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『交代』 【ショートショート】

 日曜日の深夜、深く酔って歩くのも億劫な帰り道に、住宅街の狭く入り組んだ路地の一角に神社を見つけた。こんな場所が近所にあったろうかと不思議に思いながらも、無意識に私の歩みはそこに向かい、ごく自然に鳥居の真ん中をくぐった。
境内には、小さな橋のかかった池があり、決められた範囲を泳ぐことしか許されていない鯉たちが、パシャパシャと水しぶきを上げて、池のほとりに現れた私の存在に反応していた。
 この鯉たちは、私自身に興味を持って反応しているのではない。日々の習慣や経験から、この存在は何か食事を与えてくれるのではないかという感覚的な期待で、尾鰭で水面をかき乱し、口をパクパクさせているのだ。これに私は嫌気と気持ちの悪さを覚える。行動の一つ一つのパターンが確定していて、その動機も単純で明確だからだ。人間で言う、「考える」と言う過程がないのである。鯉の脳味噌は食欲に常に牛耳られて、体といえば池に通りかかる人間に餌を乞うように指示され、何の誇りも無くただただ行動に移る。さらには、その結果にも興味はなく、餌をもらえれば、ただ食べて、貰えなければ踵を返し、また別の存在に餌を乞う。その必死さと単純さが、気色悪く、不気味と思う。
 池の橋の膨らみのちょうど頂点に一つだけ置かれたベンチに何となく腰をかけ、鯉を一瞥しながら、ため息をつく。明日も仕事かと、鬱になる。
「こんな時間に・・・・いったいどうしたんですか」
突然の声に驚き、泡を食って立ち上がる。
「え・・誰ですか・・何処にいますか」
あたりを見回しても薄暗い境内には私以外に人はいない。
「ここ!ここです、あの、目の前です」
私の目の前にあるのは、小さな池である。池が話しているとでも言うのだろうか。それとも私の眼球では捉え得ない、この世のものでない何者かが実は眼前に浮遊しているのだろうか。背筋が寒くなり、体が硬直していく。
「何でわからないんですか、まあでもわからないか、人間は人間の知り得ることが全てと思いがちですものね、本当に滑稽な生物ですね。私鯉です。あなたが先ほど碁石のような輝きのない蔑んだ目で見下ろしていた、鯉です」
「鯉?え?」
受験生が固唾を飲んで合格発表の掲示板から自分の受験番号を探すように、ゆっくりと真剣に、池を見回す。
するとちょうど池の真ん中あたりに、白と赤が不規則に混ざり合った体をうねらせながら、その場に停滞している一匹の鯉がいた。他の鯉は、目的もなくあっちへこっちへ適当な速度で泳いでいるのに、この一匹は、顔をこちらに向けて、尾鰭を怪しく揺らつかせている。その違和感で、話しかけてきているのはこいつだろうと分かった。
「お前か、お前が話しているのか」
「お前だなんて、なんて高圧的な、そうです、私です」
鯉は真っ直ぐな瞳で私を見ている。正面から鯉をまじまじと見たのは初めてだったが、目が横についていること以外はあまり人間の顔と変わらないように思えた。人間の言葉をその鯉が話しているから、その親近感から人間の顔のように見えている可能性もあるが、少なくとも自分にはこの状況を無視するということは出来そうになかった。
「ごめんよ、ちょっと焦って言葉が荒くなってしまったんだ、鯉が喋っているなんて信じられなくて、それも急だし、夜の神社だしで、とても不気味で」
「いえいえ、良いんです、怒っているわけではありません、あなたが慌てている様子だったから少しからかうような気持ちで言ってみただけです」
鯉はぐるぐると池の真ん中を回り始める。何ということだ。この鯉は喋るだけでなく、私の心境を見透かしてからかってきたのである。日曜日の深夜に、見知らぬ神社の境内で、人面魚ならぬ人語魚にからかわれているのだ。夢でもみているか、幻想を見てしまうほど酩酊しているか、そう考えるのが普通だ。何も不思議なことは無い。半ば強制的に、現在の状況を私は現実では無いと認識することにした。
 パシャっと水しぶきが上がって、それを蹴散らすかのように体を存分に振り切って、鯉はベンチに座る私の目線の高さほどまでに高く跳ね上がった。少量の、水しぶきの一部が私の顔面にかかった時、その冷たさは明らかに現実的な冷たさだったため、これは現実では無い、現実なわけが無いと言い聞かせた数秒前の私の甘い推測は否定された。鯉は重力によってまた池に引き戻される。
「顔が引きつっていますよ、顔色も良く無いみたい」
鯉に気を遣わせていることが癪だったため、ここは強がることにした。
「いやそんなことは無いさ、月明かりが青いせいだ」
「そうですか、でも私わかりますよ、日曜日のこんな時間に一人で境内にいる人が正常な訳が無い。何人もここでそういった人を見てきましたから」
どこまでもこの鯉は私の心境を追いかけてくる。甲高く、しかし柔らかく丸みのある声質で、私に優しく寄り添うような口調で語りかけてくる。そうして私の中の、この鯉に対する猜疑心は、月のよく映える境内の夜に溶けていくのだった。
「なんだか、変な気持ちだ。君は鯉で、私は人間なのに、君は私のことをなんでも分かっているような気がするよ、少し話をしても良いか」
「ええ、もちろん。私は何人もの人の話をここで聞いてきましたから」
自分でも不思議である。不思議なほど素直な気持ちで、普段は誰にも吐露できぬような平生の疲れを、鯉に向かって話そうとしている。しかし、むしろ目の前の対象が人間では無いからこそ、話しやすいのかも知れない。少女が自身の寂しさをぬいぐるみに語るのと同じようなものだろう。それにこの鯉は何人もの話を聞いてきたというのだから、私のこの感覚は案外普通なのかも知れない。私みたいな人間が何人も以前にいたということなのだから。
「僕はね、今日、死のうと思っていたんだ。嫌なことが続いてね、最初は嫌なことは嫌と自覚していたから、怒ったり泣いたり、そういう風に素直な感情を出せていたんだけれど、もう今は何も感じなくてね。何もかもがどうでも良いんだ」
 鯉はぽつりぽつりと滴が垂れるように言葉を絞り出す私を、口をぱくぱくさせながら見つめている。
「会社を今日辞めてきたよ。辞表を出した時、上司は私に向かって何か喋っていたけれど、一つも覚えていない。心配しているようでもあったし、笑っているようにも見えたな、僕もよくわからないまま適当に頷いて、早くこの場から立ち去りたいとだけ考えてた」
 タバコを取り出して、火を付ける。吐き出した煙が視界を遮りながら空に上っていく。それを見つめながら、できればこの煙のように今夜の闇に曖昧に消えてしまいたいと考える。
「うんうん、それで、どうしてここにたどり着いたのですか」
「え?」
「だから、どうしてここに来てしまったのかですか、死ぬつもりだったわけでしょう?どうして死なずに今あなたはここにいるのですか」
 言われてみればどうして私は今ここにいるのだろう。会社を出て、そのあとは確か適当に入ったバーでひたすらにウイスキーを飲んで、吐いて、また飲んで。そうしてぐでんぐでんに酔った私を見かねたバーの店主が私をタクシーに乗せて、そこからの記憶はない。気づいたら見覚えのある住宅街にいた。そうして、何かに引き寄せられるように、自分の意思などなく、ごく自然にここにたどり着いたはずだった。
「なぜだろう、わからない、どうしてかわからないけど、ここにたどり着いて、それに違和感も感じていないんだ」
「夜中、ここにくる人はみんな口を揃えてそう言うんです。自然にここに着いたって。でもあなたの場合、今日死ぬつもりだったんですよね?死ななくて良いんですか?」
 死ななくて良いのかと、こうも面と向かって言われると、自分は本当に死にたいのか分からなくなってきた。実のところ、死ぬつもりでいたけれど、その方法や場所などは何も考えていなかった。今日中に私は自然に死ぬものだと思っていた。生まれる時は、この肉体も自分という存在も、勝手に生まれて来たのだから、死ぬ時も同じく勝手に死ぬのだと当たり前に思っていた。つまり私は、生きたいとか、死にたいとか、そういった願望すら持ち得ない、何をしても意味を感じない状態に成り果てた、言葉通りの人形なのだった。先ほどまで意志の無い存在と蔑んでいた鯉にこれを気付かされて、はっとした。意思がないのは自分じゃないか。自分の生死さえ選択できない、本当に何もできない、自由を持て余したただの呼吸する肉体だった。
 私は生命を辞めたいのではない。人生を辞めたいのだ。
「やっと分かったよ、僕は、人間を辞めたくて、ここに来たんだ」
「そうです。それがあなたの最後の意志です。私は分かっていましたよ、何人もあなたのような人をここで見て来ましたから・・・」

 


 体の中が熱っている。それと反対に、体の表面はひりひりと冷たい。頭はぼうっとしている。体のバランスがうまく取れない。横や縦に、押されたり引っ張られたり、誰かに肩をゆっくりと揺すられているような感じがする。それはしかし心地がいい。
視界は暗く、ぼやけている。ぼやける視界の先で、一人の女が立っている。女も私を見ている。ぼやけてはっきりとは見えないが、笑っているように見える。
 女は、白地に赤色の縦のストライプが等間隔に入ったワンピースを着ている。髪は長く、濡れているように見える。女はおそらく私に向かって何かを喋っている。しかし、音はこもっていて、口をぱくぱく動かしていることは確認できるが、何を喋っているのか分からない。
女は後ろに振り返り、歩を進め、徐々に遠のいていく。地に足をつけて歩いていく。私はそれを見てなぜか焦りを感じる。彼女を追いかけたいと思うが、体は思うように動かない。
隣に気配を感じて視線を移すと、真っ黒な体をした大きい鯉がいた。
「君もこっちに来たのかい。ここはいいよ。人間だった頃みたいに仕事のこととか家族のこととか、そういったことは一切考えなくていい。好きにしていればいい。」

私は精一杯、全身の力を振り絞って、飛び跳ねた。重力に抵抗するその瞬間だけ、私の時間はゆっくり流れる。私の体に纏う水分が飛沫となって、まるで花瓶を割ってしまったときのように不規則に散り、煌く。そのとき私の視界に映ったのは、先ほどまで私が座っていた橋の上のベンチだけだった。女の姿はもうなかった。それを確認した時、私の体は、重力によって池の中へと引き戻される。暗く、月も見えない不自由な池に。


私は今、ただただ腹が減っていた。


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