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アーバニズムと愛の不具合 恋愛(作品)評論シリーズ② ”蛙化現象”を考える🐸


ことばのはじまり

 蛙化現象とは、昨今インターネット上で若い世代を中心に使用されるようになった恋愛ワードである。最も有名な例として、好きだった相手がフードコートでキョロキョロしながら席を探す姿を見たことで恋愛感情を失い忌避感情に変わったというものがある。今年6月5日にシンクタンクのZ総研が発表したトレンドランキングによれば、Z世代間の流行語第一位はこの蛙化現象だった。Google Trendsでの検索結果を見れば、このワード自体は以前より存在し何度か話題になっては沈みの繰り返しで、最近になってここまで有名になったことがわかる。若者が使用するプラットフォームであるTikTokやYoutubeでは、各々が経験した「相手に冷めた瞬間」としての蛙化現象を取り上げられており、恋愛コンテンツとして人気を博している。そのこともあってか2022年末以降の爆発的な流行以降比較的高水準な人気度が維持されている。それ以前のコンテンツは非常に少ない。あげられるのは『蛙化現象に悩んでる女の子の話。』りりあ。(2020)という楽曲、『カエルになった王子様』我楽谷(2020)という漫画、あるいは無名のSSくらいだ。グラフ上の人気度が上昇した時期とこれらの作品が生まれた時期が合致するため、作品がこのワードを伝播する役割があった可能性は高い。

Google Trendsによる分析

 しかし、有名になるにつれてこの言葉の本来的意味が曲解されることが多くなった。本来の意味では「自分が好きになった相手が自分に好意を向けた途端に嫌いになってしまう」ことだったはずが、近年の解釈では単に「些細な事で恋人・行為を寄せていた相手に冷めた」ことになっている。そこでこの言葉を語る前に、それが持つ意味の再定義をする必要がある。現在確認できる蛙化現象に関連する論文の中で、藤沢(2004)以降最も新しい吉田他(2022)の論文とスライドを参考にする。そこでは、蛙化現象の定義をこう説明している。

⾃分⾃⾝が好意的に感じていた相⼿が(事前好意)、⾃分に対し好意を持っていることが明らかになると(好意の認識)、それがきっかけとなって、その相⼿に対して⽣理的な嫌悪感(生理的嫌悪感)を持つようになる現象

向けられた好意を拒絶することは 苦しいことなのか?(3) ――恋愛における“蛙化現象”の⽣起要因 としての個⼈特性の影響に関する 定量的検討―― 吉⽥ 光成 ⼭⽥ 茉奈 下⽃⽶ 淳

 つまり蛙化現象とは単なる相手への幻滅ではなく、好意を寄せた相手に振り向かれた瞬間に相手への嫌悪をはじめる恋愛における謎の現象である。吉田(2022)によれば、蛙化現象を起こすのは女性に限定されていない。だが、その母数と事例が少なく不確定要素が多いためここでは無視し女性特有のものとする。私見では、自信のない男性は女性と比較して好意を抱かれることが少ないため、自信がなくとも性的対象として見られることの多い女性にのみこの症状が発生するのではないかと考えている。これは後述する。

 また、似たような概念にリスロマンティックとぬいぐるみペニス現象と呼ばれるものがあるが、前者に関しては一種のセクシャリティに位置付けられており生理的嫌悪感を持つ蛙化現象と一致しない。詳しくは当事者である彼女のNoteを参考されたい。後者に関しては無害を擬態することに失敗した性欲(非モテの下心)への嫌悪感であり、これもまた一致しないので区別したい。

 他にも参考としていくつかの記事論文サイトを読んできたが、この現象を観測したり心情を羅列したりする以上の十分な説明が未だ為されていないように思えた。そこで、科学的観点から説明する論文は誰かに任せておいて、私はいろいろな角度からこの現象を無責任に、しかし網羅的に論じてみることにした。部外者の一般男性による妄言であるが、それが議論の発展に寄与するものと信じている。それでは、いってみよう。



人間を探る

 現在のまとめサイトだけでは実態がつかみにくく、言葉と概念だけが独り歩きしている。そこでBefore検索を使ってこの言葉が人口に膾炙する前の、純正な意見からその人間像を探っていく。Google Trendsのグラフにおいて大きな隆起を見せる前の小さな山が2018年だったため、2017年末以前の議論の中からその顔を見る。

 1つ目。Google Trendsには見られなかったが、2016年12月9日あたりにTwitterで名古屋みさと氏による蛙化現象の分析が話題となっていたようだ。彼女の分析では、「『自己肯定感の低さ』が起因している意見が8割くらいだったと思います。」とあり、一般に言われる内容と合致している。今は消えているがこのツイートへのリプライの共感を見るに、たしかに自分のことがあまり好きでなくあからさまに自信なさげだった。匿名のネット上(しかも2016年のカオスなTwitter)でほぼ全部が敬語でコミュニケーションとられているのを考えれば、そのおとなしさがうかがえる。

 2つ目。読売新聞が提供する女性向けナレッジコミュニティ。新聞社が運営していることから年齢層が高く、ネットサーフィンでは出てこない有益な情報があった。ここで多く見られた意見は年配の方による「私もそうだった」系の回答だった。つまりこれは若さゆえに発生する一過性のもので、蛙化現象という言葉で形容した2004年よりずっと以前から存在したことを示している。共感するコメントの中に目立つのは、女子高あがりで男性経験が乏しい、あるいは自身の未熟さが原因だったというものだ。

3つ目。匿名女性が赤裸々に両想いの気持ち悪さを語っている恋愛板。ここでは両想いという任務達成を目指して、恋愛というゲームを行う楽しさを語る人が多い。今までになく文章からは自信があふれ出ており、自己肯定感が低いこととは関係が無いように見える。思いが通じた後の相手への忌避感という意味では同じかも知れないが、その種類が少し違うのだろうか。印象的なのはこのコメント。「自己愛のかたまりw笑いました!まさにその通り。自分はまだイケてると実感する道具にすぎない、、、最低と思いながらもやっぱり任務完了と思ってしまう。こんなんじゃ絶対に幸せになれないと思って落ち込むことも何気にあるw」自己肯定感は低いけど自己愛は強い、というのは興味深いポイントだ。なんにせよ情報源が変わることでこうも違う見方ができるのも面白い。ここのコメントでは恋に恋していて、理想が高いからという意見が多数あった。こちらも現代の認識とあまり相違ない。

 これら純正な当事者の意見を見ると①「自己肯定感が低い」②「恋愛経験が乏しい」③「理想が高い」など、一般的に蛙化の要因とされているものに妥当性があると言うことができる。そのため今回はこの三つの要素に分けてその背景を考えていきたい。なお「過去にトラウマがある」等のあまりにも個別的で普遍性のない要因に関してここでは言及しない。



早めの結論


ファスト化する読者のために結論だけはじめに言う。カッコ内は後述。

(混合型)蛙化現象は 自己肯定感の低さではなく、自信の欠如に 未熟さや 理想の高さが相まって起こる (都市型)少女特有の現代病である。

①「自分を信じること」と「自分を肯定すること」

 蛙化現象と同様に「自己肯定感」という言葉も比較的新しい言葉だ。例によってGoogle Trendsに検索にかけると、2004年の蛙化現象造語の後に一つ小さな山があり2019年あたりから使用されることが増えていった若い言葉だとわかる。実際、この言葉は高垣という学者がドロップアウトした子供の心理状態を説明するために1994年に造語したという(wikipedia)。それに対し”自分を信じる”自信とは、従来から長い期間にわたって使用されていた。その代用として自己肯定という言葉が使われるに至った背景があるはずで、それと蛙化現象が起こることとが繋がっていると私には思えてならない。

 自信とは、「自分の能力や価値などを信じること。自分の行為や考え方を信じて疑わない(コトバンク)」ことだ。言い換えれば自身の身体・知・職業的スキルや、他者あるいは自身によって見出された存在意義を根拠にした、自己への不惑の信頼のことだ。この自信という言葉の定義からは、自分を信じるに足る根拠があり、その自信をつけるために何かしらの努力や考え方などの心理的土台を措定しているように感じられる。

 対して自己肯定感にはまだ辞書的に定まった定義は存在しない。そのため今回はワード検索で最も見られているサイトの解釈を採用する。自己肯定感とは、「【ありのままの自分を肯定する、好意的に受け止めることができる感覚】のことです。他人と比較するのではなく、そのままの自分を認め、尊重し、自己価値を感じることができる心の状態を指」す(LAFOOL SURVEY)。ここでポイントなのは、ありのままという言葉だ。自信が積立式にその根拠を希求するのに対して、自己肯定感という言葉はその感情の根拠を必要とせず何もない自分でも愛そうという”あるべき”理想的な態度だということだ。

 こうしてみると、自己肯定感が低いと悩んでいるのは当たり前のことなのではないかと思えてくる。人間は元来何も持たない。自分を肯定する根拠としてあらゆる取り組みをし、そこでの成功体験を根拠に自らを愛せるものだ。つまり自己肯定感の低さは単なる積み上げ不足による無能感(自信の無さ)であって、自身の精神に支障をきたしているわけではない。さらに言えば、自己肯定感という言葉の普及によって「(そもそもないのに)あるはずの感情が無い」という状況に陥っており、さらに自分を否定する悪循環を引き起こしている。また、自己肯定感が低いと自認したり発信したりする行為の中には、自己を肯定したい感情を孕んでいる。そのため自己肯定感が低い=自分が嫌いという式はあまり成り立たない。むしろ本来的に自分が好きでもっと好きになりたいけれど、その根拠がないことに苦しんでいるような気がする。

②夢、ロマンチズム。

 自己肯定感という言葉の幻想に触れ、ここでは理想について語る。誰にでも理想はあるものだ。しかし現実に直面して理想との齟齬に気付いたとき、頭打ちとなって現実を受け入れる過程に入る。だとすれば蛙化現象とはその”気付き”の過程に過ぎない。自らの想像が生み出した恋愛像と実像が乖離していることを知らせてくれるアラームだ。「君の想う最良に現実が追い付いていないよ」と親切に教えてくれる愛すべき心の現象なのかもしれない。

 ではなぜ蛙化現象が起こるほど理想が高くなったのか。変哲のない一般論だが古きはマスメディア、加えてインターネットの影響があるだろう。恋愛漫画・恋愛雑誌・恋愛小説・恋愛ドラマ・恋愛映画に恋愛サイト・・・。例をあげればきりがないが、こうしたものに経験のない若いうちから触れていると現実と異なる想像上での恋愛が脳内に組み込まれてしまい、理想が高くなってしまう。そこにインターネット上で共有される理想的な恋愛コンテンツが加わって、さらに理想が高くなる。アイドルばかり見て無類の面食いになるように、スタンダードがハイスタンダードとなってそこから抜け出せなくなってしまう。

 この高い理想の対象を考えることで蛙化のあるパターンを説明できる。蛙化の中でも、超イケメンだったらOKだったという例外的な話も存在した。これは理想の対象が自身のみであったためだろう。つまり理想的な自分を求める中で自分と同程度(醜悪)の相手を許容できなかっただけで、自分よりレベルが上のイケメンは容認し、相手にその理想をあてはめなかった場合だ。しかしこのパターンは稀であり、大抵は自分だけでなく相手及び世界に対しても理想を押し付けるため、相手がイケメンであっても冷めてしまうという蛙化の王道に行きつくのだろう。

 ・・・これだけではただの一般論でつまらないので、歴史的に見ていく。かつて家同士の見合い結婚が主流だった日本も明治~昭和時代をかけて西洋流のロマン主義的恋愛(真の愛を根拠にした結婚を目指す恋愛)を取り入れていった。言うなればこのロマンチズムの普及によって恋愛が解放されて自由になり、自ら望むものの限界が撤廃された。時代はまさに理想の青天井、際限なく求めるものを求める時代となったのだ。留意しておきたいのは、真の愛に必然的について回るのが、1対多数ではなく1対1の愛であるということだ。これは後述の生物的本能説にて重要になってくる。ここで、ロマン主義的な愛の特徴を引用する。

「ロマン主義的な愛は、視点のあからさまな二重性の中で構成されている、といわざるをえない。一方に、内在的な視点(恍惚を導く)が、他方に、超越的な視点(反省を導く)がある。【中略】ロマン主義的な愛に時間的な展望を与える視点は、極端に遠方の未来までを見渡すことができる超時間的=超越的な場所に捉えられているのである。このような過去と未来の双方に広がる持続の中で愛の同一性を保持しようとする態度の極限に、ロマン主義的な愛にしばしば付随する[本当の愛は永遠であるはずだ]という確信が現れることになる。」

『性愛と資本主義』貨幣の可能性と愛の不可能性 6 結婚=愛より 大澤真幸(1996)

 簡単に言えばメロメロ状態の恋愛をしてる自分とそれを審判する自分の二人がいて、その審判さえも理想的な愛のストーリーを作り上げてしまうようだ。現代恋愛において理想が高くなっている理由もなにも、我々が乗っかっている恋愛ホワイトベースたるロマンチズムが、既に理想のバイバインを行っていたのだった。自らの恋愛に物語を作りだすこのロマンチズムの特徴と、理想の外化によって世界を許容できない蛙化現象とは重なり合っている。こうして蛙化によって恋愛から撤退した者はその理想のサンドバックを探し求め、推し活と称してアイドルに行きつくのだった・・・。 

③童貞性で繋がっている

 3つ目の要素である未熟について。これは難しく考えることではない。異性への理解や性教育、失敗経験の不足などを挙げれば十分であろう。単に性的な経験が不足していて精神的にも未成熟であるだけの話だ。ただ、未熟ということは独立して考えられる話ではない。今まで述べたことは全て未熟さと繋がっている。自信のなさを自己肯定感という言葉を隠れ蓑にしたり、現実と乖離した理想をもっていたり、その理想の高さからまた自分を肯定する理由を失ったり・・・。少し次元のズレているものではあるが、これらは未熟さと相互に関係している。だからこそ蛙化現象は一過性のものであり「昔はそうだった」という意見が年配から下りてくるのだろう。

  • 自信の積み上げをせずにありのままという言葉に逃げる

  • ロマンティック思考による理想の高化

  • 性的精神的に未熟

 これまでの話をまとめてみると、面白いくらいにある言葉が似合う。そう、童貞だ。どう考えても女性が陥る童貞的思考である。(ここでは処女という言葉と区別している。)そう考えれば「だったら、男性童貞にも蛙化現象は起こりうるのではないか?」という意見が来るかもしれない。答えはYesだ。吉田(2022)が示したように、性別に関わらず蛙化現象は起こりうる。しかしその割合は圧倒的に女性に傾倒する。なぜだろうか。

畢竟、

 蛙化のベースはやはり自信の無さだと考える。自分を愛するに値する根拠の積み上げが無いために、自分すらも愛せない。そこに突然自分を愛していると囁いてくる異性が現れる。大抵そこに愛の根拠はない。自分ですらわかっていない自己愛の根拠を、相手が持っているはずがないと、そう知っている。だからその愛が理解できず、心がその相手を拒絶する。それが蛙化現象の気持ち悪さであり、心の声だと考える。

 もうお分かりだろう。これが蛙化男女差問題の根本原因だ。本来男性童貞に女性は寄ってこない。経験のある方は分かるだろうが、どんなに容姿が良くても自信が無い男はモテない。超特殊な例を除き。逆に容姿が悪くても自信があればなぜかモテる男もいる。つまり男性に蛙化が起こらないのではなく、起こりえないのだ。反対に女性童貞の場合は、なまじ未熟な若い女であるためその生物的魅力に寄せられて男が集まる。しかしそこにはたいてい性欲以外に愛の根拠はない。その虚空に向けらた愛情に対する違和感として発生するのが蛙化、つまり心の拒絶反応なのだ。

 こうして考えると、蛙化現象というものは悪いものでもない気がする。自分が体験した鬱病関して言えることだが、鬱などの感情は心の信号であって無根拠に発生するものではなかった。それは自分が本当に求めているものと実際に自分がしていることの差が著しい時にのみ発生する自分の心の切実な声だったのだ。その声をしっかりと聞いてやることで自我と心が熔解し一つの自分になることができて、以来自分の本当の幸せが分かるようになった。

 蛙化にも同じことが言える。その拒絶反応は自分の心の声で、無視していいものではなく、自分のために聞いてやらなければいけないものだ。その自分との対話を放棄してしまう未熟さがまだあるのなら、問題を解決することはできない。できないならせいぜい被害者を演じて逃げ続け、無作為な男から根拠のない愛をもらっていればいい。相手を傷つけ続けるタフな精神を持っているならば、どれだけ”自己肯定感が低”かろうが死ぬことは無いので安心してほしい。

 

~前半完~
ここまでは誰でも分かるように普遍的なものを探して書いてきた。これ以降は自分が調べものをする上で考えるようになった周辺的思考をまとめたものである。なのでここからは読まなくても差し支えない。でも見てほしいナ。

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本能で見下す”現代病”

https://twitter.com/mirey1221/status/807233498872365060?s=20より、二村ヒトシの解説。

 調べている時に見つけた一説によれば、蛙化現象には「怖がり型」と「見下し型」があるという。「怖がり型」に関しては、これまで述べてきた主要素である自信のなさと心身の未熟さでうまく説明できる。しかし、この「見下し型」からはどことなく自信を感じるし、その他の要素である未熟さと理想の高さだけで説明が付かないように感じる。そう思ったため考えたことをここに記す。(なお、私が定義した蛙化現象はこれら「怖がり型」「見下し型」をまぜて2で割った「混合型」蛙化現象に対するものである。)

 なぜ恋する相手を見下してしまうのだろうか?私はそこにロマンチズムの功罪を想起した。その功罪とは、先述した理想の青天井1 on 1 恋愛の普及のことである。そしてこの1 on 1 恋愛が生物的欲求とのズレを引き起こし、発現したのが「見下し型」蛙化現象である。下で詳しく説明する。

性淘汰

スペンサーによる「適者生存(Survival of the fittest)」とダーウィンによる「自然淘汰(Natural selection)」は有名であるが、ダーウィンが提唱したもう一つの論理はあまり知られていない。それは「性淘汰(Sexual selection)」というものだ。簡単に言えば、メスを巡るオス間の争い及びメスからの選択によって一定数のオスが淘汰され、子孫の身体・内面的特徴に特定の形質が出てくるというものだ。典型的な例として雄クジャクにのみ発現した羽の形や模様があげられる。だからこそ「ダーウィンの進化論は俗に〈生存競争〉と呼ばれるが、これは正確ではない。むしろ、〈子孫を残す競争〉であるというほうが正しい(『動物の性生活』蔵琢也)」のだ。蔵によれば生物オスは自らの子孫繁栄のために他オスを排除する方法をいくつも編み出したという。メイトガード(交尾相手を守る戦略)や交尾栓(交尾相手の生殖器を塞ぐ戦略)あるいはサディスト化(交尾相手に痛みを与え性交のインセンティブをそぐ戦略)などだ。

性選択進化説の謎;メスの進化はなぜ無視されたか?(http://k-hiura.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_a305.html)

一夫多妻制

 私は一夫多妻制もそうした戦略の中に入ると考える。オス側からすれば自分の子孫繁栄のために、他オスを排除できる。それに1対1のツガイでは運勢や体調如何によってその結果は左右されすぎてしまう。メス側から見ても弱いオスよりも強いオスに囲われて過ごしている方が生存の可能性は高くなる。子孫繁栄を最上目的とする生物にとっては一夫多妻制が理にかなっていると考えるのは不思議ではないだろう。

(略)ヒト以外の霊長類の約22%が一夫一妻であると分類 される。一夫一妻社会は、一夫多妻群と複雄群をあわせた群れ型社会 (複雌群) ほど頻繁に見 られるわけではないが、霊長類社会全体の中では相当の部分を占めている。 また、 哺乳類を通観した場合、 一夫一妻は約3%にすぎない。霊長類は小型 の食肉類と並んで、哺乳類の中で一夫一妻の配偶システムがきわだって多くみられる分類群なのである。

『一夫一妻の起源』長谷川寿一

 我々の先祖である霊長類は、他の哺乳類と比較して一夫一妻制を採用する割合が高いとしているものの、その数字は22%にとどまる。一夫多妻制は約8割の霊長類で採用されている効率的な制度であると言える。いやいや人間は、日本はそんなことなかったから関係ないだろ。という意見が出るかもわからないが、以下のように日本でも実質的な一夫多妻制度が採用されてきた過去がある。

古代ローマ法の一夫一婦制以来、歴史国家の婚姻法制は少数の例外を除いて一夫一婦主義を採用してきた(中略)が、男女両性に平等に一夫一婦主義を規定し、厳格な単婚主義の統制を実現した法制は稀であり、最も「近代的」な一夫一婦制を規定する近代資本主義婚姻法制も、女性の貞操だけに商品価値を付与する売淫や家父の姦通権(ごくさい近まで、家父は「姦通権」を有したのであり、妻の姦通現場において姦夫を殺害する権利と、自身は、家庭内外で適法に姦通する権利を内容とした。)を容認したことによって、事実上の一夫多妻、或いは売淫や姦通に よって補充されるところの、女と貧困階級に適用される不完全な一夫一婦制と評されてきたのであった。

『近代日本における一夫一婦制の発展』松本(1964)

 しかしこの制度も戦後と時代の変遷によって終わりを告げることになる。そこで輸入されてきたロマンチズム(真の愛による結婚=1 on 1恋愛)によって、男女の結びつきは市場原理に任されることとなった。つまり、”神の見えざる手”によって同レベルの男女が1対1のツガイとなるように設定されたのだ。ここで問題となるのは、今まで強者男性の庇護を受けられる位置にいた女性の居場所が失われることである。彼女たちは今までは自分より上のレベルの男性を一夫多妻制の名の元で狙えていたが、今では同レベルの相手としか関われなくなり、所謂ジャイアントキリングができなくなったのだ

 一夫多妻制において、メスは有能なオスに付き添うために無能なオスを選別する作業をする。その長い歴史の中でその行為自体が情報としてDNAに刻まれており、現代においてもその本能が発現していると考えられる。だから、自分と同じレベル(一夫多妻制社会では自分と釣り合わない相手)を見下してしまうのではないだろうか。理性のある現代的人間として、性格が好きだからとかイケメンだからとかいろいろな理由をつけて好きになろうと頑張るものの、「私”だけ”を愛してくれる」ことそれ自体が生物的に二流だとDNAが叫んでいるのかもしれない。人として、心としてこの人のことが好きという感情VS生物として、立場や身体的強さを理由に相手を愛する感情のバトルで、後者が強かったのかもしれない。あるいは、こうした自由恋愛が子孫繁栄という最上目的に適していないから、さらに上のレベルの男性を求めて欲しいというDNAの叫びもしれない。実際、少子化というのは先進国に多く発生していて、一夫一妻制が子孫繁栄の目的に合っているとは言い難い。いずれにせよ、これらは生物的本能と自分がやっていることとのズレが生じていて、その拒否反応が出ていることに相違ない。

 そしてこれは理想の高さと関連する。理想は高いままで、あるいは際限なく理想の高化が起きているため「なんで私にはこんなレベルの男しか寄ってこないのだろう」と、近いレベルの男性が自分に好意を向けてくる現実すら許せなくなってくる。こうした理想の青天井と相まって、1 on 1恋愛の普及が生物的欲求とのズレを引き起こして「見下し型」蛙化現象が発現するということだ。

 とても分かりやすく言えば、雑魚男(同レベル以下の男)を雑魚男として相手にしないで済んでいた一夫多妻制から1ON1でのイケメンの奪い合いとなり、自分に本来くるはずの強者男性がこないのに理想だけが高まり続けてしまい、雑魚男(同レベル以下の男)から向けられる愛を認められず拒絶してしまうということだ。

 ともあれ、これらは一生物としての生き方を脱ぎ捨て新しく「人間として」生き始めたここ数千年、さらには近現代の話だ。それが浸透してきた今だからこそ、その反動として生物的なものと現代的感情のズレが起きており、その形の一つが蛙化なのかもしれない。だから、蛙化現象とは現代病の一種であり、21世紀になって唱えられやっと名を与えられたのだと思う。



都市特有の現象

蛙化現象というワードの地域別人気度

 Google Trendsで蛙化現象と検索する時に、面白いものを見た。このワードを検索する地域が東名阪+北海道と、都市部とその郊外に集中していたのだ。この言葉自体が比較的新しい言葉で、新しい言葉は都市から流行りだすためにこういう結果になっているのかもしれない。あるいは人口が多く人数比率が高いのもあるだろう。しかしネットの時代、どの地域にいようが流行る言葉は流行る。流行語の話はどの地域のテレビでもやっているだろうし。とにかく、この地域差は何か特別な意味を持つのではないかと考えた。つまり、蛙化現象は都市部特有に発現するものなのではないか?ということだ。

「帝国的」生活

 都市・郊外での暮らしは、どんなものだろう?と想像してみる。日中は通勤先の大都会に向かい、超効率的な場所で日中を過ごす。生活拠点ははその場所よりは無個性でキレイで治安のいい場所。何をせずとも”勝手に”ゴミが回収されて、食糧も”勝手に”やってきてただ金を払えばいい。特に何の苦労もなくその生活を過ごすから、自分という存在はその地域に根差さない。近くにはショッピングモールが多くあり、クーラーのきいた室内で悠々と買い物をする。トイレや床も綺麗、それがなぜ奇麗なのかとか、その過程は目につかない。都市で生きることは、当事者でないということ。名前も顔も知らない誰かの仕事に乗っかって、楽な生活を送るということだ。マルクスらの言葉を少し曲解して借りれば、都市では誰かに負担を強いて快適に暮らす「帝国的」生活が送られている。それはまるで、巨大な屋敷の中で見えない使用人に面倒事を押し付ける貴族のようだ。

 都市はどんなところだろうか?全てが効率化され、不便を無くそうとする。資本主義にのっとり、高騰した土地は金を持つもの同士で売買される。さらに新自由主義化によって公営されていたものも民営化し、さらに超効率化が進んでいく。金持ちによって金持ちのための”最適解的な”街づくりが為され、それは九割九分排除を伴う。よくディベロッパーが描く再開発計画書には「人と人がつながる」「人間的暖かさ」など耳触りの良い言葉が並ぶが、そうしたものと都市とは無縁の世界であることに気付く。実際人情の街葛飾の柴又駅では、古き良き老舗の後釜に小奇麗で無機質な白い建物を建て、そこにチェーン店であるタリーズを入れた。宮下公園ではホームレスを追い出し、高級ブランド店やレトロ”風”飲食街を設けてテーマパーク化した。明治神宮外苑公園は現在、1000本の樹木を切り倒してショッピングモールにする計画が打ち出されていて、坂本龍一をはじめ多くの反対運動が起きている。

 『ノイズ文化論(宮沢)』では、酒鬼薔薇事件の現場である街に行ってその異常さに気付いたそう。その街は複雑に入り組んでおらず、全て計画的に設計されたニュータウン。汚いもの(ノイズ)が一切排除されていた計画的都市だった。そのノイズは例えば風俗街であったり、パチンコや競馬、汚いおっさんがやっている汚い店であったりする。そういったものがこの街にはなくて、あるのまっすぐ並んだ家々と、駅前に集中するチェーン店や百貨店のみだった。人間的汚さがまるでなく、汚いもの(ノイズ)はどこかへと追いやられていた。そうして排除されたノイズが集約し、形として現れたのが猟奇殺人だったのではないか、という話だ。今回の話はその話に少し似ている。ここでのそれは蛙化現象である。

(余談だが、このノイズが発散される場所は日本に特に無いように感じている。海外ではそれが爆発させる場所が海外にはある。それは広場だ。広場ではデモなどの意思表示やマーケットや祝いの場であり、学生と街、人と人がつながっている。文句があればそこに集まり、楽しいことがあればそこに集まり、話したければそこに集まる。そこでは住んでいる街と住んでいる人との繋がりがあって、本当の人の顔が見える。綺麗なものに限らず汚いものも人と結びついて学習され、理想だけじゃない人間というものが分かる。一方で日本には、特に東京にはこの広場が無い。政治に文句があっても集まる場所が無いし、むしろ排除されている。祝うにしても渋谷の交差点くらいで、そこは地域と最も結びついていない若者の街である。新宿のトー横に行き詰った若者が集まれば、メディアはこぞって現状を報道して観光地とかした。さらに歌舞伎町タワーを建てて人を集め、彼らの集まる場所は消え去った。
日本の都市には、こういったノイズとされるものの爆発する場所が無いのだ『都市の爆発(若桑みどり)』。しかしそういった歪は、何かしらの形で現代的な現象として現れるものだ。)

 都市に移り住んだ者はまだいい。しかし、都市で生まれ育ちその生活が当たり前だと認識している現代の若い世代にとって、汚いものは見えない。見ていられない。そういう汚いものを相手しなきゃいけない現実を受け入れられない。実際都市出身の人間ほど虫を触れなければ、中にはごみをだすのもいやという人までいる。だから恋愛相手でさえそのささいな言動で失望するし、自分の嫌なところがめにつき嫌になるし、それが他者へ入り込む勇気を削る。詰まるところ、自信の無さや理想の高さや童貞性の根本が、都市生活によって必然的に発生するであるように思う。汚いものの徹底的な排除によって生まれた副作用として、蛙化現象は捉えられる

楽園の消失と理想の一本化

 『午後の曳航(三島由紀夫)』は、楽園を求めた少年達の話。そこは埠頭の隠れ家的な、大人たちから最も遠く邪魔されない場所だった。資本などは縁遠く、自由勝手に人が人として作ってきた居場所だった。汚くて人間臭くてどぶ臭いけれど楽園だった。そんな彼らの唯一の居所は、最終的に奪われてしまう。そして少年たちは人を殺す・・・。原宿は少女たちの理想郷。女性化した街だった。多様な趣味をもった人間がいて、多様な商売があった。そこではそれぞれの感性が尊重され、オープンでクローズドな文化圏だった。とにかく自由で、これらは草の根文化だった。しかし、そこに目を付けた資本家の参入によって文化は崩され、チェーン化した。そして少女たちの楽園はなくなった。そして少女たちは自殺配信で自らを殺す・・・。

 これは『都市という廃墟(松山)』の話の意訳で、松山はそれを急増した少年少女による自殺・他殺と結びつけていた。そこまでは言うつもりはないが、しかし居場所が崩されて人との結びつきを壊されたことは誰にだって経験としてあるはずだ。身近な例では、再開発された路地裏や高架下、駅前ショッピングモールに淘汰された商店街などもそうだ。人々の憩いの場は自らの手によってつくられることに意味があって、その時にのみ自分と世界とが接続している感覚を得るのだ。新自由主義とか効率化とかによって無駄な場所とされたものは、人間が人間らしくあるために必要だが数値化できないものだった。

 では、そういった理想郷は全てなくなったのか?と言われればそうではない。居場所を失った若者たちは、それでも理想的な世界を夢見続け、その需要を満たすものがある。ただその場所は東京という都市において一つしかない。ディズニーランドだ。1983年の開園以来、ディズニーランドが若者の理想の形を一手に担い始めるのだった。すると少年少女の楽園というイメージは画一化し「皆の理想」が自分の理想になる。まるで全員が同じ映画をみて同じ感想を抱くように。まるで全員が一つの恋愛作品をみて理想の彼氏像を共有するように。

 しかし、ディズニーはこれまでの楽園とは違う。理想があるだけ、排他的で大人が作った商売資本道具だ。観客に主体性はなく、だからそこに夢見る人は大人になるまでの過程で必要なものが醸造されない。園内は綺麗で、美しい。ゴミも見えるところにないし喫煙所も見せない。理想的で、それ以外の汚いものは見なくていい。実際、ウォルトが愛国者で赤狩りに奔走していた保守主義だったことなんて誰も口にしないし、西部開拓のインディアンの掃討の象徴たるウッディの話を知ろうなんて思わない。ディズニーに買収された映画フレンチ・コネクション(1971)では、差別的な表現がポリコレの名の元で消されたのも関係のない話ではない。みたくないものはみない、みせない。そうして理想以外の排除が常態化し、その理想は都内の若者の中で共有されてきたのだった

=ディズニーランド症候群

 蛙化現象というのは都市型少女に発現するディズニーランド症候群と言ってもいい。汚いものを外化+排除し、ビジュアルに全振り、夢を見るという世界設定・・・。すると理想がガチガチに硬化してしまい、自信(積み上げ)がなくとも、誰かが勝手に作った理想郷であぐらをかける。無論これらの背景には未熟さが宿っている

 理想だけが高くなり恋愛相手に高いレベルを求めるが、自分は楽園に閉じこもり競争に晒さない。主体性もなく何もせずにいるから、求める相手とのあらゆる面でミスマッチが起こり、そこに違和感も起こる。そうして自分で自分でなにをするでもなく「自己肯定感」という安い言葉に逃げては被害者ずらする部分も、悲劇のヒロインとしてストーリーを構成する部分も、蛙化=ディズニー症候群と言える大きな理由だ。

 こうして蛙化の全条件を網羅し、それができあがる土壌をディズニーランドは完備しているのだ。ディズニー(ユニバ)の近隣に位置し、ネットの情報を過剰摂取する都市部にのみ蛙化が存在するのも納得できる。これは多少こじつけかもしれないが、ディズニーの運営会社であるオ●エンタルランドが、先述した明治外苑・宮下公園をつぶした●井不動産と、柴又駅にタリーズを入れた京●電鉄との合資会社であることも、どこかでつながっていると感じる。



おわりに

 また、馬鹿みたいに長い文を書いてしまった。これを書いている内に2個ほど授業の単位を落としている。血と汗の結晶であるこの文章、とくとご覧あれ。涙。

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