表記された王朝文化」を継承していると考えます。

 芭蕉の俳諧に見る『美-D認識の拡大』
芭蕉門下の服部土芳の「三冊子」にある俳句を詠む際の心得を引用します。

『「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と師の詞のありしも、私意をはなれよといふ事なり。この習へといふ所を己がままにとりて、終に習はざるなり。習へといふは、物に入りて、その微の顕れて情感ずるや、句と成る所なり。たとへ物あらはにいひ出でても、その物より自然に出づる情にあらざれば、物と我二つになりて、その情誠に至らず。私意のなす作意なり。』

土芳は芭蕉の言葉を踏まえ自分の眼・意識による勝手な推量から離れる必要性を説いています。目の前の対象に対峙し没入するそのとき自分と対象が一つになり対象の微-本質が顕わになり、自ずから情感が興り句となるのです。
ここで

『塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚』
『葱白く洗ひたてたる寒さかな』
芭蕉の二つの句を例にこの「三冊子」の心得を読み解きます。

上図の黒い人影は私意に囚われ勝手な推量で対象を見てしまう通常の意識状態を示します。彼の眼には対象の灰色の外面しか見えておらず「腥い魚の棚」「洗いたての葱」は「美」と程遠いものにしか見えません。しかし修行した後のピンクの人影の意識状態では詩的情景、美的内容としての観照が成立しその炎(美)が見えています。ピンクの人影の意識状態では前掲の二句が「D表現」になっているのです。
修行を通して、私意を離れ対象に対峙し没入し、対象の微-本質を見られる意識状態になると、ものの本質(炎)が顕わになり自ずから情感が興り句となるのです。

「暮らしのすべて 非苦哀傷までもD表現の素材とする」態度
俳諧は新味を追求します。三冊子では芭蕉の言葉として「つねに風雅の誠を責め悟りて」と記されています。陳腐や月並みを避け、一見して「美」と程遠いものでも「D表現の素材」として見出し続けることが俳諧であり、俳諧においては道のべの木槿、塩鯛の歯茎など従来は詩歌の対象となり得なかったすべて、悲苦哀傷に関わる事象までをD表現・D-コミュニケーションの対象に転換し、人間の感情-感受性を拡大していきます。
美-D表現、D感情の拡大です。

 俳諧の〈句を詠む場〉も『予期』と『驚き』の場です。
俳諧の道とは、日常生活の中で「つねに風雅の誠を責め悟りて」-風雅の訪れを「祈り待ち-予期」し「その微の顕れて情感じ」-「感動には心が動く-驚く」生き方
と言えます。

俳人は「修行 無心(人-内面)」の状態にあり、「物に入りて」、自ずから情感が興る際には、「モノと自分で一つの場」を形成しています。
芭蕉が-俳人が句を詠むとき、俳人はその場の主のようです。そこには場の設え(モノ・環境)も儀式や振舞い(人-外面)も不要なのです。
俗事・非苦哀傷の中にさえ風雅が現れます。芭蕉の目の前で馬に喰われた木槿の花というただ一度の出来事が数百年も句の形でこの世に残響していることには、モノ・人・場の一回性(一度だけ)を強く感じるものです。 

能や茶道が「集団」で神意が降りるのを待つ宗教儀式の場に似ていたこととは異なり、俳諧においては「個」が、ひとりで「モノ-対象と自分で一つの場」を形成しています。ここには
「D感情に満ちた聖なる場」が形成されているのではないでしょうか。
この「D感情的な聖なる場」が宗教的なものか否かは保留とさせて下さい。

芭蕉の俳諧における【『祈り』】【『化身』】の統合
【『祈り』】:芭蕉の俳諧においては何者か-造化の全てを讃え・畏敬の念を示し、あるいは鎮まり給えと祈るのに似たものを感じますが、明確に言語化することはふさわしくなく、
【『化身』】:芭蕉の逸話や佇まいには侵すことのできない威儀が感じられます。芭蕉庵の侘び住まい、更には旅を栖とする生き方。造花に従い四季の巡りを友とし、全てを即自に風流風雅と見る生き方の革新。「何者かを讃えつつも」「同時に自らも讃えられる威儀を持つ」と感じさせ、しかもそれを言語化し言い切ることが妥当でないと感じられるのです。

五山文化や千利休の茶道、禅仏教の伝統を継ぐ芭蕉の俳諧にも-自分たちの外部に-上位に何物も跪くべき存在を持たぬ構えが感じられます。ここにおいて芭蕉の俳諧においても【『祈り』】【『化身』】のモードが統合されている境地があったと考える次第です。

なお図の脇に小さく濃緑の「自然宗教表現」を非常に薄く、また明緑の「自然宗教-D表現」を置きました。芭蕉の俳諧、「おくのほそ道」等は「山中にある聖なる世界」とは遠いと思われるのです。
千利休の時代から一世紀以上経た経済社会の発展を考えると、芭蕉の俳諧は心理侵襲的な自然ではなく雪舟以降の山水画の自然に近しいと感じます。
芭蕉の俳諧では茶道以上に自然は『讃えるべき対象』というより『人間の表現の素材』であったでしょう。

2-5 浮世絵に見るD表現

芭蕉から少し時代を遡ります。
江戸時代に入り参勤交代制による大名の江戸集居は莫大な新興武家貴族を創出しました。江戸に集められた諸藩の武士たちは贅を尽した貴族的奢侈生活を競い合うようになり、それを支える多くの町人が誘引され巨大都市・消費都市江戸の性格が確立してゆきます。
そのような江戸の庶民の娯楽-商品として生み出された浮世絵は、出版文化隆盛の中であらゆる階層の人々に支持されるものとなり、巨大消費都市・江戸とその暮らしの理想化された姿を描いた「江戸の自画像」*(千葉正樹先生・大久保純一先生)に育っていきました。

浮世絵が浸透した時代、その価格は一枚がそば一杯超程度の価格でした。浮世絵は庶民から武家まで幅広い階層の人々の支持のもとでその内実を成長・発展させます。浮世絵は、江戸の幅広い階層の人々の願望や美意識、価値観、理想と密着したもので、同時代の西洋画の「富裕層が見るための庶民の生活画」とは大きく性質が異なるのです。 

2-5-1 浮世絵-美人画と役者絵・武者絵に見るD表現

浮世絵の前身としては近世初期風俗画-「洛中洛外図屏風」、春の野に舞い遊ぶ女達の「花下遊楽図屏風」(上左-部分)、寛永期の風俗画-美しい文様の衣裳の生命力豊かな湯女たちを描いた「湯女図」(上右-部分)などが挙げられます。絵師はこの当時の女性の美しさを存分に伝えてくれています。
追って、後の時代の浮世絵とこれらの絵を比べてみます。

浮世絵の美人画

「浮世絵の創始者」菱川師宣により、木版画の美しい絵が庶民はじめ全階層に提供されたのは17世紀後半のことでした。
18世紀後半には鈴木晴信らが多色刷りで鮮やかな色彩の浮世絵-「錦絵」を創造し、18世紀末の浮世絵=「錦絵」の黄金期には鳥居清長や喜多川歌麿等が活躍します。

美人画の女性たちを見て「美の女神」を「讃え」るようなD感情が浮世絵の美人画では喚起されたと考えます。

浮世絵の役者絵・武者絵

役者絵とは歌舞伎役者を描いた浮世絵で、個々の役者の個性を似顔絵として魅力的に描き分ける技術を高めていきました。
武者絵は平家物語や太平記など軍記物、中国の水滸伝、南総里見八犬伝など読本をも題材に取り込み、錦絵の主要なジャンルに成長。ご覧のとおり、闘う神-金剛力士像に対するような戦神への「讃え」「畏れ」「滅ぼしたまえ」的なD感情が喚起されたのではないでしょうか。

美人画や役者絵・武者絵の場合のD表現

美人画は美の女神に対する如き「讃え」、役者絵・武者絵では戦神に対する如き『讃え』『畏れ』『滅ぼせ』などのメッセージを喚起する人格D表現と見ることができます。

【『化身』】の領域について
美人画など浮世絵は江戸の女性がファッションや流行を知るメディアでもありました。江戸の女性は美人画に学び自分を似せようとした-同一視する部分がありましたが、これは美の神の【『化身』】のモードの行為です。

また役者絵は歌舞伎役者の絵ですが、歌舞伎の芝居小屋は観客にとり興奮し血沸き肉躍る空間でありそこで人々は戦神の【『化身』】のモードになっていたでしょう。人々は團十郎などの演技に無意識に自分を重ね-化身となり-楽しんでおり、役者絵や武者絵はそのモードを絵で再現させたのです。

このように、美人画や役者絵・武者絵を観る人たちの心は
図の左側の【『祈り』】、右側の【『化身』】の領域の双方で反応していた 
つまり人々は【『祈り』】【『化身』】双方のモードを享楽していた
と推測するものです。

ここで人格宗教表現、人格D表現の関係の繋がりにつき補足します。

左の赤は神仏-不動明王や山越阿弥陀図、地獄図を描いた宗教表現です。
中央のオレンジは能です。宗教表現ではないのですが、怨霊や神仏を招くような濃密なD表現なので濃いオレンジにしました。
右のピンクが浮世絵です。神仏とは関わりのないD表現です。

なお続きまして、右のピンクの浮世絵がグレーの枠で囲い表記されている理由を説明いたします。

浮世絵-美人画に見るD表現の枠・禁欲・抑制 グレーの枠

上の図版で花下遊楽図屏風、湯女図と浮世絵の女性を比べてください。
左がエロスの生々しさ・内面の意志を感じさせ見る人間を誘惑-侵襲する感じで写実的で型が無く自由、一人ひとりの個人の実存が感じられるのに対し、
右はエロスの生々しさから遠く誘惑-侵襲する感じが少ないです。洗練され明確な「型」の表現ですが、意思を持たない美しい人形のような女たちが描かれています。

続いて上の役者絵・武者絵は、一見生々しさと迫力を追求し個々の役者の個性も感じられますが、役者絵で描かれるものは幕府の管轄の下にある『統制された悪所である歌舞伎小屋の中での嵐・演じられている感情』でした。

役者絵は似顔絵-浮世絵のフォーマットを遵守した上での表現であり、描かれる鬼や化物も心理侵襲的なものではない-本当に心を畏れさせるものではないと考えます。また幕府の統制で、浮世絵-武者絵では現実の社会政治に関わる生々しい事象は表現できませんでした。

以上、美人画も役者絵・武者絵も、枠・禁欲・抑制の中の表現と言えます。五山文化の影響と同じ「黒」の枠は妥当ではないと考え「グレー」の枠で囲い表記するものです。

2-5-2 名所絵に見るD表現

浮世絵の名所絵は葛飾北斎「富岳三十六景」、歌川広重「東海道五拾三次」が人気を博し1830年代にカテゴリーとして確立します。江戸及びその郊外は都市開発の結果、この頃ようやく「美しい」佇まいを獲得し浮世絵の題材となります。

上は「富岳三十六景 神奈川沖浪裏」です。波間に三艘の小さな舟。激しい波濤に今にも舟は沈みそうで、「波よ鎮まり給え」「救いたまえ」の人間たちの祈りが聞こえるようです。富士山は遠く揺るがず超然と静観しています。

続いては「富岳三十六景 凱風快晴」です。富士の人を寄せ付けぬ魔神の如き威容。人は畏敬の念を抱き壮大な美を讃え、心中の疚しきことを悔い改める人もいたかもしれません。これらは人格神に対するような『畏』『讃』『鎮』『救』『悔』などの感情を喚起するのではないでしょうか。

続いて歌川広重の「東海道五拾三次」です。「戸塚 元町別道」ですが、当時の旅は歩き詰めで道中も不安でした。陽が沈む前に旅籠に到着しひと安心の場面。旅籠は旅人を「ようこそ」と受け容れ安心と憩いを提供し、
道中の無事を祈り送り出してくれる場でした。

「吉原 左富士」で描かれる旅人は三人の子どもです。道中の無事を松並木も左遠景の富士も祈り見守る如くです。道中で道端の花や緑は子どもらの心を慰め、雨には松並木が傘となり、喉が乾けばきっと湧き水が見つかるのでしょう。

これらの絵は見る人に憩いや安心、旅の無事への祈りと感謝などの思い-広い意味での何か大きなもの、その美と存在に対する『讃え-賞賛と感謝』の感情を喚起します。

 

広重は江戸の町などの美しさをこの上なく情緒豊かに描き圧倒的な支持を集めました。浮世絵の名所絵は、朝焼けや黄昏時の空の微妙な風情を表現し、夏の雨、奥深い雪の景色、江戸の町や地方の宿場町、街道の情景を描いた広重の絵を筆頭に、当時の人々に江戸の町や様々な名所の、理想化された日本の自画像を提供することとなっていきました。

広重の絵を買い求めた人たちは、自分の知っている場所の美を理想化してしみじみ思い起こし、自分の知らない場所の美を想像し思いを馳せました。

広重の絵は和歌-王朝文化の日本型の情報世界-美意識、『いまはこの場に無い-あるべき完全な美を想起し「偲び、惜しむ」美意識』を踏襲するものです。

 

名所絵の宗教-D表現はどのようになっているのでしょうか。
『いまはこの場に無い-あるべき完全な美を想起し「偲び、惜しむ」美意識』、和歌-王朝文化のD感情を喚起することは見ました。また北斎の絵にも広重の絵にも、人格を持った大きな存在に対するような感情が喚起され、『人格D表現』とも見えます。
そして、山水画・唐絵に見られたような非人格神的な『自然宗教-D表現』とも見えます。
能や茶道、俳諧においては、『自然宗教-D表現』は描かれる自然に紐づけられ、『人格D表現』は能という芸道・千利休や茶道や俳諧の道に紐づけられ、『王朝的D表現』はあはれの情緒に紐づけられるなど、宗教-D表現の分解ができました。
しかし、名所絵においては三つの宗教-D表現は、すべて「描かれた自然と風景」に紐づけられ、三つの宗教-D表現が混融しているのです。

このように北斎や広重などの名所絵などには、日本人の異なる宗教-D表現が境界なく混融して現れていると考えるものです。


広重などが様々な場所を「名所」として描いた時代、当時の人たちは「なんということもない景色」に「名所」の美を認識し、D感情を自ら喚起する能力を会得していきました。D感情の能力、D感情の快さを会得した人は、周囲や暮らしにD感情を求め、街並みを美しくしたり、街道沿いに松を植えたり、よりD感情が喚起されるように美しくすべく介入し、それは風景を「理想化された自画像」に近付けていったと思われます。

「なんということもない景色」に「名所」の美を認識

美しく描かれることは、祝福や存在する意義に繋がります。日本橋も戸塚も吉原も「ただの場所」ではなく「意味がある-祝福されたかけがえのない場」に変容していったのです。
広重の絵が一般庶民向けの商品として高く評価され広く流通したことは、当時の江戸の庶民がD感情をもち世界を美しくとらえる視点を獲得していったことを示唆するものです。

 

以下小林忠先生、大久保純一先生監修の「浮世絵の鑑賞基礎知識」から抜粋させていただきます。

『(浮世絵の)美人画は、錦絵が創始された明和年間の頃から、一般の家庭生活に取材することが多くなり、母や子の日々の暮しぶりが報告されるようになる。江戸の人たちは、季節や人生の節目節目を折り目正しく祝い、記念して生きていたから、春信が描いた衣更えとか、七五三の宮詣とかの絵柄は、多くの人々に共感をもって迎えられたに違いない。炊事、洗濯、縫物といった家庭内の女性の仕事ぶりも、美しく理想化して描き表された。』

上の喜多川歌麿の「台所美人」は台所仕事のつらさと楽しみを伝え、難儀な仕事であることも暗黙の裡に伝えています。
美人画-浮世絵は市井の人々の日々の暮しぶり、季節や人生の節目の行事や家庭内の家事、家庭内の母子の姿、仕事風景までも美しく理想化されて描くようになっていきました。

人々は名所絵のみならず、このような美人画を見る際も深い憩いや慰安の伴うD感情を感じるようになっていったのです。

 

日常の様々な行動や情景の全てに美とD感情を甘受する視座の獲得 

絵師たちが暮らしの隅々を美しく描くことで、当時の人たちは、「なんということもない日常」の中の美を認識し、D感情を自ら喚起する能力を会得し、人々はよりD感情が喚起されるように暮らしを美しくするようになった、人々は日常の営為をD表現・D-コミュニケーションに転換する態度を獲得していったと思われるのです。

名所絵では、旅先で旅人を見守る何か美しい存在がありましたが、
美人画でも、描かれた江戸の市井の暮らしの隅々までも人間を見守る何ものかがいるのです。

美しい名所の自然の中、人工的な江戸の町中、暮らしの只中、人間の関わる世界すべてが「自然」のような何か美しい存在に見守られ、江戸時代の人々はそれと関わるD-コミュニケーションを広く行っていたのではないかと考えます。


江戸時代の人々-「憂き世」をD表現の場「浮世」に読み替え:『予期』と『驚き』の場に


江戸時代の人々は、現実の「憂き世」を、D表現の場「浮世」に読み替えている部分があったのではないでしょうか。江戸の暮らしはD表現の舞台です。日常の台所仕事も子育ても季節行事も行楽も行動振舞いはD表現と見做すのです。日常生活は『予期』と『驚き』の場です。生活の中でつねに自分、他者、自然や世の中の風物の中にD表現を「祈り待ち-予期」しD表現の現れに「心が動く-驚く」生き方です。

彼らはモノ・コト・環境と自分で二次的な現実を形成している中で暮らしていました。俗事・非苦哀傷も生の一回性を帯びたD表現の素材です。広重の名所絵で大いなる自然の見守りが感じられたように、市井の暮らしを自然にも似た大いなる何者かが見守っています。

歌麿の「台所美人」が人々の暮らしの美を讃えたように、人々は暮らしに讃え・畏敬・悔い改め-暮らしを良くし楽しむような精進-などの感情を込めたと思うのです。

これは江戸時代には、少数の人たちだけが持っていた意識、あるいは江戸時代以降に普及した意識かもしれませんが…江戸時代から現代に至る間に、このような世界観を日本人は身に付けていったのではないでしょうか。

江戸の暮らしを描いた浮世絵を観るときに心の中で生起していたことを図示してみます。

●江戸時代の人たちが暮らしを描いた浮世絵を観るとき彼らの心には意識-無意識に何か彼らを見守るようなもの-「神」が存在していた。
●彼らは暮らしをD表現の舞台とした。彼らの様々な行い・振舞いは宗教ではないが深い感情を喚起するD表現であった。
●それら暮らしの中のD表現には『讃畏悔救鎮滅-予期驚き』などの宗教的な祈りに近い心の動き-D感情が随伴していた。
●江戸時代の人たちは生活文化の中でD表現の創造-蓄積-創造…のプロセスを重ねD感情を喚起し深める体験を重ね、彼らの心の意識-無意識の「神」は、豊かに深耕されていった…と推測するものです。

なお江戸時代の生活文化の美とD感情にも「脳内AR/VR能力」が関わっていました。

2-6 「イエ」という組織にもD表現 社会関係の中のD表現を見ることができる

1979年出版の「文明としてのイエ社会」は日本の組織原則「イエ原則」の歴史を詳解。江戸時代に各大名家-藩、家臣の家、特に豪農商家で具現化し洗練を見た「イエ」は、明治-昭和に至り命を保ち企業の猛烈社員・労働組合の活動家を生んだのです。「イエ」組織には芸術ではなく社会関係上で表現された「D表現」を見る事ができます。

【『祈り』】モードでは、例えば「イエ」組織の成員は藩や豪農商家の主君や始祖開祖を讃え畏れます。「イエ」に敵対する者を「滅ぼし給え」と祈り(呪い)、危機の際は「イエを救い給え」と祈ります。
【『化身』】モードでは、「イエ」を讃えよ畏れよ、と言葉で・言外に告げます。「イエ」を護るため闘うぞと闘志が漲り「イエ」に敵対する者を滅ぼすぞと言葉で・言外に告げるのです。
赤穂の忠臣蔵四十七志は主君の名誉を救い-回復し敵を滅ぼし主君の無念を鎮める為に命を捧げるD感情のD表現ですし、葉隠にもイエの思想が見えます。

「イエ」の思想、倫理観は江戸時代に大名家や富裕層に具現化しそれは当時の日本社会の原理の一端を担っていました。

D表現D感情は社会関係や人の生き死ぬ理由にまで結び付いているのです。


「イエ」組織内の「意識状態・場」
なお、「イエ」組織内の「意識状態・場」を図にすると中世の宗教の社会の如くです。

「イエ」の始祖開祖は神仏のような位置にあり、組織の成員はすべて「イエ」に【憑依】され、「イエ」の存続や利益と名誉がすべてに優先します。「イエ」の中は、精神性の高い儀礼的「D表現的組織文化」に満たされています。
「イエ」の【憑依】の文化は、断絶はあれど昭和の企業文化等にまで継続されました。D表現・D感情が、人と人の関係性・組織社会の行動原理・生きる理由にまでなっていた例として注目されます。


茶道から江戸時代の文化まで様々な『D表現、D感情の拡大』が見られる
以上見て頂いたように、茶道から江戸時代の文化まで様々な領域で『D表現、D感情の拡大』が見られました。

またD表現・D感情の文化は、【『祈り』】【『化身』】双方の領域で芸道や芸術、日常の暮らしの全般、そしてイエという社会組織の関係性まで影響し動かしていたことを見ました。 

 江戸時代には社会の至る所に『D表現、D感情の拡大』が見られます。
江戸時代の正式な礼法や日常所作の美意識は能や茶道のD表現、D-コミュニケーションの美学や身体作法を受け継いだものです。数寄屋建築、日本庭園、和食の一汁三菜、茶碗陶器、掛物や茶花,無形の「心配り・もてなし」などは茶道のD表現やD感情を受け継ぐものでした。

また江戸時代には「世俗内行為に救済を見出す」思想が多々存在しました。二宮尊徳の農民への「報徳運動」、石田梅岩の町人・農民・武士にまで波及した「石門心学」、徳川時代の著名な儒者の室鳩巣や山鹿素行なども同様の思想を述べています(ベラー「徳川時代の宗教」)。鈴木正三は『世俗の職業生活のうちに仏道修行を実現すべきと主張した。…いかなる職業も神聖である。そこでかれは農民に教えていう、農業すなわち仏業なり。』(中村元選集第8巻)と中村元先生の記述にあります。

江戸時代の人たちは暮らしを美しくし心を込めて人や物事や自然に相対し、礼儀作法を美しくこなし、それらD表現の営為は「行動」に現れ江戸の文化を形成していたのです。
以上 この章では江戸時代の人たちが『D表現、D感情の拡大』を通して【『祈り』】【『化身』】に伴う「幸福・至福」の心の体験を社会と暮らしの至る所に拡大・創造したことを見て頂きました。

3. 現代の日本社会に見られる『D表現』
私たちの深層を動かしているもの

現代社会に見る『D表現、D感情』の諸相
ここからは現代にも江戸時代のD表現の文化が引き継がれていることを見て頂きます。

3-1 「この世界の片隅に」-現代の「台所美人」「名所絵」のD表現

2016年に公開されたアニメーション映画「この世界の片隅に」は日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞を始めいくつもの映画賞を受賞した作品です。この映画では戦時中の広島と呉を舞台に主人公「すず」とその家族や嫁ぎ先の人たちの暮らしと、それが戦争に巻き込まれていく様子が克明に描かれています。

「すず」と「日本文化」の「日々の生活に心を込め楽しむ暮らし」「自然に包まれるような-自然と調和した暮らし」
作品前半で描かれる「すず」の新婚生活では、戦時中で物が不足する中で「すず」は着物を裁ち・解き・合わせ・縫って着物を直します。
食べられる植物を道端に探し、家族のため工夫を凝らした調理もします。
小松菜を種から育て、昔ながらの洗濯仕事やアイロンかけが描かれます。
自分の与えられた場で丹精込めてできる限りのことをしていること、それが決して不幸ではない表情で描かれています。「すず」はちょっと頼りなく、また現代の視点では女性の家庭内過重労働ですが、日々の生活に心を込め楽しむこのような暮らしにかつての日本の生活文化への郷愁を覚える人も多いでしょう。
また「この世界の片隅に」の美しい自然描写は観ている人を惹きつけます。例えば小学生の頃の「すず」が同級生の乱暴な男子の写生の課題の絵を代わりに描いてあげるシーンがあります。男子は海の事故で兄を亡くした心の傷がまだ癒えず「海が嫌い」なのですが、「すず」が描いた、海原の波が白うさぎのように表現された絵を、男子は「いらんことするわ」と言いつつ大事そうに抱えて帰ります。描かれる瀬戸内の海辺の風景に漂うさみしさや哀愁は兄を亡くした男子の心を表し、二人を見守り包み込むような自然は男子を気遣い見送る「すず」の心を表しているかに思えます。幼い二人を見守るような瀬戸内の海辺の美しい自然です。
これらの情景-視線は、先に紹介した江戸時代の浮世絵のものと非常に似ているのです。そして「すず」の日々の生活に心を込め楽しむ暮らしぶりは、歌麿の「台所美人」そのものではないでしょうか。

美人画-浮世絵には市井の人々の日々の暮しぶり、季節や人生の節目の行事や家庭内の家事、家庭内の母子の姿、仕事風景までも美しく理想化されて描かれましたが「この世界の片隅に」の前半で描かれる「すず」の昭和の暮らしぶりはそれに似ています。
また、この映画前半で「すず」たちは「自然」の只中でなくても何者かに「守られて」います。映画冒頭のまだ幼い「すず」の広島へのお使いの場面で広島の街のクリスマスの賑わいにわくわくしている「すず」。迷子になってもニコニコしている「すず」は、何者かに守られているようでしたが、広重「東海道五拾三次」の上記「日本橋」などを見ると、自然の只中ではありませんが描かれた人たちは幸福で何者かに「守られて」いるかに見えます。
江戸時代の浮世絵の、生活全体が自然に似た何者かに守られ祝福されているかの暮らし、自然に包まれ-街中にあっても何者かに守られているような暮らしに似たものが「この世界の片隅に」には描かれており、その描写に私たちは心をつかまれ深い慰安-D感情を感じます。

「この世界の片隅に」が高く評価され様々な賞を受賞したことは、現代の私たちも、台所仕事など日常の所作・自分たちの住む街、日々の暮らしの多くの営みに崇高、美、あはれ、深遠等の「深い-Deepな感情(D感情)」を喚起されていることを示唆するのではないでしょうか。

3-2 「職人衆昔ばなし」-仕事をD表現として生きる知恵・生き方

職人衆昔ばなし」(昭和42年 斎藤隆介)は昭和の職人文化を伝える聞取りの記録です。
『「庭作りは命作りだ」ということです。あらゆる木や草などの生物を生かし、石や空間などの命のないものからも命を生かして、それをまとめて、お互いの命をさらに盛んにして、何十年でも何百年でも生き続けてゆける場所を作ってやるのが庭作りだ、と私は思っています。』
『春の芽立ちの色、夏の緑、秋の雨音、冬の枯れ枯れと、こんな小庭にもそれぞれ自然がしぜんに生きるよう、殺さぬよう、心を配ってはあるんですが、どんなものでしょうか一。』
『「コテの先へ自分の心を入れて、コテになり切って仕事をしろ」私は、いまの養成所の生徒は別にして、二十七人の弟子を育てましたが、それらにも、いつもこの長八さんの言葉を言い聞かせて来ました。』
『あと、「だけど仕事の楽しみは、この腕と道具が知ってらア」としみじみ左手の小指のノミダコを眺めるんです。』
『なにしろ生れて七十五年、石切る音を聞いて生きて来たんです。』『石ってものは固いもんですが、その扱いは豆腐よりも大事に扱わなくっちゃならない、というのが石屋の心得です。』



庭の自然に、自分の仕事の道具に、石のような素材にも命を感じ心を通わせあう。仕事に心を込め、矜持を持った在り方。これらの職人の方々の仕事はD表現・D感情・D-コミュニケーションの営為です。職人の方々の言葉には求道的-「宗教的なもの」も感じます。少し前の私たちは、仕事をD表現とし生きる文化を色濃く持っていたのです。

 3-3 「『日本人』という病」-何気なしにやっていることに宗教性が入り込んでいる

ここで、昭和の日本人の感じ方の一例を河合隼雄先生の「『日本人』という病」から引用させて頂きます。

『日本は宗教性というものが現実生活と混ざっているのです。…
聖なる世界と日常がものすごく重なっている生活をしているのが日本人だと思います。だから、思いがけないところで宗教性が入ってきたりします。…
そして、自然との一体感とか、自然に対する畏敬の念とかいうものが日常生活の中に入り込んでいたり、昔は物が少なかったこともあって、物を大切にするというところにも宗教的なものがありました。…
ご飯粒を落としてはいけませんというふうなことは本当は心の問題、宗教性の問題、物も心も一緒くたになっていますから、日常の生活が宗教に関連してくる。仏教的に言えば、手ぬぐいなら手ぬぐい一つが即ち仏という考え方になります、だから日本の工業製品というのはすごく品質のいい物ができるのです。…
日本人は仕事をきれいにするという中に宗教性が入っているのです。完全な品というものと完全なる仕事というものは、どこかで対応しているのです。非常に完全な姿というものがあり得るのだとか、自分がそれに関係しているのだということで、自分が生きていることと完成とか超越とかいうことが、知らないうちに関係しているのです。日本人の場合は、何気なしにやっているいろいろなことの中に、宗教性がすっと入り込んでいるのです。』

河合先生の「宗教性」の語は本論の「D表現」「D感情」と読み替えられます。河合先生の言葉は、少し前の日本人の精神性をよく表現されているのではないでしょうか。

3-4 架空の技術者の例 人の働き生きる理由はD感情のフレームに載せられる

わたしたちの働き生きる理由もD表現の枠内にあるのではないでしょうか。
以下は〈架空の技術者の例〉です。第二次大戦後 日本が貧しかった復興期の頃に世界最小のラジオの開発に取り組む技術者の心はD感情のフレームに載せられるのです。

この技術者は『日本を世界に打ち勝つ科学技術の国に』との理念を掲げる経営者を崇拝し研究開発に取り組みます。同年配の友人が戦死した中自分一人生き残った畏れ、悔いが彼の心を駆り立てています。『自分も技術力で日本のみんなを救いたい』と商品開発に取り組み、太平洋戦争の死者と敗戦に途方もない悲しみ、死者の魂が「救われますように」「鎮まり給え」との思いを抱えています。技術力で世界に勝つことこそが死者への鎮め-はなむけであり弔い合戦だと思っています。

部品や仕組みづくりに精魂を傾け身を捧げ自分を犠牲にすることを厭わない彼ですが、目覚ましい直観、商品開発にブレイクスルーが起きた時には異様な高揚感、全能感に包まれることもあります。

会社の経営、開発の前途等の不安を脇に置き、無心の境地で開発に集中し取り組みます。

この技術者の思いはD表現の枠内にあるのではないでしょうか。

 

3-5 「鬼滅の刃」の感動はD感情のフレームに載せられる

「鬼滅の刃」は2020年に映画興行の日本記録樹立など大ヒットを記録しました。

『鬼滅の刃』には地獄の使いのような鬼の身も凍る所行、地獄のような『畏れ』の場面が多々出てきます。鬼殺隊の「柱」の剣士たちは超絶的な戦闘力で鬼と対峙し、戦神の如く『讃え』るべき雄姿を多々見せてくれます。鬼殺隊当主、産屋敷耀哉は隊員から神仏のように崇敬『讃え帰依』されかつ「お館様」と親のように慕われる鬼殺隊の要です。
鬼殺隊を支える「柱」の剣士、煉󠄁獄杏寿郎は強大な力を持つ鬼「猗窩座」との闘いで凄絶な戦死を遂げますが、最後まで「人を鬼から守り闘う」責務を全うします。
『鬼滅の刃』には痛切な「救いの無い」悲しみや涙の描写が多いです。極悪非道な鬼でさえ、読者(視聴者)は鬼の死後の魂が『救われるように』祈ってしまうのです。
『鬼滅の刃』では、怨みや妄執を抱えたまま死の間際に居る鬼に対して、その鬼の魂が安らかに眠る為に「その怨みや妄執を鎮め給え」と祈るような気持ちになる場面がいくつもあります。怨みや妄執を抱えたまま死滅することは、猛悪な鬼であっても痛ましいと感じてしまのです。
能の複式夢幻能の伝統を「鬼滅の刃」は引き継いでいるのです。

自らの命と引き換えに猛悪な鬼を倒した「柱」の女性剣士胡蝶しのぶは、死後の世界で桜吹雪の中で亡き両親に迎えられます。儚く消え去るものこそが美しく愛しい感受性は王朝文化に紐づくものです。
鬼殺隊の「柱」の剣士たちは若くして死と隣り合わせにある故の深い諦念の中にあります。人を護り鬼を滅すること以外の全ては、究極的には『無』であると悟っているのです。

このように現代日本の作品も室町-江戸時代の美術芸道等と同様の『讃・畏・悔・救・鎮・滅、あはれ』ならびに禅の無心に紐づいたD表現の文化を受け継いでいるのです。西洋のハリウッドの映画などには無さそうな日本文化的な特徴が『救い』『鎮め』『滅ぼせ』『禅の無心』『王朝-五山D表現』のD表現などに現れているのです。

3-6 昭和の時代の歌謡曲におけるD表現

昭和の歌謡曲にもD表現を見ることができます。例えば日本レコード大賞受賞曲、昭和51年「北の宿から」昭和50年「シクラメンのかほり」を思い出して下さい。


不在の「恋しいあなた」に届かぬ思いを送り続ける、女心の未練-満たされぬ思い。出逢いの頃の記憶と呼び戻すことのできない美しい時間を讃え偲ぶ-「失われたものを偲ぶ」、『鎮-救-讃』の入り交じった王朝文化的、D表現のコミュニケーションです。北の寒さと心の寒さ、清(すが)しい君とシクラメンなど、自然描写と人の心が一つになっている様も古今和歌集を思わせます。これをより詳しく見てみると、

左の「飛ぶ鳥の…」「吉野川…」は古今集の歌ですが、青下線の部分は人が神-自然を讃える『祈り』、赤下線の部分は恋の神が人に憑依し神が告げている『化身』の箇所です。
「シクラメンのかほり」でも人が真綿色・薄紅色のシクラメンの自然の美を讃え、次いで恋の神が憑依し「君」への想いが歌われます。「北の宿から」二番では吹雪と汽車の声、一人酒涙唄の情景が人の視点で歌われ、恋の神が憑依し未練、恋しいあなたと恋情が迸ります。そして古今集にもレコード大賞受賞曲にも『讃美・畏れ・鎮め・悲しみ・予感・驚き』の6感情では言い尽くせない「X」-「あはれ」のD感情が喚起されているのです。

「失われたもの-ことを偲ぶ美」を歌う為に恋は悲しい-偲ぶものでなければならず、悲しい「恋」を素材にしているのが昭和の歌謡曲であり、その意味で古今和歌集と同じなのです。古今和歌集-和歌がD表現でD感情を喚起したことは現代の歌謡曲にも引き継がれているのです。

3-7 人間の「基本感情」・様々な欲動や衝動とD感情等

ここでは人間の感情や欲動・衝動とD感情の関係を見てみます。
感情心理学において人間の「基本感情」には諸説あってまだ定説がありません。日本心理学会企画の「感情心理学ハンドブック」にはEkman&Friesenの幸福・驚き・恐れ・嫌悪・怒り・悲しみの6感情が紹介されており、その他Plutchik、Barrettは次頁の8感情、9感情を基本感情として挙げています。


次にある中央の表は和歌-王朝D表現の表をひな型に、一般的なD表現と感情等についてまとめたものです。『あはれ』のメッセージ・D感情も表記しています。

ここで図-表の左半分をご覧ください。Ekman&Friesen他の人間の「基本感情」の項目の多くが【『祈り』】のD感情等と符合することがわかります。

「1幸福」と「7喜び」は、D感情の『讃美』の際の感情と理解できます。「4嫌悪」「5怒り」は、D感情の『憎悪』に近いでしょう。「8信頼」はD感情の『讃え帰依します』の際の感情と理解でき、「10情熱」は、『神』感知、『神』一体化の際の高揚感に近いと考えられます。「11罪悪感」もD感情の『悔い』の際の感情でしょう。

「2驚き」についてですが、ブリタニカ国際大百科事典によれば「驚き」とは予期しない事態の突然の出現に伴う強い一時的情緒であり、アリストテレス (『形而上学』) の「驚きから哲学が始まる」に遡るものです。この「2驚き」及び「8期待」は、日本文化においては『神の訪れ(来迎)の驚き』及びその『期待』と符合するのです。

このように人間の「基本感情」は、D感情と紐づけると由来が説明できるのです。

平安時代から数百年、人々は良いことが起これば神に喜びや幸福を伝え、悲しみの際には神に「悲しい」「救い給え」と必死に訴えていました。仮に日照りの際の村総出での降雨の祈りの際に悲しみを示さない者がいたり、祈りの後に雨が降り村全体が感謝の祈りを捧げている際に喜びを示さない者がいたとしたら、その者は、村全体が神の怒りを買う惧れから悲しみや喜びを表現するよう強制されたでしょう。

神仏への恐怖が徹底した数百年の間に人々の心には宗教感情という「心の習慣」が強烈に刻印され、それは現代のD感情-「基本感情」に繋がっているかに見えるのです。

なお西洋の感情心理学には、日本文化で重要な『あはれ』『鎮め』のD感情に該当する「基本感情」は無いようです。「北の宿から」「シクラメンのかほり」の古今和歌集的な『あはれ』の感動や「鬼滅の刃」の『鎮め』の感動を表現するためには、日本ならではの「基本感情のセット」が必要かとも思われます。 

次いで図-表の右半分をご覧ください。感情とは別に、人間には欲動や衝動があります。それはときに理性や冷静な判断を凌駕して人間を翻弄してしまうものです。
攻撃の欲動に駆られ喧嘩をしてしまう。哄笑、嘲りの欲動を抑えきれず罵倒してしまい争いが激化する。あいつを支配しなくては気が済まない、自分の力や優秀さを思い知らせ、相手を屈服させねば気が済まない。性的衝動に翻弄され思い人のことを片時も忘れることができない。

芸術家が損得より美の追求に邁進し身を亡ぼす物語、人がなぜか遊びにとり憑かれ身を持ち崩す逸話も多々耳にします。

これらはみな、無意識に多神教的神に憑依されている-【『化身』】状態に起きる現象です。ギリシャ神話などに見られる攻撃し哄笑する神、支配欲や屈服させたいという衝動に満ちた神。性的な衝動の権化の神、美の神や遊びの神が私たちの無意識にも棲んでいて、私たちはときにそれに憑依されその【『化身』】と化しているのです。

 なお日本美術では、過去に谷川徹三先生ら提唱の「縄文的原型」「弥生的原型」という考え方があり、例えば狩野永徳の「唐獅子図」、日光の「東照宮」は「縄文的元型」、定朝の「阿弥陀如来坐像」などの藤原仏は「弥生的元型」に該当するのですが、
本論の用語では【祈り】『畏れます・讃えます』【化身】『畏れよ・讃えよ』は縄文的元型、【祈り】『鎮まり給え・救い給え』は弥生的元型に対応する等思われます…。

 また【『祈り』】は巷で言われる内向的性格、【『化身』】は外向的性格に符合する部分もあるのではないでしょうか

以上、私たちが人間的なものと感じる「感情」や「欲動や衝動」は、宗教に起源を持つD感情の、人から「神」に向けた【『祈り』】、「神」が人に乗り移った【『化身』】の現れのように見えるものです。

人間性とは何か。それは「神」との【『祈り』】【『化身』】の現代的な表現形態なのです。

3-8 私たちの文化 二次的自然-D世界

これまでの議論を集約します。

江戸時代の人たちは、自然も人工物も文化も町もその賑いもその総体を人間にとって尊い、自分たちを包み込み見守ってくれる自然-「二次的自然」として見出しました。

そして現代(現代に近い時代)の私たちの暮らしと生活意識にも、映画「この世界の片隅に」・昭和の職人衆の昔話・河合隼雄先生の「『日本人』という病」・架空のラジオ開発の技術者の話・「鬼滅の刃」・昭和の歌謡曲の「北の宿から」「シクラメンのかほり」…等、私たちの周囲にそれに近いものが多々あることを示しました。

江戸時代から現代に至る時代、私たちはこの「二次的自然」のもとで、台所仕事・職人仕事・子育て・イエ-会社の仕事・社会的なお付き合い・祭の準備・自然との関り・・・に心を込め精を出すことをD表現の営為にできる文化を造っていきました。それは私たちの住む世をそのまま二次的現実である「二次的自然-D世界」、Deepな場-世界にする文化であり、現代の日本に至っています。

『二次的自然-D世界』は、王朝文化的「王朝・五山D表現」、人格神的「人格D表現」、「自然宗教D表現」及びそれらを混淆し、表現・享受・蓄積していく舞台です。


日常の仕事・人間関係・モノや自然との関り等あらゆる局面がD表現の機会となり、(上記 丸の組み合わさった図)
人はモノ-コト-環境と自分が一体化する場を形成します。(下の図)

江戸時代の人たちが先鞭を付けた『二次的自然-D世界』の文化、『D表現、D感情の拡大』を通して【『祈り』】【『化身』】に伴う「幸福・至福」の心の体験を社会と暮らしの至る所に拡大・創造した文化は、明治大正昭和の近代化の中、その意義や精神性が尚も深化され、現代に至るも再生産され続けているのです。

下図は、江戸時代の浮世絵の箇所で説明した図を修正し現在に適用したものです。

●現代の私たちは暮らしをD表現の舞台とする文化を作り上げ維持し続けている。
暮らしの中の様々な行い振舞いはすべてD表現の創造と享受の過程となっている。
芸術や娯楽コンテンツ、仕事、暮らしの様々な行いまでD表現となり得る。それは人の生きる理由・生きがい・人間性(感情・欲動や衝動)そのものに繋がっている。

●暮らしの中のD表現には『讃畏悔救鎮滅-予期驚き-あはれ』などの宗教的な祈りに源流を持つ心の動き-D感情が随伴している。

●私たちは今も生活文化の中でD表現の創造-蓄積-創造…のプロセスを重ねD感情を喚起し深める文明を生きている。

現代の私たちの生活文化の美とD感情にも「内AR/VR能力」が関わっている。

私たちのD表現の世界-「二次的自然-D世界」の背後に「神」がいるのかは不明ながら、でも私たちは「神」がいるのに近い情報行動-感情、意志、表現、理解を続け、存在が不明な意識-無意識の「神」を深耕し続けているかのようです。
私たちはD表現・D感情に駆動された心-社会を今も生きている
のです。

終わりに

以上、【『祈り』】【『化身』】及びD表現-D感情の歴史を見て頂くとともに、昭和から令和に至る現代日本の文明も依然としてこれらの残滓に大きく影響を受けていること、それは私たち、現代日本人の美意識や価値観、生きる理由死ぬ理由、働く意味や社会関係、さらには経済社会システム全般をも深いところで規定していることを見て頂きました。

いま日本も世界も大きな変化の瀬戸際にいると言われています。人間関係の在り方-組織-社会や国の在り方が大きく変わる、AI-ロボットが人間の仕事-生きがいを奪うと言われ、ポスト資本主義など議論する声までも聞かれます。

本論の議論は支配階層や都市部の芸道芸術文化表現のごく一部の概観である限界を有し、民衆―地方―生活の中の文化を踏まえた議論への拡張が必須とも思われますが…、

今、人間性の再定義さえ求められる時代に、千年の時を超え変化しつつ継承されてきた 【『祈り』】【『化身』】D表現-D感情等の視点が、未来を洞察する上で少しでも示唆を与えることができればと祈るものです。

以上

≪参考文献≫


『美術出版社 カラー版日本美術史』辻 惟雄監修
『ひらがな日本美術史1~7』橋本治
『日本美術史 JAPANESE ART HISTORY (美術出版ライブラリー)』山下裕二 高岸輝監修 
『日本中世の国家と宗教』黒田俊雄 『日本中世の社会と仏教』平雅行
「国家神道と民衆宗教」村上重良
「日本思想史に於ける否定の論理の発達」池永三郎
「『無常』の構造」磯部忠正 「亀井勝一郎全集十八巻」亀井勝一郎
「古代和歌の世界」鈴木日出男 「景と心-平安前期和歌表現論」佐藤和喜
『古今和歌集 全注釈』片桐洋一 「古今和歌集評釋」窪田空穂
「古代和歌の発生―歌の呪性と様式」古橋 信孝
『徒然草』吉田兼好 「中世芸能講義」松岡心平
「花と山水の文化誌」上垣外憲一 「日本教会史」ジョアン・ロドリーゲス
『風姿花伝・花鏡』世阿弥-著,小西 甚一-翻訳
「南方録」立花実山 「茶話一会集」井伊直弼
『熊倉功夫著作集第一巻 茶の湯 心とかたち』熊倉功夫
「『日本人』という病」河合隼雄 『江戸町人の研究』西山松之助編
「浮世絵の鑑賞基礎知識」小林 忠/大久保 純一
「広重と浮世絵風景画」大久保 純一 「百姓たちの江戸時代」渡辺尚志
『鬼滅の刃 1-23』吾峠呼世晴 「逝きし世の面影」渡辺京二
「この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック」『この世界の片隅に』製作委員会
「美と礼節の絆 日本における交際文化の政治的起源」池上英子
「徳川時代の宗教」R.N.ベラー 「中村元選集第8巻」中村元
「文明としてのイエ社会」村上泰亮/公文俊平/佐藤誠三郎
「職人衆昔ばなし」斎藤隆介 「縄文的原型と弥生的原型」谷川徹三

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?