見出し画像

307.そう、そうなんだ、そんな友だちなんていらないんだよ!

1.   ソーシャルディスタンス


567の拡大とともに「ソーシャルディスタンス(Social distance)」が叫ばれるようになりましたね。

coucouさんは、もう一度、この言葉の意味を考えてみた。

※辞典で調べたら、「ソーシャルディスタンス」とは日本語では〈社会的距離〉を意味する、という。
自分だけでなく相手への感染を防ぐために、ひいては日本全体の感染拡大を防ぐために、社会的距離の確保、人的接触距離の確保として、「ソーシャルディスタンス」という考え方が提唱されたようだ。
 
でも、この「ソーシャルディスタンス」という“言葉の使い方”は果たして、正しかったのだろうか? 

ある、大学生が見つけた「人文学の抗議」に広がる共感を呼んだ。

神戸大の大学生が投稿した「フィジカルディスタンスの確保」を呼び掛ける張り紙(提供写真)ツィッターより。

「フィジカルディスタンスの確保にご協力ください」―そんな張り紙の写真とともに「『ソーシャルディスタンス』という言葉に対する人文学の抗議を感じる」などとつぶやいた大学生の投稿がツイッターで共感を呼んだ。

この大学生に言わせると、「ソーシャルディスタンス(社会的距離)」という言葉に違和感を感じたという。
物理的に距離をあけてね、って意味なのに、なんでソーシャル?
という疑問を持ったそうだ。
確かに私たちはマスコミや政治家に先導されていつの間にか当たり前となっていたことは事実だね。

この学生さんはこの疑問に対して、ならば「フィジカルディスタンス(物理的距離) 」のほうが正しいと思う、という発言をした。

「ソーシャルディスタンス」が「フィジカルディスタンス」に言い換えるようになったのは、「ソーシャルディスタンス」という言葉が他者との心理的距離を意味しており、
「人とのつながりが希薄になり、社会的孤立が生じる恐れがある」と感じたようだ。
確かに「社会的距離」よりも「物理的距離」のほうが正しいように思えますね。 

まあ、これはあくまでも567に伴うキャッチフレーズみたいな日本語英語のようだから、ここでは厳格に考えたたりしないが、
逆にこれからの時代は、本当の意味での「ソーシャルディスタンス(社会的距離)」「フィジカルディスタンス(物理的距離)」の二つが必要になるかも。

どうしてって、私たちはこの「社会的距離感」がなさすぎたからね。

つまり、「社会がこう考えているから」「社会がそのように指示するから」「社会が決めたことだから」というようにあまりにも社会に依存しすぎており、その依存が決して報われない恐れのあるものだからさ。 

令和3年1月7日に再び「緊急事態宣言」が発動され、発動されたといっても何の強制力があるわけではなく、午後8時以降営業している飲食店等の名前を公表するという脅かしをして注意喚起を促しているだけ。

でもね、昨年のヒステリックな状況と令和4年度の現在と比較するといかに不自然なのかわかると思う。

法的根拠もなく、まるで魔女狩りのように夜の街のせいにして、名前の公表自体を行政が勝手にすること自体、行政側の勝手な「社会的距離」の押しつけであり、国民の生きる権利や人権を無視していると思わざる得なかったはずだよね。

 これは私たちが「社会的距離間」がなさすぎるため、
充分な距離間を保てなかった結果なのかもね。

だから、いまこそ社会的距離間を持つべきときがきたのかもしれないんだだよ。 (簡単に言えば、先導されない、違法行為でない限る言うことを聞く必要がない、生きる権利や自らの人権を守らねばならない、という意味) 

©NPО japan copyright association Hiroaki


2.   そう、そんな、友だちなんていらない!


 「人間関係において友達が多い人は距離を置き、少ない人は、壁を作る」という言葉がある。

当然のことだが、付き合いの多い人はつき合う時間が短くなるため自然と距離が置かれてしまう。反対に、付き合いの少ない人は壁を作りやすくなってしまう。(人付き合いの少ない人が悪者のような考え方だが、それって間違いだよ!)
 
でもね、逆に、実際のところ、付き合いの少ない人ほど、「フィジカルディスタンス(物理的距離)」を置くようになっていることがわかるはず。

それが「壁(境界線)」の存在といえるかもしれない。

また、付き合いの多い人ほどつきあう時間が少なくなるが、
「壁(境界線)」が外されていることがわかる。

 
世の中には誰にでも苦手な人がいる、
coucouさんだって、随分幅広い付き合いだけれど、
苦手な人の方が大半かもね。

そう、肌が合わず、嫌いな人もいますね。

仕事関係で止む得ないが、つき合いたくない人もたくさんいる。
自分とはまったく合わない人、
何でもないが関わりたくない人、
できるならば手を切りたい人などもいるはずだね。

このように、つき合いづらい人はどこにでもいるという事実があって、
それを、誰も簡単には逃れる事ができるものではない気がする。

でも、それでも我慢して付き合っている人もいる。
生活のため、
生きて行くため、
血筋があるため、
近所のつき合いのため、
止むを得ずにつきあう、
我慢して耐える。

みな、生まれた環境、育ち、バックグランドや価値観が違うのだから、
当然のこと、といえば当然なことだけどね。

そもそも、互いが分かり合うことができていれば嫌い合ったり、
争いや戦争など起こるわけがないもの。

ならば、
自分と合わない人々、
苦手な人々、
嫌いな人々がいなければ、
自分は幸せになれるの?

それとも、幸せや不幸は互いの人間関係の中で育みものですが、嫌なもの、嫌なこと、嫌いなもの、嫌いなこと、合わない人々とのつき合いがなくなればすべてが解決して幸せになれるの?
 
その答えはNОだね。
 
問題は、その人たちとの距離間にあるといったらどう思う?

あなたはその人たちと、ちゃんと「フィジカルディスタンス(物理的距離)」をとっている?
おそらくこの「物理的距離間」が持てないために付き合う苦しみを、
辛さを倍増させてしまっているかもね。

©NPО japan copyright association Hiroaki



「物理的距離」を置くとは、
それこそ567のデスタンスのようだけど、
「一定の距離」を作ることなんだよ。

そして「壁を外す」ことさ。

ここでいう「一定の距離」とは何メートル以上近寄らない、
「壁を外す」というのは「相手を意識する」ということ。


壁をつくり逃げたり、シャットダウンしたとしても相手が強引に入り込む場合もある。だから、入り込ませないように意識することで壁を外すんだ。
 
このように「一定の距離」の場合は相手が気づかないが、
「壁を外す」場合は、自分の意志を相手に明確に伝えることが必要。

「あなたの仲間ではありません」
「あなたの仲間にはなりません」
という表情だけで「壁を外す」ことができる。

つまり、相手に合わせるのを止めることなんだ。

止めることができないためにいつまでも、いつまでもその気持ちを引き続ける、coucouさんの実体験だから間違いはない、と思う。

coucouさんはね、それができないため、苦しみ、悩み続けたのさ。
 
人は互いが近すぎる距離にいると、
互いが見えなくなったり、
自分の思う通りにならないと腹が立ったり、
恨まれる場合もある。

互いに距離があることによって、
他人行儀となるけれど、
互いが当たり前にならず、
互いが気遣い合うようになることができるようになる。

いくら好き合っていても、いつも会える関係よりも、不安定な関係の方が、お互いを大切にし合う事のできる可能性があるからね。
 
「彼は最高のパートナーです」
「私の大好きな人です」
「あなたがいなければ寂しい」
「あなたがいなければ生きて行けない」
などと、思い合ったとしてもどちらかが、互いの距離間を失うと信頼関係が崩れてしまう可能性がある。

それは、
「してくれて当たり前」
「やってくれて当たり前」
「連絡をくれて当たり前」
「私はこんなに思っているのに」
などという距離間がなくなった関係となる恐れが起こる。
 
coucouさんはね、こんな人間関係で随分苦しんできた。
その結果、本当の友だちとかパートナーと呼ぶ人は、
ほんのわずかで良いと思うようになったのさ。

わずかというのは数人いればいい。

「物理的距離」なども「壁」などもなく、
正直で素直でそのまま、
ありのままの自分を、
受け入れ合う関係の相手など、
人生の中でほんの一握りだと思うから。

よく友だちが何10人いるとかいう人もいるが、
本当のパートナーなどは2人か3人いれば、それだけでも大変な事なんだよ。
 
そう、それ以外は友だちなんていらないのさ。

©NPО japan copyright association Hiroaki


©NPО japan copyright association 

coucouさんです。みなさん、ごきげんよう!

ねえ、みんな、私たちの周りには嫌いな人がいっぱいいるよね。
でもね、我慢して、我慢して、耐えて耐えて生きる必要はないのさ。
(※注 coucouさんも嫌われている…)

そこまでして一体何になるの?
、とcoucouさんはいつも自問自答しながら悩み続てきた。

でもね、何も解決方法のない、
蛇に睨まれたカエルのように、ただ押し黙っていた。

すると、相手はそれだけでおさまらず、
ずけずけと人の心に入り込んでくる。

coucouさんは心の中で「あんたなんて、大嫌いだ!」と叫び続けながらも、これが人間関係、人間社会だと信じて諦めてきた。

だけど、これが大きな大間違い…。

相手はどんどんと、さらに近づいてくるんだよ!
まるで容赦なく、虐めのように。

当たり前だよね、相手にはcoucouさんの真実の声が聞こえないのだからね。coucouさんも、いちいちその人を批判したり、文句も言わない「良い人仮面」だったからさ。

そう、相手には何の罪もない。
その罪というものがあるのなら、全部coucouさんが作り出したものだもの。

そう、「物理的距離」を保てなかったんだ。

例えば大勢が自由に座る席があるとすると、
自然に、必然的に嫌そうな相手から距離を置こうとする。
(おっかない人の隣よりも、優しそうな人の隣を選ぶように…)

これは無意識なのか、意識している場合もあるけれど、人と人の距離の安心、安全を誰もが求める習性がある。できたら、気に入った人の隣の方が良いに決まっているよね。

この距離を誤ると、相手を勘違いさせてしまう場合もある。
これは大切な人間関係の物理的距離かもしれないと、最近のcoucouさんは思うようになった…。


そう、「ソーシャルディスタンス(社会的距離感)」ではなくて、
「フィジカルディスタンス(物理的距離感)」が必要だったんだ。

そう、そうなんだ、そんな友だちなんていらないんだよ!

友だちは、あなただけでいいのさ!

ねえ、みんな~




※coucouさんの電子書籍のご案内「~マイノリティ(「個人ビジネス」活用法)①~「個」全6巻好評発売中!下記URLにて検索してください。

人生を楽しく明るく!幸せになるための物語。
 https://www.amazon.co.jp/s?i=digital-text&rh=p_27%3ACou+cou&s=relevancerank&text=Cou+cou&ref=dp_byline_sr_ebooks_1

©NPО japan copyright association 

 



この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?