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【日露関係史15】米中ソ三極時代の日ソ関係

こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第15回目です。

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1960年代以降、冷戦は新たな局面を迎え、それまでの米ソの対立という二極構造に中国が加わり、米中ソという三極構造が形成されます。同じ社会主義国でありながら、中ソは対立を深める一方、1972年のニクソン訪中をきっかけに、中国と米国は急速に接近していきます。そして、この三国の関係を背景として、日ソ関係も規定されていくことになります。今回は、米中ソの三角関係の中で展開された、1960~70年代の日ソ関係について見ていきたいと思います。


1.日米安保改定とソ連の硬化

1957年6月、ソ連のフルシチョフ第一書記は、朝日新聞との単独会見を敢行し、日本政府に歯舞・色丹の二島返還による日ソ平和条約締結を呼びかけました。フルシチョフはこの案をかなり真剣に考えており、前年の日ソ共同宣言調印以降、歯舞・色丹の全島から一般島民はほぼ引き揚げていました。しかし、日本側は、北方領土問題解決は四島返還でなければ話にならないとし、二島返還案を拒否しました。

北方四島
日ソ共同宣言では、日ソ平和条約締結とともに歯舞・色丹を引き渡すという「二島返還」が明記されていたが、日本は国後・色丹の返還も求めていたため、両者の解釈違いが生じていた。
CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=83117166

フルシチョフの呼びかけは、その先月に岸信介首相とアイゼンハワー米大統領と会談し、日米安全保障条約の改定について合意したことと無関係ではないでしょう。ソ連は日米安保改定を厳しく非難し、岸政権打倒を目指して社会党・共産党などの左派政党に統一戦線を結成するよう勧告しました。ソ連及び中国による対日キャンペーンは、安保改定阻止はできなかったものの、安保闘争の激化を招き、結果的に岸政権を打倒することに成功したと言えます。

国会前に集結したデモ隊
新日米安保調印後、岸首相は批准を急いで強行採決に踏み切ったが、世論は議会制民主主義の精神に反すると激しく非難し、戦後最大の政治危機が生じた。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18271370

1960年1月に新日米安保条約が調印されると、グロムイコ外相は、門脇駐ソ大使に覚書を手交し、新安保はソ連・中国に向けられたものであると断定しました。さらに、フルシチョフは日ソ共同宣言の中で、平和条約が締結された後に歯舞・色丹を引き渡すことに同意した条項に対し、日本から全外国軍が撤退しなければ領土を引き渡さない、という新たな条件を付けくわえることを一方的に宣言しました。日本の外務省は、条約の一方的な変更は「全く国際的信義に反するもの」であり、日米の離間を狙う行為は「我が国に対する内政干渉」であると、激しく抗議しました。

2.政経分離の日ソ関係

安保条約をめぐる政治的対立の一方で、日ソの経済的関係は順調に発展していきました。第六次五ヵ年計画に着手していたフルシチョフは、シベリア開発に力を入れるために、日本との安定的かつ長期的な通商関係の樹立を目指しました。1957年12月には日ソ通商条約および日ソ貿易支払協定を調印し、1958年には大阪で開催された国際見本市に参加するなど、日ソの経済関係発展に意欲を示しました。

処女地開拓に栄光あれ!(1962年)
フルシチョフは食糧事情改善の切り札として、カザフスタンや西シベリアなどの未開墾地・耕作放棄地を大規模に開拓するという提案を行い、実行に移していた。
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日ソ貿易は急激に伸長していき、両国の貿易総額57年には2200万ドル58年には4025万ドル59年には6252万ドルとなりました。1960年には、ソ連が反新安保キャンペーンを展開していたにも関わらず、日ソ貿易支払協定は問題なく更新され、有効期限も1年から3年に延長されることになりました。1960年代を通して日ソ貿易はさらに大きく伸長し、1970年の貿易総額は輸出入合わせて8億2000万ドル、ソ連にとって日本は西側諸国の中で第1位の貿易相手国となりました。

ソ連の日本への接近の背景には、中ソ対立がありました。1956年のスターリン批判を境に、平和共存を掲げるソ連と強硬な反米姿勢を崩さない中国とは足並みが揃わなくなり、その同盟関係には亀裂が入り始めていたのです。1958年の長崎国旗事件※をきっかけに、中国政府日本との経済的・文化的交流を一方的に中断していましたが、このような硬直的な態度をとる中国とは一線を画す柔軟な姿勢を示すことで、中国に傾きやすい日本をできる限りソ連へと惹きつけておこうとのです。

フルシチョフと毛沢東
両国は表面的には友好を装いながらも、背後では対立を深めていた。
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※長崎で開かれた中国見本市において、日本人青年が中国国旗を引きずり下ろした事件

3.ニクソン・ショックと対日接近

1969年3月、中ソ東部国境地帯にある珍宝島(ダマンスキー島)で、中ソの国境警備隊が武力衝突し、百名以上の死傷者を出す事態となりました。「珍宝島事件」によって中ソ対立がピークに達する中、1971年7月、リチャード・ニクソン米大統領がそれまで国家承認をしていなかった中国への訪問を発表します。これは同盟国を含め、諸外国への事前通告なしに突如として行われたため、世界を激震させ、ソ連政府にも強い衝撃を与えました。

リチャード・ニクソン(1913‐1994)
第37代米大統領。ニクソンの訪中発表と、その1か月後に行われたドルと金との兌換一時停止の発表という2つの出来事は、戦後世界の政治・経済体制の大きく揺るがしたことから、「ニクソン・ショック」と呼ばれる。
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ソ連が最も恐れたのは、米中、さらに日中の関係が改善し、三国が東アジアにおける反ソ協商を形成することでした。そこで、ニクソンが中国を訪問する直前の1972年1月、ソ連政府はニクソン・ショック後の日本の姿勢を見定めるとともに、日中接近をけん制するために、グロムイコ外相を急きょ日本へと派遣します。佐藤栄作首相と会談したグロムイコは、日ソ平和条約交渉の開始を持ちかけ、その条件として歯舞・色丹の二島返還を提案しますが、この提案には賛同を得られませんでした。

訪中したニクソンは、その最終日に周恩来外相と共に「上海コミュニケ」に署名します。その中には、「いかなる国家あるいは国家集団もアジア太平洋地域において覇権を求める試みに反対する」という「反覇権条項」が明記されており、ソ連はその矛先は自国に向けられていると解釈し、強く反発しました。レオニート・ブレジネフ書記長はこれに対抗してアジア集団安全保障構想を打ち出し、ソ連を盟主とする対中包囲網の形成を画策しました。

ブレジネフとニクソン
ブレジネフは中国をけん制する一方で米国に急接近し、戦略核兵器削減交渉を行い、デタント(緊張緩和)を推進した。
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4.田中角栄の訪ソ

1972年9月、ニクソンの続いて田中角栄首相が訪中し、日中国交正常化を実現します。ソ連は、この時に出された日中共同声明にも「反覇権条項」が盛り込まれていたことに過敏に反応し、日中の接近を阻止するとともに、対日接近をより積極化させることを決定します。「日中の次は日ソ」と意欲を燃やしていた田中はソ連の呼びかけに応じ、1973年10月に、鳩山一郎の訪ソから17年ぶりとなるモスクワで日ソ首脳会談が開催されます。

田中角栄(1918‐1993)
昭和後期を代表する政治家。1972‐74年にかけて内閣総理大臣を務め、「日本列島改造論」という政策綱領の下、積極財政政策を実施する。退陣後はロッキード事件の発覚により逮捕されるも、その後も「闇将軍」として政界に影響力を持ち続けた。
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田中の最大の関心は北方領土問題であり、ブレジネフの怒りを買うほど執拗に追及を続けます。田中は共同声明の中の「第二次大戦のときからの未解決の諸問題」という文言に対し、この中に北方領土問題が含まれることをブレジネフに確認し、「ダー(露語:然り)」という回答を引き出し、調印に応じました。しかし、後にソ連側は「未解決の諸問題」の中に領土問題は含まれていないという解釈を公的に打ち出したため、北方領土問題に関しては何ら進展がなかったといえます。

一方、ブレジネフの最大の関心は、シベリア開発における日本の経済協力であり、これに関しては両者は合意に達することができました。両国間では大型プロジェクトの契約が次々に成立していき、日本輸出入銀行(現JBIC)はヤクーツクなどの資源開発プロジェクトに10億ドルのローンを供与し、1975年には、東京ガスなどを中心として、樺太の大陸棚開発を行うサハリン石油開発協力株式会社が設立されました。これに伴い日ソ貿易も大きく伸長し、日本の対ソ輸出は70年から78年にかけて約8倍に増加しました。

5.日中平和友好条約をめぐる対立

1975年、平和友好条約に向けた日中予備交渉が行われると、中国側は「反覇権条項」を入れるべきであると主張しますが、ソ連はこれに反発します。1977年、ソ連は日中平和友好条約に意欲を見せる福田赳夫首相に対するけん制として、ソ日善隣協力条約の草案を突如一方的に発表します。しかし、その内容は「善隣条約」とは名ばかりに、日米安保を骨抜きにして、日本の「フィンランド化」を求めるものでした。

ケッコーネン・フィンランド首相とフルシチョフ
戦後のフィンランドは、自由主義経済と民主主義政体を維持しながら、外交的にはソ連に忠実な態度を取り続けた。こうした姿勢を「フィンランド化」という。
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北方領土問題をめぐっても、ソ連は強気の姿勢に出ました。1976年、ソ連外務省は、日本人の北方四島への渡航に対してビザを求めるようになり、それまで行われていたビザなし墓参りを中止に追い込みました。さらに、200海里漁業水域を設定して日本漁船を締め出すとともに、78年には択捉島周辺海域において、大規模な軍事演習を実施、79年までに択捉・国後・色丹にソ連軍を再配備しました。

デルタ型原子力潜水艦
1970年代以降、オホーツク海には米国を射程に収める潜水艦発射大陸間弾道ミサイルを搭載した原子力潜水艦が多数配備されるようになり、千島列島はそれを守る「聖域」として軍事的価値が上昇していた。
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こうしたソ連の高圧的な態度に対し、日本政府は「反覇権条項」に対するソ連の反発を回避するため、日中平和友好条約に「第三国条項」を明記することを中国に要望します。これは「この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」という条項であり、「反覇権条項」を無力化するものでした。1978年、「反覇権条項」ととも「第三国条項」が記される形で、日中平和友好条約が調印されます。ソ連による条約阻止の試みは失敗に終わりましたが、「第三国条項」が盛り込まれたことで許容範囲に落ち着いたのか、これ以上ソ連が介入してくることはありませんでした。

6.まとめ

対立する中国と米国が接近する中、ソ連は日米・日中の接近をけん制しつつ、経済的には日本との関係を強化し、利益を上げるという実利外交を展開しました。こうした政治的には緊張をはらみつつも、経済的関係は発展させていくという政経分離の姿勢が、フルシチョフ・ブレジネフ期の対日政策の特徴といえます。

ソ連の対日牽制は、安保闘争の激化や「反覇権条項」の無力化など一定の成果を上げることができた、といえるかもしれません。しかし、ソ連の強硬な姿勢が日本の対ソ感情を著しく悪化させることになったのは間違いなく、その代償として、1970年代末以降、日ソ関係は急激に冷却化していくことになります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

日露関係通史については、こちら

北方領土問題については、こちら

千島列島をめぐる日露の歴史については、こちら

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