見出し画像

バスキアと「視覚の政治学」(3)

5

例えば、バスキアが"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットらしき人物の顔を書き、その横に"ジャーシー"・ジョー・ウォルコット(Jersey Joe Walcott)と書き込む。それによって、キャンバスの上に、"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットという名前と同一性を持った人物を中心とした意味の場が開かれた、と言うことは出来るだろうか。答えは否である。なぜなら、彼が描いた"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットらしき人物が"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットであることは、彼によっては曖昧に提示されているだけだからだ。あくまで、それは"ジャーシー"・ジョー・ウォルコット〈らしき〉人物にとどまる。その横に描かれた"ジャーシー"・ジョー・ウォルコット(Jersey Joe Walcott)の文字も、その絵の人物を指し示すものであるかどうかは分からない。"ジャーシー"・ジョー・ウォルコット〈らしき〉人物の絵と文字は、ただ並置されているだけである。その絵と文字の観念を連合するのは、ただただ鑑賞者の恣意性に委ねられている。さらに言うならば、描かれた人物を"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットであると断定し、さらに彼が黒人であるということによってバスキアと関係付けることは、鑑賞者の「勝手な」想像であるに過ぎない。そこに開かれているのは、バスキアの作品の意味の場ではなく、鑑賞者があらかじめ持ち込んだ意味の場である。それらが現象(phenomenon)しているのは、バスキアの作品においてではなく、鑑賞者が関わっている別の場所だ。

ドイツの現代哲学者マルクス・ガブリエルは、意味の場における現象の存在は、それを捉える知覚者に対して客観的だと主張する。したがって、それは、鑑賞者が作品を見なかったとしても存在するのでなければいけない。

それならば、この絵には、誰を描いたのかが曖昧な"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットらしき人物の絵と、何を指し示しているのか、もしかすると何も指し示していないのかもしれない"ジャーシー"・ジョー・ウォルコット(Jersey Joe Walcott)という文字が並置されたものとしての意味の場が開かれている、ということであれば、言うことができるのではないか。もし、空想がちなイタリアやドイツの新写実主義(new realism)者たちの誰かがそう主張するのであれば、勝手にするがいいとわたしは言おう。しかし、もし仮にそのような意味の場があるのだとして、その意味の場では何が展開されるのかを考えてみれば、そのように考えることがいかに馬鹿げたことであるかが分かるだろう。なぜなら、その意味の場からは、何も展開されることがないからだ。そこに見出されるのはただの印象。それが、自分の意識に反射されるたびに起こるただ一つの印象があるだけだろう。彼の描いた絵は、"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットでもあり、またそれ以外の人物でもある、というわけではない。それは、"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットでもなければ、それ以外の人物でもなく、また、しかし、"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットであるかもしれないのである。

"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットらしき人物の絵は、それが"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットらしき人物であるがゆえに、匿名的な人物を描いたものよりももっと意味性を逃れている。もし彼の描いた人物が、明らかに誰のことも指し示していないのであれば、それは普遍的な人間、あるいは普遍的な黒人の観念〈イデア〉である。しかし、おそらくバスキアは、何らかの形で"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットを見たのだ。そして、彼はその印象をキャンバスに描き込んだ。彼が描いた"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットのそれは、一度も観念〈イデア〉を介していない。彼は"ジャーシー"・ジョー・ウォルコットの像を見、さらに"ジャーシー"・ジョー・ウォルコット(Jersey Joe Walcott)と書かれた文字を見た。このキャンバスに描かれたことは、ただ彼がそれを見たという事実だけであり、それ以上には何もないのだ。(※1)

6

印象と観念。ひとつなぎに持続(duration)しているはずの意識の中に、空白がある。情念が、あるいは、人間の認識能力の限界が開いた隙間がある。この隙間を行き来すること、その反復が、存在するということ、すなわち意味(sense)を生産することに他ならない。人間精神は、単に印象と観念の単純な反射だけで構築されているわけではない。観念は、反復されることによって、新たな印象を先回りし、規定する。その印象は、さらなる観念を生み出し、観念は印象に、また印象は観念に、折り重ねられ、巻き込まれながら、"知覚する者"の精神を作り上げていく。
この反復はやがて観念の砦を築き上げ、その内奥は無意識(unconscious)と呼ばれるようになるだろう。
この隙間に入り込むのが、悪名高きイデオロギーである。

"私たちのおこなう事実陳述を支援しこれに根拠をあたえる価値構造、しかもたいていは隠されている価値構造こそ、「イデオロギー」と呼ばれているものの一部である。"

"イデオロギーとはたんなる個人的趣向のことを指すのではなく、ある特定の社会集団が他の社会集団に対し権力を行使し、権力を維持していくのに役に立つもろもろの前提のことを指す。"(テリー・イーグルトン『文学とは何か』)

表現主義(expressionism)あるいは、新表現主義(neo-expressionism)の作品には、たしかにこの空白/隙間とイデオロギーの「視覚の政治学」における戦いが表現されている。

例えば、表現主義の代表であるエドヴァルド・ムンクの『叫び("The Scream")』は、あたかも戦場と化した日常に潜む恐怖の嘆き声として、その精神の危機を見るものに訴える。いつもの景色、いつもの夕焼け、しかし、それは奇妙に歪んで見える。画中の彼には、それが自分の内的な感情のせいなのか、それとも外側から来るものなのかが分からない。それこそが無意識(unconscious)の「叫び」であり、それは日常に向かって響き渡るのである。それはまさに、一人の庶民の声であり、個人的なものであると同時に、社会的なものでもある。イデオロギーは、死の不安を調停するのである。

また、新表現主義の代表的な一人であるアンゼルム・キーファーの表現は主題にも非常に伝わりやすいものが選択されている。彼の初期の代表作『ヒロイックシンボル』は、ヨーロッパ各地でナチス的敬礼をするキーファー自身を撮影した一連の写真からなっている。その意味は、学校で教えられる世界史の授業を真面目に受けていた人なら、誰にでも伝わるものだ。また、バスキアと同時期である1983年には、ナチス総統官邸の中庭に建てられた「無名戦士の墓へ」の碑をモチーフとした『無名画家へ("To the Unknown Painter")』を発表している。

彼らは、情念を意味に描き換え、配色し、配列し、組み替え、照らし出し、伝える。意味を排しては、彼らの作品には何もない。彼らの作品は意味の伝達手段であり、ソーシャルネットワークにコミットし続ける。
先に説明した通り、表現主義(expressionism)は印象派(impressionism)に対立するものとして登場した。それに対し、新表現主義(neo- expressionism)には、その対立項として、観念芸術(idea art)などの前衛芸術がある。しかし、多くの新表現主義のアーティストたちの作品は、その根底(unconscious)に光る観念(idea)が空白を埋めている。

バスキアの作品は、それらの作家たちのそれとは明らかに異なる。バスキアは、空白を作ること、それを意味によって埋めることを強迫的に拒絶したアーティストである。

"ウォーホルのファクトリーをネタにした、あるパフォーマンスが計画され、だれがウォーホルを演じるか、の話になったとき、バスキアは自分が演じるといってきかなかったらしい。内ばかりか外も白人という強烈な意識をここに見てもいいかもしれない"

"つきあう女はすべて白人であり、いうまでもなく、ロス時代のひとりがデビュー前のマドンナだった"(以上、『美術手帖No.735』/テキスト・滝本誠)

白人と黒人。彼を中心に取り巻く「わたし」と「他者」の間にある断絶と空間。そのイデオロギー、あるいはエピステーメーの平面上の戦い(FLAT FIELD)。彼はその地平が開かれる空間そのものを、すっかり塞いでしまおうとしていた。いや、最初からそのようなものは、彼の目には見えていなかったのかもしれない。
少なくとも、アーティストとしての活動初期の頃の彼には、人種差別など眼中になかったに違いない。
バスキアは、己の中に空白を見つけたら、それを塞がずにはいられない人間だった。食事中のアンディ・ウォーホルにいきなりポストカードを売りつけに行ったりしたのもそれと同様の心理からだろう。
白人と黒人。庶民とスター。バスキアの目は、そこに分裂を見ない。対立を見ない。それらのものを見るのは彼と彼の作品を見る他者の目である。「白人のウォーホルを黒人に演じられるわけがないじゃないか」「無名の黒人アーティストが、美術界に受け入れられるわけがないじゃないか」と考えるのは、彼以外の者の観念(idea)である。そこにあるのは実在的な断絶ではない。そこにあるのは観念である。それは、イデオロギーによって染められている。バスキアは、その色を決してキャンバスに塗らない。


7

現在、バスキアの作品の評価は、二重性を、あるいは多重性を持ってわたしたちの前に提示されている。

鑑賞者の印象としてのそれ、と批評家の観念としてのそれ。あるいは、批評家の評価を知ったあとの鑑賞者によって反省された印象としてのそれ、とバスキアと共通の被差別的要素を持ったもののシンパシーを感じている鑑賞者の観念の写しとしてのそれ。鑑賞者は、あらかじめ仕入れたバスキアに対する情報が、バスキアの作品に表現されていることを期待する。彼らは、バスキアの作品を見ながら、自身の持つ情報とそれを照らし合わせる。彼らは、あらかじめバスキアを鑑賞するための意味の場を、己の中に用意している。そして、バスキアの作品は、その中で現象する。人々の意識の中に、バスキアの作品の出来の悪い模写が、次々と作られていく。印象と観念、作品と評価の間にある空白が、"事実陳述を支援しこれに根拠をあたえる価値構造"によって、"ある特定の社会集団が他の社会集団に対し権力を行使し、権力を維持していくのに役に立つもろもろの前提"によって埋められていく。そして、バスキアの作品の価値は跳ね上がり、ディーラーは大儲けする。被差別者は、差別者を断罪する。彼の作品の意味を暴いた批評家は、それができなかったものたちに対して権威をふるう。その間も、バスキアは墓場の中で眠り続け、作品は何も変わることなく、わたしたちの前にその魅力的な表面を向けている。

わたしは非常に若い頃にバスキアの作品を鑑賞し、それに惚れ込んだ。わたしは子供だった。そして、20年間、わたしとバスキアの作品の関係は、何冊かの図録を通してのみ築かれていた。その間、わたしは、バスキアの作品に関するあらゆるニュースに耳を貸さなかった。そして、最近になって初めてそれを耳にし、愕然としたのだ。
他の画家の絵ならば、いくらでも徴候的読解(symptomatic reading)をするがいいだろう。彼らの作品は暗闇の中から生まれるのであり、光を当てられるのを待っている。しかし、バスキアの作品は、初めからスポットライトの下に生まれたのだ。

最後に

"描き始めて、それを仕上げるだけだ(I start with a picture and then finish it.)"

とバスキアは言ったという。彼がそれを言ったということは、それを聞くものがいたということだ。彼は、いつ、どこで、誰にそれを言ったのだろうか。なぜわざわざそんなことを言ったのだろう。絵は、描き始められ、いずれ仕上げられる。当たり前のことだ。中には『ジョージ・ワシントンの肖像画』のように未完成のままで残される作品もあるだろうが、画家が仕事として絵を描き始めた以上、仕上げられるのが普通である。この言葉は、どこで「仕上がった」と言えるのか分かりにくいバスキアの絵を、作者本人が皮肉ったものだろうか。そうとも受け取れる。しかし、こういう風には考えられないだろうか。彼には、是非ともそれを言う必要があったのだ、と。

バスキアは、制作中にチャーリー・パーカーのレコードをかけていたという。今ではジャズの巨匠という評価がすっかり定着したパーカーだが、彼の音楽はもともと、労働に疲れ果てた黒人の仲間たちを踊らせるためのものであり、それ以上の意味はなかった。

"都市の黒人コミュニティの最深部の小さなクラブで演奏を始めたビ・バップは、黒人が黒人のために演奏する最初のダンス音楽だった。ビ・バップのシンボルであるパーカー自身が、馬のように食い、鯨のように飲み、ウサギのようにセックスし、ドラッグに浸りながらビ・バップをプレイし続けたことからもわかるように、ビ・バップとは黒人たちが酒とドラッグに酔いながら、踊り、セクシュアルな欲望を満たすための、下品で即物的な音楽だったのだ"(『ジャズとビートニク』小野打恵/『ジャズを見る』所収)

チャーリー・パーカーがディジー・ガレスビーと供に生み出したこの「ビ・バップ」という奏法は、その名からしてスキャットの「意味のない」言葉の羅列から取られている。しかし、このアルコール、ドラッグ、セックスと同義的な存在価値を持つものとしての「音」の即物性とは、一体何のことだろうか。
物が物として現れる、あるいは、音が即、物として現象するためには、それが既知のものであってはいけない。言い換えれば、聴かれた音が観念連合のコレクションとして内的に見出されるならば、それは決して即物性を表現しないだろう。常に新しい音を、誰も効いたことのない音を出し続けること。観念の連合から逃れ続けること、常に印象を生み続けること。強権的な観念論(idealism)の支配の外の音、常に新鮮で、捉えどころがなく、意味の場の解釈を許さない音楽。それが、パーカーの指向した表現(expression)だった。
即物性における「物」とは、対象化された客体の同一性のことではなく、またそれを対象化する主体の同一性のことでもなくて、それらの関係が成立する前に、そこに空いた隙間を高速で走り抜けることである。

その表現は、それを解釈しようとする人々には、「難解」と受け取られた。もちろんそうだろう。性欲動の即物性を理解するためにフロイトやラカンがいかに多くの論文を書いたか、観念から逃れ去ろうとする精神の運動を描写するためにデリダやドゥルーズがいかに多くの言葉を尽くしたか、を考えれば、即物性がいかに論難なテーマかが分かるだろう。
しかし、パーカーの音楽は、実際には「聴くだけ」で良かったのであり、パーカーは「演奏するだけ」だったのである。そして、バスキアは、"描き始めて、それを仕上げるだけ"だった。
もちろん、バスキアが制作中にパーカーの演奏を聴いていたからといって、両者の表現を等号で結ぶことなどできない。しかし、必ずしも両者の共通点を「黒人」というところに見出すことはない、ということぐらいは分かるだろう。
多くの場合、エンターテイメントとは観念に発し、また観念に帰着することだと考えられている。ジェットコースターは、どのようなコースを走っても、必ず発着所に帰ってくる。どこに行くか分からない、もしかするとクラッシュするかもしれないのであれば、それはエンターテイメントではないのである。そのようなことを行うのは、冒険家やカーレーサーの「仕事」である。パーカーやバスキアは、それをやっていたのだ。
複雑さを増していくコード(code)進行、あるいはその羅列。それは、純粋に知性的な営みである。しかし、意味を生み出すためのものではない。それらの”知性”は、”利害的関心を反射”させないのである。
彼らが鑑賞者に求めるのは解釈ではない。常に新しく生み出される印象を感じること。要するに、「見るだけ」である。

わたしもまた、あまりにも多くの解釈をし過ぎてしまった。


※1=新写実主義者たちは、バスキアの絵を見てこう言うだろう。「キャンバスがあり、その上に絵の具が塗られている」と。あとは絵の具の種類や成分についての話でもするだろうか。あるいは、彼らはこう言うかもしれない。「これはなんとダイナミックな絵だ!」「鮮やかな色彩が素晴らしい!」と。彼らは、サーカスか、そうでなければお花畑でも見ているのか。新写実主義者たちには、バスキアの作品を鑑賞することは、決して出来ないのである。


#芸術 #批評 #芸術批評 #art #artist #芸術家 #美術 #絵画 #哲学 #批評 #バスキア #ジャンミシェルバスキア #basquiat #ニューヨーク #ソーホー #SOHO #新表現主義 #表現主義 #シュルレアリスム #アンディウォーホル #ウォーホル #andywarhol #美学 #80年代 #80th #消費社会 #印象派 #ヒューム #ドゥルーズ #チャーリーパーカー #バロウズ #ムンク #アンゼルムキーファー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?