寂しがり屋だったあの頃のわたしに

わたしは現在、一人でいることが多く、一人でいることにも居心地の良さを感じている。

ただ、先生に言われたあの頃の一言が今でも引っかかってしまう。


わたしが講義後の先生に質問というか、相談をした時。


わたし「過去にわたしが人を傷つけたことを忘れられないんです。人を傷つけたわたしなんかって、ずっとそればっかり考えてしまって。」
👩‍🏫「nkmさん、あなたはよく一人でいることを好きと言ってるよね。
もしかしたら、本当は人を傷つけることが怖くてあまり人と関わりを持てないとかもあるかも?」

先生とわたしのコミュニケーション


確かにそうかもしれない。


小学生の頃から、わたしは人と上手く溶け込めないことに悩んでいた。人と同じようにしているはず、優しくするように努めているはずなのに、「なんか違う」という違和感。

なぜうまくできないのかわたしにはわからず、ただグループでボール遊びやジャングルジムで遊んでいる同級生たちを見て、わたしは一人で教室で絵を描いていた。そんなような小学生だった。


今ではもう立派な黒歴史だけど、昼休み校庭のど真ん中で体育座りをして、あの雲は何の形に見えるかとか、朝礼台の上に昇ってドラマで覚えたセリフを叫んでみたり、踊ってみたりとか(全く覚えてなかったのにそのことを先輩に指摘された)。


今思えば、こんなわたしの奇行は、誰かに注目して欲しかったからゆえなのかもしれない。


結局、わたしはずっと「憧れのあの子」「憧れのあのグループの中の子」にはなれなかった。

時折、面白いことを言ってみたり、どうすれば皆と仲良くなれるか本を借りて勉強して、「班の中で面白い子」になることはできた。
もう、その時はとても嬉しくて嬉しくて。その時あった出来事、お気に入りの言葉を自由帳に書き留めていた(必死すぎる)
でも、そんなことは長くは続かなかった。わたしには、注目され続けることは向いていなかった。

あの頃のわたしに、「学校での立ち位置が目まぐるしく変わることなんて、当たり前なんだよ」と教えてあげたい。



でも、どうしてもそこにあった幸せ、キラキラした思い出を手放したくなかった。


しかし人間は、好かれる時も嫌われる時もやってきて当然なのである。それが怖くて、わたしは自然と人と距離を取るようにした。

人から受ける影響が怖い、あの頃、皆と同じようになれないと感じた劣等感や、
人と親しくなった時、手放すことが惜しいと感じてしまうという感情。人と上手く溶け込めないことが怖い、嫌われたらどうしようという不安。


仲良くなっても怖い、仲良くならなくても、いっそのこと嫌われても不安。
こんな気持ちじゃ、一人になりたくなるのも当然だよねって思う。


そんな繊細な気持ちを押し込んで、「一人でも楽しいよ、大丈夫」と言っていたわたしを抱きしめたい。
一人で寂しくてつらかったよね、本当は仲良くなりたいんだね、どうすればいいのかわからないよねって。

なんで今まで気づかなかったんだろう。寂しいという気持ちはずっと心の中にいて、つらくて悲しいと叫んでいたはずなのに。叫び疲れて、ここまで気づいてくれるのを待っていたのかな。


今のわたしなら、あの頃のわたしに優しく微笑みかけられる。
誰とも上手く関係を持てなくてつらくて、結果一人で塞ぎ込んだ。
今も、特に誰とも関わりを持ちたいとか考えていない。いわゆる心を閉ざしている状態なのかもしれない。


きっと、幼少期のわたしと同じように今感じている人、
こんな気持ち、押し込んでしまって忘れてしまったという人、たくさんいると思う。


人と上手くやれなくても大丈夫なんてまだ思えない。人と違っても大丈夫なんて思えない。
人と関わることは怖いけど、関わらなくては生きていけない。わたしと同じように、そんな虚しさを感じている人がいるはず。
つらいよね、不安だよね、気持ちを奥に追いやって頑張ってるんだねと手を取りたい。




余談で、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」の冒頭に、こんな言葉があった。
これを見た時に目を奪われて、これからも心の片隅に置いておきたいなと思った言葉なので、紹介したいと思う。


「私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。」

「デミアン」ヘルマン・ヘッセ 著 高橋健二 訳 (新潮文庫)

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