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タイトル説明 何故「座標軸」というタイトルをつけたか。(10)座標面と創作

 私はnoteにおける自分の詩のマガジンのタイトルに『視点』とつけた。その意味は、詩こそは、その作者の「視線」の鋭さ、純粋さで、ナイフのごとく対象を切り裂き、その本質を白日の下に曝け出すようなものではないかと思うからである。そういう意味では作者の「視野」は狭いと思う。しかし独特の「視座」から発せられた「視線」は「視野」の狭さなど問題にせず、闇さえも引き裂き、対象に突き刺さる。(そのポイントを「視点」と呼ぶ。)まさに研ぎ澄まされた感性の「視線」なのである。生まれ持っての才能によるものが大きいのではないかと思う。あとは生活環境、境遇などの特異な体験が(私の用語を使わせてもらうと、「摩擦」の大きな生活を送ってきたという体験)が感性を研ぎ澄ますということもあるかもしれない。私の書いた詩がそうだと言うのではない。はっきり言って私は詩が苦手である。そういう詩を書きたいものだという話をしているだけである。
 それに対してエッセイ、あるいは、私小説というものは、「視座」が大事である。詩よりも客観性が要求されるが、あくまでも一人称の世界である。ともすれば平凡な身辺雑記に陥り勝ちだが、そうでない物を書こうと思ったら、人とは違った「視座」を持たねばならない。そのためには思想を鍛えるしかないと思う。その人独特の世界観を持てるようになれば、読者はその人の世界観を通して見た世界がどんなものかを見たくて、作品を読むだろう。志賀直哉や太宰治の作品なんかはその典型ではないだろうか。
 noteの私の短編集には「視野」というタイトルをつけた。3つの中で最も「視野」の広さが重要となるだろうという考えからである。長編になればなるほど「視野」の広さが必要とされる。「視野」が広いということは、それだけ多くの人物がその「視野」に含まれるということだ。人数が少なければ単一の「視座」でもいいだろうが、もっと多くの人物を丁寧に描き分けようと思ったら、複数の「視座」を用意しなければならない。複数の「視座」を使いこなして、複数の人物を描き分けることによって、ひとつの「視野」を描くのが小説というものではないだろうか。その「視野」が家族、あるいは会社などの組織ということもあろうが、もっと広く「時代」ということもあろう。「視野」を広めるためには、見聞を広めなくてはならない。しかし、それを単なる上っ面だけの知識に終わらせないためには、やはり自分の思想を鍛え、研ぎ澄ました世界観でそれらの見聞を刺し貫き、自分自身の「視野」の一部として、しっかりと固定させねばならない。
 といった感じで、座標面に「視野」「視座」「視点」という概念を導入することによって、座標面に血が通った感じになったかと思う。今、自分はどんな「視座」に立って、どんな「視線」で、何を見つめているのか、それはどんな「視野」の一部なんだろうか、「視座」をかえたらどう見方が変わるんだろうか、「視点」はこれでいいんだろうか、などということを常に考えることは、文学作品を創作する上で必ず役に立つと思う。



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