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一眼レフを手にして街歩きする喜び。自分で切り取る一瞬一瞬に思いを馳せて。

10年来の付き合いのCanonと久しぶりのデート

親知らずを抜いて2日後。痛みは施術後減少する一方、腫れのピークはやや遅れてやってくるらしい。こんなにぷっくり膨れた顔で誰にも会いたくない、かといってずっと家にいるのはうずうずする。
どういうわけか、ドイツに持ってきたけどほぼ使用していなかったCanonのデジタル一眼を持って、10年ぶりにニュルンベルクまで行こうと思った。電車で2時間ほどだし、今はクリスマスマーケットもやっている。
このデジイチは14歳の誕生日に父からプレゼントとしてもらった。しかし旅行を頻繁する私にとってデジイチは重くかさばると思い、いつの間にかスマホで全ての写真を撮るようになった。
新しいスマホを買う資金にしようとデジイチを下取りに出そうとしたけど、見積価格が低かったので、それならカメラを十分に活用しようと思ったのだ。スマホのケースや液晶フィルム、カメラのストラップを新調すると、どちらも新しく見えてテンションが上がる。


ふつふつ湧き上がるセロトニン。オフラインの豊かな時間

ニュルンベルクは13歳の頃、初めてドイツに訪れた時にも行った街だ。当時は7月だったけど、曇りの天気がその時と同じだった。
新品の黒のストラップに手首を通し、ファインダーを覗きながらシャッターを押す。ピントが瞬時に的を得て合う感覚、シャッターを斬るという感覚、そして撮れた写真のクオリティの高さに感動した。
この日、私はスマホからdisconnectされていた。いつもはAirpodつけてお気に入りの音楽を聴きながら街歩きするのに、どういうわけか街の音を聴きたかった。時々メッセージの着信をチェックしたくなるし、その必要はあるのだけれど、自分の中を流れる時間がゆっくりだった。

ニュルンベルクの旧市街

高校留学後、受験勉強に忙しくなり、私は一切の趣味をたった。そんな生活が2年ほど続き、大学が始まってから、自分の「好き」「やりたい」がわからなくなっていた。写真を撮っても以前ほどの喜びを見出せなかった。
「もうデジイチを手にすることはないだろう」そう思っていた。でもなぜか、私はデジイチという趣味を取り戻した。Canonが心から愛おしくなった。

10年前の自分との再会。留学前のシャイだけど自分の世界が深い少女。

いつもよりも自分の内側に関心が向いていた。14歳のドイツへの訪問が、高校時代のドイツ留学、そして今のドイツ留学につながる転機となったのだ。10年以上前この石畳を歩いていた時(それかそのしばらく後)、私はここに移住すると思っていた。そして今がある。周囲とコミュニケーションを取るのが苦手で、でも芸術が好きだった私。ドイツに来るという情熱は熱かった。今はいろんな国に関心があるから、「ドイツは数ある世界の多様性ある国の一つ」と思えるけど、ドイツは私にとって世界の多様性への切符を与えてくれた国なのだ。

本物を贈ってくれた父に感謝。自分を反省。

こうやってデジイチを通してすごく豊かな時間を過ごせたこと、自分の深層に触れることができたのも、父がカメラを贈ってくれたおかげだ。先見の眼のあるチョイスに父のセンスを感じる。
父と毎日連絡をとっていたのだけど、ここ最近すれ違いがあり、私は一方的に連絡をとっていない。金銭的な価値観の違いからくるものなのだけれど、父が14歳の娘のためにとても高価なカメラを贈ってくれたことを思うと、なんで私は父の価値観を否定するようなことを言ってしまったんだろうと思う。

最後の通話がちょっと口論ぽくなった後、noteでふと「価値観」や「尊重」について深掘りしているパンダのポッさんの記事を見つけ、芋づる式に読み耽った。なんだか私のことを言われているように感じた。


私は無意識にも父の価値観を否定していたんだ。相手の価値観も尊重し、自分の価値観も尊重できる人になりたい。そのためには自分の価値観をよく知り言語化し、常にアップデートしたい。アップデートのためには父以外の、この地での新しい出会いを大切にしようと思った。
そろそろ父と仲直りしていい頃なのかもしれないけど、自分の価値観の成長のために、今は少し内省し、成長した姿で再会したい。
こんなに思考がトロトロとろけているのは、冬の天候のせいか、親知らずのせいか。そんなこんなで今日もCanonを片手にドイツのクリスマスマーケットでflaneurになるかもしれない。


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