深読み_スプートニクの恋人_第10話あ

『深読み 村上春樹 スプートニクの恋人』第10話「さくらんぼの実る頃」


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フランス、ブルゴーニュ
佳世実のホテルの庭にて


本当に素敵なお庭…

あの鳥たちにとっても、ここは楽園ね…

あれはウグイスでしょ… あっちのは何という鳥かしら…


あ!さくらんぼ!

取って食べちゃっても大丈夫かな…

誰も見てないし…


よし…


あらあら。お行儀の悪い子ネコちゃんね…

え!? あ… 佳世実さん…

まだ熟してないわよ、そのサクランボは…

何事も急いてはダメ…

その時が来るのを待つの…

私、生まれも育ちも山形だから…

さくらんぼを見ると、居ても立っても居られなくなってしまって…

ふふふ。

あと少しすれば、酸っぱくて硬い実が、とっても甘美な味に変わるの…

ワインを寝かせるのと一緒。

あ、佳世実さん…

そのさくらんぼの耳飾り、素敵です…

どうもありがと。

じゃあ、あたしと「おそろい」にしよっか…

あなたみたいに初々しい、このサクランボで…

あ… …

こうしておくと、若い実もすぐに食べ頃になるんですって。

こっちのおまじないみたいなもの。

佳世実さん…

ほら、ウグイスもツグミも戻ってきた…

みんなサクランボが大好きなのね…

ああ、あれはツグミだったんだ…

佳世実さん、鳥にも詳しいんですね。

あたしね、生まれた時「つぐみ」って名前になるところだったのよ。

え?

双子の妹だったから「次の娘」って意味で。

適当にも程があるわよね(笑)

佳世実さんも双子だったんですか…

実は私も…

あら、そうなの。奇遇ね…

だから一目見てすぐにあなたのことが気になったのかな…

お互い、さくらんぼ同士だから…

かもしれませんね。

ああ、もうこんな時間。きっとお迎えの車が待ってるわ…

行きましょ。




シックなレストランにて



ごめんなさい、着替えてたらちょっと遅れちゃって…

あばあちゃん、今夜はディナーに御招待していただいて、どうもありがとう。

Mil años después de una horrible guerra apocalíptica conocida como los "Siete días de fuego"!

クリちゃん、なんて言ってるの?

「あなたの美しさは激しい炎のよう。七日間で世界をも焼き尽くすだろう」ですって。

あら、おばあちゃんったら…

ラテン男の口説き文句みたいね(笑)


どうしたの?

あなたを見て何か驚いてるみたいだけど…

”Vestido de azul que caminará sobre un campo de oro para unir los lazos con la Tierra y finalmente guiar al pueblo a las tierras purificadas…”

なんて言ってるの?

「その人は… スミレ色の服を着て… 黄金色に染まったライ麦畑にやって来る…」

なんのことかしら?

彼女の故郷で昔から語り継がれている、古い言い伝えです。

すみれ色の服を着たお嬢さんを見かけると、いつもこれが始まるんですよ…

あ、はじめまして…

私はクリ… 花笠クリと申します…

こちらこそ、はじめまして…

コーエンと申します。

そしてこちらのレディが、彼女が惚れ込んでいる噂の女神様ですね…

お会いできて光栄です、マダム・カヨミ…

おばあちゃんたら、あたしのことそんなふうに吹聴してるの?

もう五十なのに女神様だなんて、恥ずかしいからやめて頂戴。

(ニコニコ)

ところで、コーエンさん…

あなたのこと、どこかで一度お見かけしたような気がするんだけど…

気のせいでしょう。

あなたのような美しい方とお会いしていれば、私が忘れるわけがないはず…

ああ、思い出したわ。

イギリスの旧ダーリントン伯爵邸で行われたオークションの時ね。

あなた、この日の目玉だった絵を、最後まで競り合っていた。

おやおや。世間は狭い。

あなたも私と同業、画商でしたか。

画商ってほどではないけれど…

絵の他にも、まだ日本で知られていないヨーロッパのワインや音楽家なんかにも先行投資してるの。

それは随分と手広くやってますな。

本業が今、ちょっと厳しいから…

うちの会社、韓国と半導体を取引してて。

ああ、かなり大変のようですね。こちらでも話題になっています。

Una noche, durante la visita del Maestro Yupa, un avión de carga del reino de Tolmekia se estrella en el Valle!

ははは。確かに。

こんなふうに立ち話をしていたら、いつまでたってもマエストロ・ユパの芸術的な料理が出て来ませんね。

しかも今夜のメインディッシュは、氏の代名詞ともいえるトルメキア風です。

あのマエストロ・ユパ?

あたしの泊まってるホテルのこんな近くに店を構えてるなんて知らなかった。

すごい。楽しみだわ。

さあ、席について、この素敵な夜に乾杯しましょ。




これ凄く美味しい… シャコかしら?

オオグソクムシです。

オオグソクムシ!?

どうしたの? 固まっちゃって…

さすがマエストロ・ユパ… 食材選びも斬新よね…

ムシャムシャ…

ところで、あなたたち二人を見込んで、ひとつお願いがあるのですが…

お願い? あたしたちに?

何かしら?

私の所有するギリシャの別荘を、この夏の間、使っていただけませんか?

ぜひ、お二人で…

ギリシャの別荘を? あたしたちに?

あたしは、構わないけど…

クリちゃんは? この先、旅の予定はある?

いえ… 私も特に予定は決めてないので…

はい、大丈夫です…

それは良かった…

その別荘はトルコ国境近くのパトモスという小さな島にあるのですが…

また今年の夏も行けそうになくて…

家というのは、誰かが住むことが一番のメンテナンスなのです。

それに誰も来ないと、向こうの管理人もすぐに手を抜きますからね。

もちろんお金はいただきません。私からのお願いなのですから…

パトモス島…

もしかして、イエスに最も愛された弟子ヨハネが黙示録を書いた島?

さすが、よくご存じで。

リゾート地としては有名ではないですが、静かで実にいい島です。

でもなぜ、あたしたちに?

あなたたち二人の話を聞いて、こんな相応しい人たちはいないと思ったからです。

あたしたち二人の話?

お互いに当てもない一人旅で、数時間前に偶然出会った関係ってことが?

はい。

あなたたちは孤独な旅人、まさにロンサム・トラヴェラーですから…

それ、ジャック・ケルアックですね。

フランス系カナダ人移民の家に生まれた、戦後アメリカを代表する作家の…

スプートニクだっけ?

えーと。ビートニクです。

スプートニクとはロシア語で「旅の道連れ」という意味…

まさしくあなたたち二人こそ、ロンサム・トラヴェラーにしてスプートニク…

これほどあそこに相応しい二人はいまい…


あの…

ムッシュ・コーエン…

なんだね、スティーブンス君。

マエストロ・ユパが、そろそろムッシュ・コーエンに一曲歌ってほしいと…

やれやれ。

歌?

この店の者や常連客は、皆ムッシュ・コーエンの歌の大ファンなんです。

明日ムッシュ・コーエンがこの地を発ってしまうと聞いて、どうしても最後に歌って欲しいと…

では、リクエストに応えて、一曲だけ歌うとしようか…

愛するこのブルゴーニュの地、そして今宵出会えた美しい女神たちのために…




パチパチパチパチ!

あたし、この歌すごく好き。

歌詞にダブルミーニングや駄洒落が駆使されていますよね。

2番なんてトリプルミーニングです。

「factory」を発音する際に「fuck」と強調することで、続く歌詞「lock and key」が性的結合の意味になります。

そして「rock and key」の駄洒落でもあり、こちらでは使徒ペトロを想起させています。

歌全体を通して「性と聖」が同時に歌われているわけですね。

・・・・・

ハッ…

すいません… なんだか興奮して喋り過ぎちゃいました…

いいのよ。

あなたも、こういう「ややこしい」のが好きなのね。

いえ… まあ… 芸術的というか…

いかがでしたかな?

その美しきお耳を私の歌で汚してなければいいが…

素敵でしたわ、ムッシュ・コーエン。

乾杯しましょ。

では、チンチン。

チンチン…

あの…

なんでしょうか? マドモアゼル…

そのパトモス島のコテージって、どんな感じのところなんですか?

ああ、まだ見せていませんでしたね。

こんなところです…

(スマホを手渡す)

わあ!すごい!

素敵ね…

山の裏手には美しくて静かなビーチがあります…

地元の者も皆、裸で泳いでいるんですよ…

あなたたちも、ぜひ。あの海を見たら水着なんてバカバカしくて着れないですから。

は、裸!?

ヌーディストビーチですか!?

日本やアメリカには、ほとんどないもんね…

でもこっちでは当たり前。

生まれたままの姿で一緒に泳ぎましょうね、子ネコちゃん(笑)

いや… でも… わたし…

ふふふ。

ところでムッシュ・コーエン…

先程は、あたしたちが「ロンサム・トラヴェラー」で「スプートニク」だからあそこに相応しいって仰ったけど、それはどういう意味なのかしら?

かつて、あの家は…

まさに世界中から「ロンサム・トラヴェラー」たちがやって来る家だったのです…

定まった居場所をもてない孤独な旅人たちがどこからともなく来ては、傷ついた翼を休め、精気を養い、また世界へと旅立っていくところ…

時には「旅の道連れ」を得て…

それって、もしかして…

アーティスト系のゲイの人たちの…

その通りです…

あの家は、私の古くからの友人であった画家テディ・ミリントン・ドレイクが所有していました…

彼は名門家の出で、父上は大英帝国の高名な外交官…

社交界に幅広い人脈をもち、彼自身もバイセクシャルであったため、彼の周囲には自然と性的少数者が集まるようになりました…

しかし1950年代当時のイギリスでは、まだLGBTは人目をはばかる存在…

そこで彼は偶然見つけたパトモス島の古民家二軒を買い取り、美しく改装し、自身のアトリエ兼、孤独な旅人たちにとっての憩いと出会いの場にしたのです…

テディ・ミリントン・ドレイクって…

あの、さすらいの作家ブルース・チャトウィンの彼氏だった人?

Bruce Chatwin

さすがマダム・カヨミ…

よくご存じで…

ブルース・チャトウィンはよくパトモス島を訪れ、あの家でテディ・ミリントン・ドレイクと愛し合っていました…

カズオ・イシグロが『日の名残り』でブッカー賞をとった1989年の前年…

サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』が大騒動になった1988年のブッカー賞に、ブルース・チャトウィンの小説『Utz(ウツ)』もノミネートされていたわよね…

そして年明けの1989年1月、チャトウィンはAIDSで急死してしまう…

その5年後、テディ・ミリントン・ドレイクもAIDSで亡くなりました…

そして私があの家を引き継ぐことになったのです…

私は他の島に物件を持っていて、ギリシャの不動産事情に明るかったものですから…

そうだったの…

あのチャトウィンが恋人と愛し合っていた家だったなんて…

・・・・・

あの家は、ロンサム・トラヴェラーがスプートニクを得るところ…

この旅があなたたち二人にとって、思い出深いものとなりますように…

どうもありがとう、ムッシュ・コーエン。

それでは最後に乾杯しましょう。あなたの古き良き友人のために。

いい奴は、みんな死ぬ…

友よ…

乾杯。

乾杯。

乾杯…

Famosa cantante que actúa en el hotel Adriano del cual también es propietaria!

え?

Ha enviudado tres veces, todos sus maridos fueron pilotos. Está enamorada de Porco Rosso aunque lo oculta!

ねえクリちゃん…

おばあちゃんは、あたしに何て言ってるの?

あ… えーと…

「アドリアーノ音楽祭で聴いたあなたの歌が忘れられない… 頼むからもう一度聴かせて欲しい… このまま聴けずに帰るのなら、ローストポークにされたほうがまし…」

アドリアーノ音楽祭? あなたの歌?

いったい何のことかしら?

あら、おばあちゃん…

あたしのことを知ってたんだ…

え?

あたし… 音楽やってたの…

もう30年近くも前のことだけど…

そうだったんですか?

フランスに音楽留学して、いくつも音楽祭で入賞したわ…

そしてアドリアーノ音楽祭では優勝を飾った…

その時おばあちゃんは会場であたしの歌を聴いてたのね…

あの、海にポツンと浮かんだリゾートホテルで…

覚えててくれて、嬉しい。

(ニコニコ)

なんという運命のいたずら…

私もぜひマダム・カヨミの歌を聴いてみたい…

これも何かの縁ね…

いいわ、おばあちゃん。あたし、歌う。

(ニコニコ)

じゃあ、ピアノの人、伴奏お願い…

歌は『Le Temps des Cerises』…







帰りの車の中


どうしたの、子ネコちゃん…

ずっとボーっとして…

え?

あの… その…

素敵でした… 佳世実さんの歌…

どうもありがと。

あ、そうそう。あなたの部屋、とっておいたわよ。

あたしの部屋の隣が丁度あいてたから。

え?あ、ど、どうもありがとうございます…

ふふふ。

ワイン飲み過ぎて酔っ払っちゃった?

い。いえ… そういうわけじゃ…

明日チェックアウトしたら、ギリシャに向かうわよ。

お寝坊しないように。

はい。

だけど不思議ね…

今日のお昼までは全くの見ず知らずだったのに…

明日からはギリシャの島の素敵なコテージで一緒に暮らすなんて…

私… こんなこと… 初めてです…

あたしもよ(笑)

よろしくね、可愛い子ネコちゃん…




花笠クリの部屋


ハァ…

何なんだろう、この展開…

いろんなことが起こり過ぎて、なんだか夢の中にいるみたい…


それにしても佳世実さんの歌、ドキドキしたな…

オトナの女って感じがした…


あ!さくらんぼ!

耳にずっとつけたままだったんだわ!


もう熟したかな…

食べてみよ…



モグモグ…

やっぱりまだちょっと酸っぱい…


けど、おいしい…



つづく





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