価値について考える〜「自分のお金をつくろう」【後編】
前回の投稿のつづきです。
お金の起源が貝だったということを子供たちに話しましたが、その後、お金は社会の中でどう変化していったのか。
人間の共同生活が大きくなるにつれて、例えば大きな建物や大きな船をつくろうとなると、これまで以上に希少価値のある貝が必要になってきます。
ただし、貝は自然物で無限にあるわけではありません。むしろ無限にあったら価値そのものが無くなってしまいますよね。そこでどうしたのか?
4. 複製技術とお金
コインとお札の発明です。
つまり、鋳造技術と印刷技術によって、現在も使われているお金が誕生したのです。それによって自然界から希少価値のある貝を拾わなくても、人間の技術によって貨幣を産みだすことができたのです。よく考えると劇的なことですよね。
鋳造と印刷は、コピーであり、つまり複製技術です。自分は映像というメディアを扱うアーティストとして、コピーという概念について考えてきていたので、お金というものの在り方には以前から興味がありました。当時はそんなことも話したのですが、このあたりの説明は子供たちには難しかったというか、完全に蛇足だったかもしれません。
さて、複製技術をつかった貨幣はさらに変化していきます。
子供たちに質問しました。例えば、みんなの親が数千万円の家を買うとしたら、どうやってお金を支払う?と聞いてみました。
一人の子がちょっと考えて、「クレジットカード!」と元気よく答えます。
子供はよく観察しているんですね(笑)。
すかさず、クレジットカードに入っているお金は見える?と聞きます。
「見えない」
そうですよね。今やお金は目に見えないまま、社会の中で交換しあっています。あるはずなんだけど、目には見えないヴァーチャル(仮想的)なものにお金は変化していっています。当時はまだ話題になっていませんでしたが、ビットコインという仮想通貨まで生まれているのは周知のことです。
さて、分かりやすく説明するために例え話を交えながら、お金の在り方がどのように変容していったのかを子供たちに伝えました。
そんな僕の長いレクチャーを経て、ようやくここでみんなにやってもらうことの発表です。
ワークショップを開催した群馬県立近代美術館は、群馬の森という大きな自然公園の中にあります。美術館を一歩出れば気持ちのいい森林公園が広がっているので、その公園内を散策しながら自分にとって一番価値があるものを拾ってきてもらいます。
つまり、「お金をつくろう」というワークショップのお題を翻訳すると、太古の人間が貝を貨幣としたように、身近な自然の中から自分だけのお金(価値あるもの)を見つけてみようという意図が込められていました。
何でもアリにしてしまうとつまらないと思い、せっかく自然貨幣の歴史を話したので、人工物を拾うのは禁止にしました。採取するのは自然物のみ。
このルールは振り返ると、人工物もOKにしてもよかったかもしれません。
それから一人で探すということ。価値があるかどうかは、他者からの評価ではなく、子供たち独自の視点で選んで欲しかったからです。このあたりは、今取り組んでいる美術教育での考え方とも共通していると思います。
それから面白いことに、群馬の森の中には美術館だけでなく、隣に群馬県立歴史博物館という博物館があります。事前に下見すると、発掘された中世の銭(ぜに)が常設展示されていたので、公園で散策する前に子供たちと一緒に見学させてもらいました。
やはり、本物を見るというのはインパクトのある体験になります。みんな食い入るように銭を見つめ、観察していました。
さぁ、群馬の森でお金の採取のスタートです。
探し出す時間は一時間としました。
はじめは「ないよ〜」とか、「むずかしいよ〜」と不平を言っていた子たちも徐々に思い思いのお金を見つけていきます。
美術館に戻り、それぞれ採取してきたお金を一人ずつ発表してもらいます。子供たち全員に発表してほしかったことは、選んだものが何で自分にとって価値があると思ったのかという理由です。
5. 触覚と価値
この各自の発表が、当時の自分には実に刺激的でした。
子供たちが選んでくるものは、単純に「大きい」とか、「形や色が綺麗だったから」など、視覚的な根拠をもとに選んでくるのだと想像していました。
そんな自分の浅はかな予想を裏切るように、多くの子が挙げていたのは、「すべすべしているから」とか「ギザギザしているから」といった触覚的な印象だったのです。それは全く予想していなかった意外な答えでした。
気がつくと、お金に限らずあらゆるものが、すごい速度でデジタル化していき、モノ固有の存在感が希薄になっていくことに不安を覚えるようになりました。便利なのは間違いないのだけど、トレードオフとして身の回りのものが特定の企業がつくりだすモノやサービスによって均質化していってしまう寂しさ(そして恐ろしさ)を同時に感じてしまうからだと思います。
日頃からそんなことを感じていたので、触覚を頼りに、自然物を拾ってきた子供たちの無意識に触れられて、思わず安心したことを覚えています。
ほんの一回限りのワークショップでしたが、この時の驚きというのは今でも忘れられません。何故なら、《Nostalgia, Amnesia》という昨年完成したばかりの自分の映像作品でも、産業社会に抗う「手ざわり」というものに固執していたように、触覚性というのは今の自分にとっても欠かすことのできない重要なキーワードだからです。
▲みんなが採取したお金を集めた写真。参加者は小学校高学年から中学生。
6. 2020年から振り返る
さて、お金という身近なものを題材に、子供たちに「価値」について考えてもらおうと試みた「レクチャー+ワークショップ」でしたが(その背景には「アートとは何か?」という問いがあったことは前編に書きました)、あれから7年が経っても、この時に得られた発見や、自分の実感というのは少しも薄まりません。
新型コロナウイルス以降の美術教育について構想した時、自然と思い出し、参照するのは、群馬で行ったこの「自分のお金をつくろう」というワークショップでの経験です。前・後編と当時の記録を綴ったのは、今の自分がやろうとしていることの原点がこのワークショップに込められているからです。
ちなみに当時、展覧会を観に来てくださった高崎経済大学の友岡邦之教授が、このワークショップの内容にとても興味を持ってくださいました。子供だけでなく、大学生や大人を対象に実施しても、多くの気づきがあるのではないかとアドバイスをいただいたのですが、まだ実現できていません。
新型コロナウイルスの蔓延とロックダウンを経て、自分の属する経済圏を改めて見直した人は少なくないと思います。貨幣価値だけでなく生き方そのものの価値観が大きく揺れ動こうとしている現代において、制度化されている価値観について問い直すという態度はとても自然なことだと思います。
2013年には「自分のお金をつくろう」という切り口が、突拍子もないアーティストの悪戯的な試みのように見えたかもしれませんが、ひょっとすると価値観が変動しはじめた現代こそ必要な視点であるようにも思えてきます。
そういえば、ワークショップでは最後におまけの時間がありました。子供たちの発表が終わると、みんなで美術館で開催されていた「アートといっしょ」の展示室に行きました。向かった先は《translate》(2007年)という僕の作品です。ベンチになる真っ白なスクリーンの上に、画鋲やクリップ、色鉛筆などの日用品が大量に落ちてくるという映像インスタレーション作品です。実は工業製品だけでなく、一円玉も大量に落ちてくる場面があります。
▲再生できるので、再生ボタンを押してみてください。一円玉が子供達の身体に降り注ぐ光景というのはシュールで今見ても面白い(笑)。
ワークショップの後に、こうやってアート作品を体験できるのも美術館の良いところですよね。身近なお金について考えた後だったので、きっとこれまでとは違った角度で作品を体験できたように思います。参加してくれた子供たちはきっと今頃大学生だろうけど、この時のことを覚えているかな?
作品制作のための取材をはじめ、アーティストとしての活動費に使わせていただきます。