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「選択」について

こんにちは。
「追懐の筆」を読んでからしみじみと思う事があります。この本は先日の「冥途」で書いた、内田百閒の随筆です。こちらの本はひたすらに親しい方が亡くなられ、その人との思い出を追憶した書籍になります。それが連続して書かれているのですから、なんともぐさりとくる気がします。書いているときはどんな心境だったのか。難しいところです。本当にあったことの話なのに、どこかぼんやりした心地のものが多いなというのが印象的でした。追懐、昔にあったことを思い出すためなのかもしれません。
他にも「われはうたえどもやぶれかぶれ」、「硝子戸のうちそと」、少し違いますが「老年について」などの記録を読んでは考えされられました。

あまり、多くは分らないのですが、皆さんは自ら命を絶った文豪をどのくらいご存じでしょうか。検索をかけてみましたところ、人数としてはさほど多い訳ではないようでした。当時の物書きというのはそれほど稼ぎにならない、変わった人がやるものという認識が大きかったそうです。なので、正直に申し上げると自ら命を絶った文豪のが多い気がしていました。けれど実際は大半は癌や肺炎などの大病患って、息を引き取ったのが多かったようです。当時では一度かかったら治らないものでした。西洋が入ってきても医学が思うようにまでは発達していませんでした。その情勢を抜きにしても、芥川龍之介が薬の多様による自死は多くの人に驚愕を与えたようです。「そんなことをするような人には見えなかったのに。」という具合でしょうか。ただ、そうするかもしれないと見抜いている人は見抜いていた気もします。

内田百閒が「追懐の筆」で残したほかにも、もう一人、芥川の死について記録した人物がいました。萩原朔太郎です。彼は芥川龍之介の出会いからその死を聞くまでを短いエッセイにしています。これを見て、門弟や友人というのからは少し違う視点が見られました。内田百閒は同じ師である夏目漱石の弟子という立ち位置にあります。しかし、萩原朔太郎の書いたこちらでは芥川の「なりたいもの」がかなりダイレクトに表現されていた気がします。それになれないのを知って、受け入れられなかった、それがこういう結果になったのではないかとさえ思います。
萩原朔太郎は芥川「詩人にはなれない、典型的な小説家」ばっさり伝えました。けれども、それに納得しないのでもう一回言ってくれと頼み、言ってはその度ひどく沈んだようです。当時の「睡眠」薬を使ったのは眠れないのから逃れるためというより、詩人になった自分に会うための、もしくはなるための手段だったのかなと推測します。詩の申し子とも言われた萩原に芥川は詩人でありたいんだといって、ド直球に詩を書いても小説だと言われるのはかなりダメージが大きかったのかもしれません。無理とは言っていませんが、文の性質はどうしても小説だったのでしょう。芥川が書いた短歌はちらほらあります。けれども形がそうでも、その中は小説と視たのが萩原の見方のようでした。

萩原朔太郎は藝術に対しての目は流石と思います。晩年の作品「河童」「西方の人」「齒車」から破綻が見えるとまで言い切っています。本質を見抜く目には凄まじいものです。

自身の死について記録を残した「われはうたえどもやぶれかぶれ」というのもがあります。これは、室生犀星が記した自身の癌との闘病記です。私が所持している随筆の一つです。蜜のあわれと一緒に収集された一冊に入っていました。本人の一挙一動がありあり描かれて、とにかく苦痛ともどかしさにこちらまで動けなくなる心地でした。書く気力があったのが不思議にさえ思えます。それでも筆が取れなくなる時まではなすべきと決めたことを全うするのはどれほどの覚悟だったか。絶筆は「老いたるえびのうた」です。完成されることのないまま終わっています。こちらは癌の自分と横たわるエビを重ねています。全身から死に対する心が表されています。悲しさが伝ってきました。

多くの言葉を残してきた方々の尽力にただただ胸を打たれます。最期まで身に起こったことは受け入れ現実の「生きる」を貫いたことに敬服します。その選択が眩しいです。
当時の嗜好品の数々が病を進行させる、煙草やお酒だったことは少々いただけませんが。


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