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Human society from the perspective of biology introduction〜生物学的視点による人間社会〜

前書き(Human society from the perspective of biology シリーズに寄せて)

 近年、人間社会における問題点が数多く指摘されている。人為的な活動により地球環境を変えてしまう環境問題、貧富の格差による貧困問題、アフリカ大陸を初めとした各地での紛争問題など枚挙に遑がない。このような問題を包括的に扱い、またグローバルな視点で取り組んで行くという潮流から、最近では Sustainable  Development Goals (SDGs; 持続可能な開発目標)という目標が非常に持て囃されている。尤も、社会の問題を解決すべく提言された SDGs も社会問題を引き起こしているという点で、個人的には皮肉を感じざるを得ない。言葉は悪いが、日本では猫も杓子も SDGs を取り上げることから、SDGs を掲げる企業も増えてきている。実際、普段買い物に行くスーパーでも SDGs のロゴを目にするため、社会への浸透ぶりは肌感覚でも理解することができる。しかし、SDGs の社会的な浸透により、体裁を取り繕うために表面上だけ SDGs に取り組んでいるように振る舞う、SDGs ウォッシュが発生しているという指摘もある(文献 1 )。SDGs の説く問題群は確かに世界的な問題と言えるが、ロゴだけ掲げて終わりでは余りにもお粗末と言えるだろう。ロゴを掲げるだけなら子供でもできることであり、恰も問題に取り組んでいますという”免罪符”を与えるだけの存在に過ぎなくなってしまう。真に重要なのは、そのために何をするのかというところである。そして、個人的に SDGs で最も気にかかるのが、SDGs の第8の目標として掲げられている「働きがいも経済成長も」(文献 2 )という目標である。近年の環境問題は経済発展によって生じたものであるし、またアフリカ諸国の貧しさは帝国主義時代から続く搾取体制が招いた結果である。すなわち、SDGs で掲げられた問題群の多くがヨーロッパを始めとした先進国のエゴ、もっと言えば資本というものに価値をおいた社会運営によって引き起こされたものである。こう考えてみると、資本主義的経済成長と環境問題を始めとした問題群の解決は本来対立するものである。しかし、持続可能な社会の中で資本主義的経済成長をやろう、と SDGs は主張している。私はこれを一つの欺瞞ではないかと考える。従来のように経済成長だけを優先するとあちこちから批判が来るから、問題を解決しようという姿勢はあると見せておこう。このような汚い考えが見え隠れする気がしてならない。本当に何を考えているのかは私とは身分も違う偉い人たちに聞かなければ分からないが、SDGs ウォッシュの問題を含めて SDGs もまた人間社会の問題点を映し出す鏡と言えるのではないかというのが私の考えである。

 SDGs  の話に偏り過ぎてしまったが、人間社会の問題点は何も世界単位で考えなくとも知ることができる。すなわち、日本というもっと身近な単位で見ても様々な問題が見えてくる。例えば、経済格差は既に日本でも見られる現象になってきたし、少子高齢化に伴って既存の社会制度(年金制度など)が破綻しているにも関わらず見て見ぬふりを続けている。そして、日本における問題群に対しても SDGs で見たような”免罪符”の付与や、欺瞞は満ちていると言えるだろう。具体例として、年金に関連した消えた年金問題のことを挙げてみよう。消えた年金問題が国会で追及された時、当時の内閣総理大臣は次のように述べている。「この問題(=年金の記録問題)につきましては私の内閣の責任において必ず早期に解決をし、最後の一人までチェックして正しい年金をきちんとお支払いをします」と(文献 3 )。しかし、実際はどうだっただろうか。平成25年の段階で、約5095万の記録の内4割は持ち主が分かっていないという日本年金機構の報告がある(文献 4 )。これのどこが最後の一人まで支払っていることになるのだろうか。年金という国民の関心が高い内容であるため、世論の沈静化を図ろうとして述べた言葉であるように思えて仕方ない。こうした点で、この発言はまさに欺瞞だったと言っても過言ではないだろう。このように、社会の問題点とは何も世界単位の大きな話にしか現われないものではなく、日本という単位の小さな話においても現われるものである。つまり、人間社会の問題点を映し出す鏡は意識するしないに関わらず、至る所に存在しているのである。従って、人間社会における問題点というのは洋の東西を超えて見ることのできる普遍的なものであり、そこからは人間や社会制度が抱える闇を窺うことができる。

 これまで見てきたように、人間社会の問題点とは人間そのものが抱える特性や社会構造が内包する特性に由来する。そのため、近年話題となるような人間社会の問題点を考える上で、人間の性質を十分に理解することや、人間社会が歴史的・構造的にどのような特性を抱えているのかを理解することが不可欠である。……ここまで、人間社会の問題点を人間(human)という視点に立って見てきたため、いつも自然科学の色が出る私の記事らしくないと思われた方もいらっしゃるかと思う。そう思われた方は、ここからが本題と言えるだろう。私自身は、先述したように人間社会の問題を考えるに当たって人間(human)という視点が不可欠だと考えている。なぜなら、人間社会の問題が人間(human)としての性質から生じたものである以上、人間(human)を考えない限り問題の本質には迫れないからである。その一方で、問題を人間(human)という視点に全て還元してしまうのも間違いであると思っている。確かに問題の根源を辿れば人間としての性質に行き着くが、問題がどのようなメカニズムで起こるのか、或いは問題を放置すると何が起こり得るのかを知ろうとする場合は基礎科学の考え方を抜きにして考えることはできない。例えば、環境問題というのは生態学的な視点や大気科学的な視点を加味しなければならないし、エネルギー問題は種々の物理学分野の視点を必要とする。何を当たり前のことと思われるかもしれないが、高度成長期に行われた過度な干潟の埋め立てによって何が起こるのかをご存知の方はどれだけいらっしゃるだろうか。自分とは関係ない生物が死ぬだけでしょうという考えの方がいらっしゃったら、それは大きな間違いである。最も分かり易い例を挙げれば、千葉県ではかつてアサリの漁獲が盛んであったが、干潟の埋め立てや開発により漁獲量は最盛期の十分の一程度まで減少したという指摘がある(文献 5 )。つまり、干潟の埋め立てにより食卓に上がるアサリが取れなくなってしまったのである。このような生態系サービスを供給サービスと言うが、生態系の破壊が招くものは何も供給サービスの低下だけではない。生態系には基盤サービス、調整サービス、文化的サービスなどもあり、何れも人間生活にとって不可欠な機能である。例えば、生態系の基盤サービスに問題が生じれば、農業が成立しなくなり、現在並みの人口を養うことが不可能になるかもしれない。或いは、人口減少どころかヒトという種が絶滅してしまうこともあるかもしれない。つまり、環境なんかどうでも良いという発想は、人間の自滅を招く発想と換言することも可能なのである(注 1 )。このようなことは人間社会に基礎科学的な視点を加えるからこそ見えてくるものであり、社会問題に自然科学の視点を加えることの重要性を認識することができる。従って、人間社会における問題点を人間や人間社会という視点から考えるのは原因を探る上で勿論不可欠なものだが、それらに加えて自然科学的な見方を加えることで何がどのように問題なのかを考えることも重要であることが分かる。

 以上のように、人間社会の問題を社会で暮らす人間(human)という視点から捉えることが不可欠である一方で、地球上で暮らすヒト(Homo sapiens)という視点から考察することも同程度に重要である。こうした理由から、人間社会というものを生命科学の立場に立って解剖したいという思いが私には以前からあった。生命科学という限られた範囲内に絞っていることに訝しがられる方もいらっしゃるだろうが、生命科学という限られた分野から見えてくるものは莫大なものであると考えている。先述したように生態学の視点から環境というものが見えてくるのは当然のことであるが、古典的な進化生物学の理論から生物社会が抱える利点と欠点を推測することができる。また、動物のスケーリングを利用することで、人間社会の大きさや人間の寿命、エネルギー消費という部分に潜む肥大化が見えてくるようになる。こう考えてみると、環境問題や社会構造の問題など生命科学によって見えるものも莫迦にならないことに気が付かれるだろう。生命科学は人間のことに関して何も教えちゃくれないという偏見を持たれる方もいらっしゃるかもしれないが、生命科学という学問は何も人間以外の生物の謎を解き明かすだけが能ではなく、その生物をモデルとして人間に対する理解を深めようという側面もある。もっと言えば、生命を扱う学問である分、同じ基礎科学に属する物理学や化学に比べて人間という生きものを知ることが可能だと思っている(実現されているかどうかは別として)。そんなわけで、私はいつか note で人間を純粋に生物学的な視点から考察した記事を上げたいと考えていた。

 この積年の試みを実行するために、今回「Human society from the perspective of biology」という四部構成のシリーズを計画した。当初の予定では、この記事で早速動物のスケーリングという観点から人間社会の肥大化を考察する予定であったが、分量の都合上今回は introduction という形にし、次回の記事(part 1 )でスケーリングの話をすることにする。また、続く記事(part 2 )では一寸だけ触れた生態系の構造を深掘りし、環境問題に対する考察を行う。最後の記事(part 3 )では進化的安定化戦略(ESS)という概念を皮切りにし、”動物は利己的である”という定説を元に生物社会が避けて通れない光と闇について考察する。今回の記事だけで長くなり過ぎてしまったため、もう読みたくないと思われる方もいらっしゃるかもしれないが、残り3つの記事も読んで頂ければ幸いである。加えて、今回のシリーズを通じて、生物学の秘めた有用性や面白さに気が付いていただければこれほど嬉しいことはないし、そこまで行かなくとも社会問題に対して一石を投じられるだけでも非常に嬉しいことである。今回はこれで筆をおくが、ここまで読んで下さったことに感謝を述べたい。一寸でも興味を持って頂けたのなら、是非続く3つの記事も読んで頂きたい。

構成

Human society from the perspective of biology シリーズは、全4つの記事に分けて公開する。以下、記事の題名とURLを記載する(URLは各記事を公開した後に本記事に記載する)。

1:introduction〜生物学的視点による人間社会〜(本記事)

2:part 1〜動物サイズから捉える人間社会〜

3:part2〜生態系から捉える人間社会〜

4:part3〜進化戦略から捉える人間社会〜


注釈

1:環境なんか知ったことかという発想は自分が良ければ何でも良いということを意味し、”動物は利己的である”という定説からすれば非常に動物らしい発想と言えるだろう。あれだけ動物的な人間は野蛮であると言ってきておきながら、人間も所詮は動物と変わらないのである。人間は偉そうに上等な生物ぶっているが、我々は動物的な発想や本能から逃れられないことも自覚すべきだと考えている。人間もまた一つの動物種であるということを認めることで、見えてくるものもあると思う。


参考文献

(1)橋爪麻紀子(2019). SDGsウォッシュからの脱却 ‐ロゴでは社会は変わらない‐. 日本総研 経営コラム オピニオン.(2022/2/20閲覧)
https://www.jri.co.jp/page.jsp?id=34828

(2)日経BP・東京書籍. 働きがいも経済成長も. Edu Town SDGs.(2022/2/22閲覧)
https://sdgs.edutown.jp/info/goals/goals-8.html

(3)山井和則(平成20年). 年金記録問題についての「早期に解決をし、最後の一人までチェックして正しい年金をきちんとお支払いをします」という公約に関する質問主意書. 衆議院立法情報(2022/2/22閲覧)
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a169230.htm

(4)日本年金機構(2015). これまでの取り組みと統合作業の状況. 年金記録問題とは?(2022/2/22閲覧)
https://www.nenkin.go.jp/service/nenkinkiroku/torikumi/sonota/kini-cam/20150601-05.html

(5)鳥羽光晴(2002). 千葉県のアサリ漁業の現状. 日本ベントス学会誌 57, 145-150.

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