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わかりあえないことから ─ コミュニケーション能力とは何か (平田 オリザ)

(注:本稿は、2022年に初投稿したものの再録です。)

 講談社のpodcastで紹介されていたので手に取ってみました。

 著者の平田オリザさんは日本の劇作家、演出家です。

 本書でのコミュニケーションに関する議論の出発点として、平田さんは、最初に「企業が求めるコミュニケーション能力はダブルバインド(二重拘束)状態にある」と規定します。「ダブルバインド」とは、“二つの矛盾したコマンドが強制されている状態” をいいます。

(p16より引用) 現在、表向き、企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は、「グローバル・コミュニケーション・スキル」=「異文化理解能力」である。・・・
 「異文化理解能力」とは、おおよそ以下のようなイメージだろう。
 異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見いだすことができる。そして、そのような能力を以て、グローバルな経済環境でも、存分に力を発揮できる。

(p17より引用) 日本企業の中で求められているもう一つの能力とは、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力だ。

 この後者の指摘には大きな違和感を感じますね。
 以前私も企業の採用活動で学生さんの最終面接に携わった経験があるのですが、確かに「コミュニケーション能力」は採用判断にあたっての重要なファクタでした。
 しかしながら、そこでは、本書で著者の平田オリザさんが指摘しているような「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見はいわない」といった従来型のコミュニケーション能力?は全く求めていませんでしたが・・・。

 ただ、現実の会社内の様々な場においては、重視するかどうかはともかく、いわゆる「空気を読む」とかちょっと前の流行りでいえば「忖度する」とかの行動スタイルが、時折顔を出すことはありましたね。
 そういうスタイルの現出は、まさに忖度する側の意図を反映したものであると同時に、そういった態度を望ましいものとして求める「その場のリーダーの考え方(姿勢・価値基準)」に拠るように思います。

 さて、話を戻して、この「異文化理解能力」と「日本型同調圧力」のダブルバインド状態は、企業に止まらず、家庭、ひいては日本社会全体に存在し、そのために「日本社会全体が内向きな引きこもり状態にある」と平田さんは指摘しています。

 そして、この “ダブルバインド状態” を解きほぐしていく方策のひとつが「演じる」「演じ分ける」という能力を身に付けることだと説いているのです。

(p221より引用) 日本では、「演じる」という言葉には常にマイナスのイメージがつきまとう。演じることは、自分を偽ることであり、相手を騙すことのように思われている。・・・
 人びとは、父親・母親という役割や、夫・妻という役割を無理して演じているのだろうか。多くの市民は、それもまた自分の人生の一部分として受け入れ、楽しさと苦しさを同居させながら人生を生きている。いや、そのような市民を作ることこそが、教育の目的だろう。演じることが悪いのではない。「演じさせられる」と感じてしまったときに、問題が起こる。ならばまず、主体的に「演じる」子どもたちを作ろう。

 “主体性” がキーファクターという主張ですね。

 さて、その他、本書を読んで私の関心を惹いたところをいくつか覚えとして書き留めておきましょう。

 ひとつめは「会話・対話・対論」の違いについての平田さん流定義。

(p95より引用) 「会話」=価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。
「対話」=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。

(p102より引用) 「対論」=ディベートは、AとBという二つの論理が戦って、Aが勝てばBはAに従わなければならない。Bは意見を変えねばならないが、勝ったAの方は変わらない。
「対話」は、AとBという異なる二つの論理が摺りあわさり、Cという新しい概念を生み出す。AもBも変わる。まずはじめに、いずれにしても、両者ともに変わるのだということを前提にして話を始める。
 だが、こういった議論の形にも日本人は少し苦手だ。・・・
 「対話的な精神」とは、異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のことである。あるいは、できることなら、異なる価値観を持った人と出会って議論を重ねたことで、自分の考えが変わっていくことに喜びさえも見いだす態度だと言ってもいい。

 この “弁証法的” な対話的精神が相互理解や融和によるシナジー(グローバル・コミュニケーション)を築く礎となるのだと思います。
(再録時の注:この「対話的な精神」と同根の主張は、最近読んだ東浩紀さんの著作「訂正する力」にもみられます)

 そして、もうひとつ、平田さんの「学ぶ学生たちへの想い」を語ったくだり。

(p183より引用) しかし、私は、これからの時代に必要なもう一つのリーダーシップは、こういった弱者のコンテクストを理解する能力だろうと考えている。
 社会的弱者は、何らかの理由で、理路整然と気持ちを伝えることができないケースが多い。いや、理路整然と伝えられる立場にあるなら、その人は、たいていの場合、もはや社会的弱者ではない。
 社会的弱者と言語的弱者は、ほぼ等しい。私は、自分が担当する学生たちには、論理的に喋る能力を身につけるよりも、論理的に喋れない立場の人びとの気持ちをくみ取れる人間になってもらいたいと願っている。

 この発想には、私も全く思い至りませんでした。なるほど、そうですね。

 本書には、こういった今まで気づいていなかった “コミュニケーションの実像” がいくつも紹介されています。なかなかに刺激的な内容でしたよ。

 


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