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ブランディングは資本主義社会に人間性を回復する(たぶん)

 思いつくままに書いたらやたら長くなってしまいましたが、一言でいうと、

「ブランディングは、資本主義社会に人間性を回復する、新しい価値交換の形を生み出しているんじゃないかしら」

ていうことです。

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 資本主義のシステムは現代社会では当たり前の現実であり、それ以外のあり方があろうとは夢にも思われない(数十年前までは、共産主義がその別の「あり方」になり得るのではないか、と夢想されたことがあったが、その夢想ははかなく崩れ去ってしまった)。しかし、資本主義社会の根幹をなす、「商品交換」という取引のやり方が世界中に普及したのは、せいぜい最近200年程度の間に過ぎない。

 原始未開の社会では、贈与とその返礼、または「互酬」という取引のやり方は当たり前であった。この時、社会の中のでもっとも重要な交換のパターンは互酬であった。商品交換のような別の交換パターンは、存在するとしても付属的なものでしかなかった。

 資本主義が、多くの人々から人間的で豊かな暮らしを奪っているという批判は、もう100年以上も前から行われている(たとえばマルクスやエンゲルスがそうだが、彼らも別に、「共産主義」を実現すること自体が目的だったのではない。あくまでも、人の幸せを取り戻すことが目的だった)。その後かなり力不足ではあったかもしれないが、事態の打開が少しずつ図られてきた。

 その流れの中でこの数十年間、「商品交換」という行為の破壊力を弱める試み(すなわちそれは、資本主義の破壊力を弱める試みである)が、おそらくは無自覚のうちに行われているように思える。「商品交換」の中に「互酬」の要素を持ち込むという試みである。言い換えれば、商品交換を土台としながらも、商品交換と互酬の折衷パターンを作り出す試みである。

 以上が、ここで書かれていることの要点だが、この意味を深く理解してもらうには、次のような説明が必要になる。以降、

1.まず、商品交換とはどんなものか

2.及び、互酬とはどんなものかを確認し、

3.次に、互酬の要素が入り込んだ商品交換とはどんなものか、

を記述していく。1、2は特に新しい内容を含まないので、この手の話をよくご存知の方は、読み飛ばしても構わない。

商品交換

 ある商品Aと、もう一つの商品Bを、それぞれの持ち主がお互いの合意に基づいて交換することである。言うまでもなく、現代社会ではもっともポピュラーな交換の仕方であり、一方の商品は「貨幣」である場合が圧倒的に多い(貨幣も一つの商品と見なされる)。

 このパターンの交換が成り立つには、交換する当事者同士が自由でなければならない。一方が強大な権力を持っていて、強制的に他方から物品を巻き上げたりするのは、商品交換ではない。また、欲しくもない人に一方的に何らかの物品を押し付けて、そのお返しを得ようとしてもならない(互酬の場合にはこれがあり得る)。

 高度に発達した資本主義社会(すなわち現代の社会)では、あらゆるものが商品となって交換される。人の労働、土地、貨幣についてすら市場がある。あらゆるものに市場があり、需要と供給の均衡に基づいて商品の価値が定まる。あらゆる物品の生産と分配は、市場を通じて行われる。したがって市場は、物品の生産と分配を自律的に調整する機能をもつ。

 交換の当事者は、原則的にあらゆる束縛から自由である(法律から規制を受けることを除いて)。誰から買っても良いし、誰に売っても良い。商品自体に価値があり、誰が作ったものか、誰が売ったものかは、原則として問題にならない。たとえば同じ商品の価格が、マルエツよりサミットのほうが安かったら、サミットで買おうと考える。人々は(特に企業は)、共同体の掟や慣習に囚われず、ひたすら自身の利益のために行動する。商品があって、それを買ってくれる相手がいれば、それ以外の事情はなんら考慮の対象にならないからである。商品の生産と販売(すなわち貨幣との交換)を通じて、利益を増殖させることが企業の目的になる。

 資本主義システムのもとでは、企業は商品を販売する際の価格はできるだけ釣り上げようとし、買い入れる原料や労働の価格はできるだけ引き下げようとする。このような事態が生じる背景には、資本主義経済が商品交換によって成り立っているという事実がある。商品交換には破壊力がある。破壊力は、ほうっておけばどんどん大きくなる。人々の絆を崩壊させ、働く人の心身の健康を損なうまでに働かせる。実際、そのような破壊力は、21世紀に入ってからも健在である。

互酬

 読んで字のごとく「互いに酬(むく)いる」ことで、一方が贈り物をしたら、受けた相手は何かを返さなければならない。

 それによって、交換する主体同士の相互依存の関係が強化される。実際、自身の村だけで生存に必要な量以上の食物が容易に得られる場合にも、互酬が行われる(※1)。たしかに、食べるため、という目的のほかに、より多くの富を所有したいとか、珍しい品物を手に入れたいとかの目的もあるだろう。しかし、互酬が習慣として定着していたのは、関係強化という効用もあったからこそと思われる。

 互酬では、商品交換とは対照的に「誰からもらったか」という事実が意味をもつ。贈り物をしてきた相手が自分の親族か、自分より身分が高い人か、または低い人か、どの部族の人か、などの事情が意味をもつ。それによって、お返しする物品の質や量が変化する。

 また、ある物品の価値は、その背景にある社会の構造や神話・伝説などにかなり依存しており、贈られる側は、その物品にまつわる贈り主の歴史も含めてもらい受けるとされる。ここで、ある部族の財宝に関する面白い記述を引用しておく。(西太平洋のある部族が、船ではるばる航海して獲得する、貝殻でできた腕輪や首飾りに関する記述だ。)

(交易の)成果として得られる純益は、数個のきたならしい、油ぎった、みすぼらしい外観の現地住民の装身具である。なかば色あせ、なかばキイチゴの紅色か、または、れんがの赤色をした平たい円盤を、一つ一つ紐に通して円筒形の長い輪にした装身具である。
 しかしながら、現地人たちの目から見れば、この成果は、伝統や慣習の社会的力によって意味を与えられており、その力がこれらの物体に価値のしるしを与えて、ロマンスの光の輪で取り囲むのである。(※2)

 この例でいう「ロマンスの光の輪」とは、たとえば次のようなものである。この首飾りは100年前は何々島の身分の高い首長の所有物だったとか、さらにその前は伝説的な英雄がこれを持っていたとかいうものであり、その財宝には何ら機能がなく、実際に装身具として使われることもほとんどないにもかかわらず、それ自体非常に高い価値があると見なされている。その所有によって名声が高まる。

 また、上の例と同じ部族の場合だが、交換されるものが等価になるように、駆け引きをすることは許されない。贈る側は一方的に贈り付け、相手はこれを拒むことができない。お返しをする側は、自分が適切と思われる物品を返すが、お返しを受ける側はそれに対して「足りないからもうちょっとよこせ」などと要求することも許されない。

 現代日本でこれに似た例を探せば、香典と香典返しの関係が挙げられる。この場合、香典をもらう側が慰めてもらう側であるという特殊な事情があり、香典返しが香典に比べて著しく見劣りのする物品(塩とかタオルとか)になるのが普通である。これも、贈与する側とお返しをする側の関係によって、それぞれが提供する物品が異なるという、互酬の原理が作用しているといえる。

※1 たとえば、100年ほど前のトロブリアンド諸島(現キリウィナ諸島)の住民は、自分たちが食べる量の2倍程度の食料を村の中だけでまかなえていたが、周囲の広範囲の島々との間に大規模な交易(クラ)をおこなっていた。
マリノフスキ著、増田義郎訳[2010]「西太平洋の遠洋航海者」講談社学術文庫、p88
※2 前掲書p319~320

互酬の要素を取り入れた商品交換

 「互酬の要素を取り入れた商品交換」の例は、現代社会で容易に見つけることができる。

例1 レインフォレスト・アライアンス認証農園産コーヒー
コーヒーには、他社商品よりいくらか値段が高いが、売れているものがある。販売元が熱帯雨林保護のために寄付しているとか、海外のコーヒー豆生産農家とフェアトレードをしているとかの事実が、商品のパッケージや販売元のWEBサイトなどでアピールされている。コーヒーの物理的な味わいは、これらの事実によっては全く変わらないはずだが、消費者はちょっと良い気分になる。
例2 ユニリーバ「ライフブイ」(石けん)
石けんのメーカーが、インドで自社商品を使った手洗い促進のキャンペーンを行い、実際に衛生環境が改善されたことをアピールしている。石けんは、いわゆるコモディティ(差別化できない、ありふれた、市場価値の低いもの)の典型である。購入者は、このような倫理的なメーカーの商品を選んだことに満足感を覚える。

  このような事例は、ブランディングやマーケティングの文脈ではおおむね次のように言われる。「商品の機能的価値によっては差別化できない場合に、情緒的価値や社会的価値によって差別化を行った。」これはこれで正しいが、もっと深い意味がこれらの事例には潜んでいると思われる。

 誰から買うか、その物品はいかにして作られたか、どのような物語をもっているかということが、購入の意思決定において重要な要素になっているが、これらの要素は互酬において重んじられていたものである。これらは純粋な商品交換では問題にならない。

 互酬では、交換の相手によって、交換される物品の質や量が変化することは、前述した通りだ。では商品交換のなかに互酬の要素が入り込むと、どうなるか。答えはきわめて単純で、「価格が上がる」ということである。商品交換は、あくまで市場経済システムにのっとって行われるのである。

 精神的な満足感まで価格が付けられてしまうのは虚しい気もする。しかし、資本主義のシステムでは、あらゆるものの価値が貨幣によって測られる(すなわち、値段が付けられる)わけだから、交換される物品の質や量の調整は、価格の上下によって行われざるを得ない。

 とはいえ、この価格が上がるということによって、(たぶん)本当に熱帯雨林は保護されているだろうし、現地農家の生活は向上しているだろうし、インドの子供たちは以前よりも健康になっているだろう。これは、商品交換の破壊力を緩和する作用だ。

 そして、物品を取り巻く「ロマンスの光の輪」を発見したり生成したりするのは、ブランディングの領域である。(ただし、例に挙げたレインフォレスト・アライアンスやユニリーバの当事者たちは、自分たちのやっていることがブランディングだとは思っていなかったかもしれない。)

 このように考えると、ブランディングは資本主義的なシステムの中で、人間性を回復し、商品交換を円滑ならしめているといえる。我々は、今さら資本主義的なシステムを放棄することは、たぶんできないだろう。ならば、なんとかして資本主義をもっとうまくやる方法を編み出すのが現実的だ。ジョン・マッキーとラジェンドラ・シソーディアが提唱する「コンシャス・カンパニー」もこの方向を追求している(2013年に原著が出版され、2014年に邦訳が出た。原題はいみじくも「Conscious Capitalism」―意識が高い資本主義―である。)。

 ちなみに、互酬に関する話は、前述のマリノフスキの著書のほか、ポランニー「経済の文明史」や柄谷行人「世界史の構造」に触発された。

 もうちょっと言いたいことがあるがすでに5,000字近いので、今回はこの辺で。

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