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真面目で、平凡で、退屈で(エッセイ⑥)

真面目で、平凡で、退屈。

先日参加したTwitterのスペースで、「もし今の自分が新卒として就活するとしたら、強みは何か」という話になった。
面白いな、と思った反面、自分の強みを言語化したことがなかったので、難しく感じた。

私の強みは何だろう。塾講師として考えるなら、中学受験から大学受験、そして英語と国語の二つの言語科目を、「指導経験がある」というレベルではなく、現在進行形で同時進行で指導していること。そしてそこから得た多角的な視点。こんな具合だろうか。もともと分析して、情報を整理することは好きだったので、科目や対象が変わってもそれは活かせているとも思う。

ふと思った。私の人間としての強みは何だろう、と。

幼少期から現在に至るまで、関わる人々に言われるのは「真面目」であるということ。褒め言葉として贈られることが多く、ありがたいと思う。自分でも、まあ確かに真面目だな、と感じる。

ではそれが長所だと胸を張って言えるかというと、そう単純ではない。どちらかというと、真面目であることは、ある時からコンプレックスになっていたと思う。

多分それは大学生以降だと思う。周りとの温度差を感じたり、話題が合わなくなったりするのを徐々に感じ始めた。

いつしか「真面目だよね」が、「真面目すぎるよね」という表現に変わって投げられることが多くなった。

「真面目すぎる」。これはつい最近まで自分を縛る呪いの言葉だった。

塾講師の仕事を始めたころは、特に明るくて、冗談をよく言い、生徒を笑わせる、そんな人たちに囲まれた。自分が一層「真面目すぎる」、平凡でつまらない人間だと感じるようになった。(今もそれはある)
ないものねだり。隣の芝生は青く見える。自分にないものを持つ他者に人は憧れを抱く。しかし、それが行き過ぎると嫉妬になる。(小説の読解で生徒たちに話すこと)

だから自分は入試問題を解き、分析し、指導法を研究し、結果で勝負しようと躍起になっていた。もちろんそれが今の自分を作っていることは確かなので、結果的にはよかったな、と今では思える。

いくつかの塾を渡り歩き(?)、自分に合った環境を探し、今の勤務先にたどり着く。そこで出会った人、あるいはTwitterがきっかけで交流をするようになった先生方の話を聴くうちに、「ああ、自分の真面目さは武器なんだ」「それを自分が受け入れて、自分のスタイルを作っていけばいいのか」と思えるようになった。

個性や強みは、相対的なもので、自分が生きる環境や関わる人々によって変わるものだ。自分だけを見て、自分の内面だけ掘り下げても、探し求めた答えは見つからない。今の自分を受け入れて、視野を広げ、世界と自分を相対化すること。自分を知るのは思っていたよりも大変で、だけど、それはきっと自分をより強くしてくれる。

真面目で、平凡で、退屈で。だけど、いや、だからこそ、そんな自分を生きて世界と向き合い続ける葛藤があり、それが私という人間を形作っている。いつからか、それを受け入れて強みだと言えるようになった。自分を縛っていた呪いは、いつしか祝福に姿を変えていた。

お読みいただきありがとうございました。

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