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【近現代ギリシャの歴史9】第二次世界大戦とギリシャ内戦

こんにちは、ニコライです。今回は【近現代ギリシャの歴史】第9回目です。

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1939年に始まる第二次世界大戦の戦火は、やがてバルカンへと広がり、ギリシャにも及びました。枢軸国による支配に対し、ギリシャ人たちは抵抗運動を組織しますが、その中で、再びギリシャ人同士の対立が深まっていき、これまでにない凄惨な内戦へと発展していきます。今回は第二次世界大戦下のギリシャと、戦後に起きた内戦について見ていきたいと思います。


1.枢軸国のギリシャ占領

1939年9月に始まった第二次世界大戦の波がギリシャに押し寄せたのは、1940年10月28日のことでした。バルカン進出を目論むイタリアが、すでに占領下においていたアルバニア国境からギリシャへと侵攻したのです。しかし、ギリシャ軍はただちに反撃を開始し、総力を挙げてこれを撃退しました。

1940年6月ごろのヨーロッパ
バルカン諸国のうち、アルバニアは1939年4月にイタリアにより占領、ルーマニアとブルガリアは枢軸国側に立って参戦することになる。
CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=118611804

しかし、その半年後の1941年4月6日、今度はドイツ軍ギリシャへと進撃を開始しました。ドイツは来る独ソ戦に備え、両国の中間に位置しているバルカン半島を確保しておこうとしたのです。ドイツ軍の猛攻に、ギリシャ軍および援軍のイギリス軍は手も足も出ず、4月27日にはアテネを占領され、最後まで持ちこたえていたクレタ島も、5月末には陥落してしまいます。

アテネのアクロポリスに軍旗を掲げるドイツ軍
CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5476328

全土を占領下に置かれたギリシャは、ドイツ、イタリア、ブルガリアの三国によって分割占領されることになりました。枢軸国による占領は過酷を極め、鉱物資源・農作物は強制的に徴発され、占領経費の肩代わりさえも要求されました。1941年から42年にかけて厳しい食糧難が発生し、ギリシャ全土で20万から30万人もの人々が亡くなり、アテネでは街頭に横たわる死体が日常風景となったといいます。

枢軸国によるギリシャ分割(1941-1944)
赤がドイツ、緑がブルガリア、茶がイタリアの占領地域。アテネは三国による共同占領とされたが、実質的にドイツ軍の統制下に置かれた。
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3742461

2.ギリシャ人の抵抗運動

枢軸国による占領に対し、自由を愛するギリシャ人たちは抵抗の意を示し、各地で抵抗運動を組織化していきました。その中でも最大の抵抗組織となったのが、民族解放戦線EAM)、およびその軍事部門として結成されたギリシャ民族解放軍ELAS)です。EAMはギリシャ共産党が中心となって結成された組織であり、1936年以降の独裁体制の中で地下活動を余儀なくされた共産党のノウハウが活かされ、組織を拡大していきました。

EAMのポスター
「皆武器をとれ」と書かれている。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=69518261

しかし、EAM / ELASに参加したのは、共産主義者だけではありませんでした。非共産党系の左派や社会主義者のみならず、自由主義者や共和主義者など、幅広い層から人々を受け入れて勢力を拡大していったのです。また、これまで政治から疎外されてきた一般民衆も、EAMを支持するようになりました。最盛期には当時のギリシャ人人口の3分の1にあたる200万人がEAMに参加したと言われています。

ELASの兵士たち
ELASには男性だけでなく、多くの女性も兵士として加わっていた。
CC BY-SA 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=106181590

EAMは、ユーゴスラヴィアの共産党パルチザンと密接な関係を結びながら武装抵抗を展開し、ユーゴスラヴィア国境からコリントス湾までの広大な山岳地帯に「自由ギリシャ」という解放区を形成していきました。こうした解放区では、行政組織である民族解放政治委員会PEEA)が発足し、経済活動の立て直しや、裁判・教育制度の見直し、女性の地位向上といった政策が行われました。

3.イギリスの思惑

しかし、ギリシャの同盟国であったイギリスは、EAMの勢力を快く思いませんでした。EAMが主導権を握れば、戦後のギリシャが共産国化し、ギリシャと東地中海地域へソ連の影響力が拡大するのではないかと恐れたのです。イギリスは枢軸国打倒のためにEAMを利用する一方で、非共産党系の抵抗組織である国民民主ギリシャ同盟EDES)をEAMに対抗させながら、将来的にはカイロに亡命していたギリシャ王国政府を復帰させようと、ギリシャ情勢に積極的に介入するようになります。

亡命中のゲオルギオス2世(写真中央、カイロ、1942年)
EAMやEDESなどの国内に残った政治勢力は国王の帰還を望まず、戦後、国民投票によって君主制存続の是非を問うことを主張していた。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17232729

イギリスの思惑を察知したEAMも態度を硬化させていき、枢軸国軍だけでなく、他の抵抗組織にまで攻撃を加えるようになっていきました。そして、1943年10月、EAMはギリシャで唯一の抵抗組織になることを目指し、他の抵抗組織の殲滅に乗り出しました。イギリスはEDESを支援しましたが、EAMは同年9月に降伏していたイタリア軍の武器を鹵獲し、戦いを続けました。翌44年2月に両者の間で停戦協定が結ばれますが、この戦闘でEDESの勢力は著しく衰えてしまいました

EDESのメンバー
左から2番目は指導者のナポレオン・ゼルヴァス。EDESはEAMに次ぐ規模を持っていたものの、ELASとの戦闘後は、その規模を北西ギリシャに限定されるようになった。
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3819566

ドイツ軍はこの抵抗組織同士の争いを大いに利用し、ギリシャ人の対独協力者によって組織された治安大隊EAMを攻撃させました。もともと反共産主義が主流であったギリシャでは、共産主義よりはナチズムのほうがマシであると、治安大隊を支持する人々が現れました。カイロの亡命政権も治安大隊を積極的に評価するようになり、連合国軍ですらEAM攻撃を黙認するようになっていきました。

治安大隊の兵士たち
傀儡政権によって設立された、反共産主義武装ギリシャ人部隊。共産主義を敵視する右派や王党派のギリシャ人は治安大隊に接近していった。
CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5476357

4.内戦の勃発

1944年9月、ELASが全土で一斉蜂起を行い、10月にはイギリス軍が上陸したことで、枢軸国は撤退し、ギリシャは解放されました。11月4日、ゲオルギオス・パパンドレウが首相を務める亡命政府が帰還し、当初はEAMも歩み寄りを見せました。しかし、両者の蜜月は長く続きませんでした。パパンドレウが左翼勢力の排除態度を鮮明化し、旧王党派主導による国民軍設立に伴い、ELASの武装解除を求めてきたからです。

ゲオルギオス・パパンドレウ(写真中央、1888-1968)
かつてヴェニゼロスに師事した自由主義者であり、メタクサス独裁時代には国外追放となっていた。1944年10月に、国民統一政府の首相に就任する。
CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31013679

これに対し、EAMは12月3日アテネで抗議集会を開催しました。しかし、デモ隊に対して政府側の警官隊が発砲したことで、流血の惨事となりました。この十二月事件をきっかけに、ギリシャはEAM/ELASと政府軍との内戦に突入していきます。当初は地方のほとんどを勢力下においていたEAMが優位でしたが、イギリスの支援を受けた政府側が徐々に優勢になっていきました。さらに、占領期の対敵協力者だった人々は、その汚名を返上するために、積極的にEAM攻撃に参加していきました。

ELASと戦うイギリス軍(アテネ、1944年)
12月事件以降、アテネは1か月間にわたって戦場と化したが、イギリス軍の支援により、最後には政府軍はELASを退却させることができた。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25296267

1946年2月、政府とEAMの間でヴァルキザ協定が結ばれ、対敵協力者の粛清やEAMや共産党合法化と引き換えに、ELASの武装解除が合意されました。しかし、EAM側が協定に従い武装解除を行ったにもかかわらず、政府側はEAMや共産党への弾圧を強化し、公職追放や右翼・王党派による暴力行為といった、EAM/ELASの元構成員左翼思想を疑われた人々への白色テロが盛んに行われました。

5.共産党の敗走

白色テロの標的とされた人々は山岳地帯に逃げ込み、1946年10月にギリシャ民主軍を結成し、1947年には政府側との全面的な内戦に突入していきます。政府側による左翼への攻撃は激しさを増していき、47年には西側諸国で初めて共産党が非合法化されました。さらに、1948年には忠誠証明書の形態が義務化され、ギリシャ国民は政治信条の審査を受け、政府に忠誠を誓う署名をしなければならなくなりました。こうした弾圧により、4万人から5万人の左翼・共産主義者が収監され、少なくとも8000人が死刑判決を受けました。

反共を訴えるギリシャ政府のポスター
近隣の共産国からの支援を受けていた共産主義者たちは、ギリシャを脅かす「裏切者」、「民族の敵」と見なされた。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=55295763

国際情勢も民主軍にとって不利なものになっていきました。イギリスに代り、ギリシャ政策を担当することとなった米国は、ギリシャを西側陣営の最前線と位置付け、莫大な軍事・経済援助を行い、この結果、政府軍9万8000人から14万7000人にまで増大しました。一方、民主軍を援護していたユーゴスラヴィアは、1948年6月にコミンフォルムを脱退したため、ソ連に忠誠を誓うギリシャ共産党への支援を取りやめてしまいました。

冷戦期のヨーロッパ
冷戦後、バルカン諸国では社会主義政権が樹立したが、ソ連と対立したユーゴスラヴィアは独自路線を歩むことになる。一方、ギリシャはバルカンにおける西側陣営の「飛び地」と位置付けられた。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6385726

民主軍と政府軍との戦力差はもはや圧倒的でした。1949年8月のグラモス山での戦いが決定的となり、民主軍は敗走し、8万人から10万人の左翼・共産主義者のギリシャ人東側諸国へと亡命していきました。同年10月、共産党指導部は武力闘争の中断を宣言する一方、民主軍は今後も存続し続けると主張しましたが、米国内戦が終結したと判断し、ギリシャ政府軍の勝利を称えました。

ギリシャ民主軍の兵士
広範な層から支持を受けたEAMと異なり、民主軍は兵士を強制的に徴募していたため、全体的に士気は低かった。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=53411954

6.まとめ

1946年から49年にかけての内戦では、15万8000人の犠牲者が出ました。これは戦時中(1940年から44年)の犠牲者数55万人の3分の1以上に相当します。それだけ内戦の影響は、人的・物的被害だけではありません。同じギリシャ人同士が、対敵協力者と抵抗組織、政府軍と民主軍と分かれて殺し合い、お互いを憎しみ合うという状況は、戦後のギリシャにおいても、彼らの内面に深い傷として残り続けることになります。

共産主義国における粛清や弾圧についてはよく話を耳にするかと思いますが、その共産主義を封じ込めようと、西側においてもこうした苛烈な弾圧が行われていたのです。イデオロギーに関わらず、いかに大国が身勝手に、都合よく世界を動かしてきたのかがわかるかと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

主な参考

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