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102「武器よさらば」ヘミングウェイ

238グラム。ハードボイルドっていうのは突っ込みどころのない主人公がニヒルに活躍することかと思っていたが、どうやら誤解だったようなので安心した。

 猫の肝臓の検査のために動物病院へ行ってきた。
 出掛けに繰り広げた大捕り物劇のおかげで待合室で読むための本を選んでくるのを忘れている。鞄の中にはいっていた『武器よさらば』を広げた。
  すぐ鼻先に、白いチワワだろうか、飼い主の肩に抱かれてぼんやりこちらを見ている小型犬がいる。老齢なのか、深く瞑想に入った仏像の目つきをして、思慮深げな視線をいつまでも投げてくる。
 あ、この本?戦争では何も生まれない、っていう小説なんだけど、こんなところで読む内容でもないよね、えへへ。あまり見つめられるので恥ずかしくなって、本を見たり、黒目を見つめ返したり、開いたり閉じたりする。

 『武器よさらば』は、なんとなくの先入観と実際読んだ時の感じがだいぶ違う。

 第一部、第一次大戦のイタリア軍赤十字要員で従軍している「私」が負傷する。この負傷により「きっとなにか英雄的なことをしてたんだろう」という理由でうやむやな勲章をうける。塹壕で戦争の文句をいいながらマカロニチーズを食べていただけだ。
 第二部。ミラノの病院に送られる。美人看護婦のキャサリンと放蕩の日々。病室で毎日いちゃいちゃするので婦長ににらまれる。酒の飲み過ぎで黄疸になる。挙句キャサリンを妊娠させて前線に戻る。歯の浮くようなばかばかしい会話といい、無計画な行動といい、本を壁に向かってなげつけたくなる部分。
  第三部、前線にもどって最初の命令が総退却。指揮に失敗し部下たちとともに取り残される。敵味方入り乱れる混乱の中で憲兵に殺されかけ、川に飛び込んで一人で脱走。
  第四部、キャサリンと落ち合って中立国スイスへ逃亡。親子三人の新生活の準備を整えつつ再び歯が浮く日々。
 第五部、キャサリン出産に際して死亡。まさかの、母子とも助からない。こういう場合はどちらか片方は助かるものではないか。しばし呆然とする。

第一部一章は陰鬱な戦場の様子を描写するごく短い章である。こんなくだりがある。

そんな秋のために地方全体がぬれしょぼけ、茶褐色で、さびれきった。川には霧がかかり、山々には雲がたれこめた。道路ではトラックが泥をはね返し、肩かけマントをつけたまま、部隊は泥まみれにぬれしょぼけだった。ライフル銃もぬれた。肩がけマントの下には、帯革の前に、弾丸入れが二つ、灰色の箱で、細くて長い六・五ミリの実包の装弾子が幾組か入る。ずっしり重く、マントの下でふくれ、道路を通りすぎると、まるで兵隊たちは妊娠六か月といったかっこうで行軍した。

冒頭から、妊娠のモチーフがあるのだ。兵隊が弾薬を腹に入れて膨れているだけの、何も生まれない妊娠である。それが列になって陰鬱な風景の中を歩いている。

 さらに、主人公フレデリックの戦場での負傷のシーン。隣にいた部下のパッシーニは死亡する。最期に祈りを口にするのがフレデリックの耳に届く。「お助け下さい、マリア様。お助けください、マリア様。ああ、神様、撃ち殺してください。」
  第五章の物語の最後、フレデリックが病院で妻が死につつあるのを見守りながら我知らず神に語りかけるセリフは、パッシーニの祈りに似ている。

 武器をおいて戦場を去りさえすれば、理不尽な死から逃れて、日常の世界へ戻れるとばかり思っていたのに、身についた死の気配が付きまとって離れることがない。
 本を壁に投げつけてしまいそうなほど馬鹿みたいな愛の生活に狂乱してみたところで、すぐに罠にかけられたように追いつかれてしまう。
 そこを生きていたのは、別にニヒルでかっこいいハードボイルドなヒーローではなくって、年相応に計画を立てるのが苦手で、思い込みが強い、普通程度に愚かな若者だ。死にとりつかれてしまった。

 途中まで読んだところで獣医に呼ばれて、猫を見せにいく。しばらく抗生物質を飲ませてみる相談を終えて待合室に戻ったら、平和の瞳をした白いチワワはもういなくなっていた。あのまま抱かれて帰って、幸運な生の時を過ごすんだろう。薬をもらって、ヘミングウェイは仕舞って、我々もそろそろおうちへ帰ろうか。


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