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「本物の読書」とは 【H・D・ソローの『読書論』】

本物の書物を本物の精神で読むことは
気高い修練であり、どんな修練よりも
読者にきびしい努力を強いるものだ。
それは昔の運動選手が
耐えたような訓練を――
ほとんど全生涯にわたる、
目的達成のための
絶えざる精神の集中を要求する。

H・D・ソロー著『森の生活』飯田実訳(岩波文庫)

H・D・ソローが言う「本物の書物を本物の精神で読むこと」と真逆な位置にあるものが、学校などでよく見かける「読んだ本の冊数を競う」読書指導でしょう。
以前、自分の教えていた生徒の中に、図書館で借りて読んだ本の冊数が一番だったことを自慢している子供がいました。
彼は、自分を大きく見せようと虚栄心を満足させるために読書を続けていました。
そのため、本から何かを学ぶというより、冊数を増やすことだけに注力していたことから、知識や教養が増えないばかりか、人間性が育まれることもありませんでした。
彼は、誰よりも本を読んでいるという自負があったため、人の意見を聞かず、何でも自分に都合が良いように考えてしまう鼻持ちならない人物となってしまいました。
このような読書は、「百害あって一利無し」の典型例と言えるでしょう。

「書を読む」ということは、厳しい修練であり、人が一生涯かけて、全身全霊を投ずるに値する営為です。
地位や名誉、権力やお金などに価値を置く人間が与り知らない、全く別次元の世界と言えるでしょう。
このような「覚悟」をもち、実際に書物と格闘してきた「時間の長さ」が、「本物の精神」を形成するのです。
ソローは、「本物の書物とは、古典にある」と言っています。

古代の古典を原語で読むことができない人々は、
人類の歴史について、
きわめて不完全な知識しかもてないに違いない。
ホメロスはもとより、
アイスキュロスやウェルギリウスなどの、
ほとんど朝そのもののように洗練された、
中身の濃い、美しい作品は、
かつて一度も英語で印刷されたことはない。
後世の作家たちは、
我々がいくらほめ称えようと、
古典作家たちの精妙な美しさや仕上げの見事さ、
さらにまた、生涯にわたる
その英雄的な文学上の功業と肩を並べることは、
まずめったにないのである。

H・D・ソロー著『森の生活』飯田実訳(岩波文庫)

ソローの時代、ハーバード大学では、ギリシャ語やラテン語などの原語で、ギリシャやローマの古典を読むことが学問でした。
元々、ハーバード大学では「神学」が学問の中心だったからです。
神学の書物は、ほとんどがラテン語で書かれています。
そのため、ラテン語が理解できないと、学問をすることができないのです。
オックスフォード大学やケンブリッジ大学でも、ラテン語の原書を読み、ラテン語でエッセイを書くのが学問であるという時代がありました。
ソローの言う「本物の精神を養う本物の読書」とは、ギリシャ語やラテン語で書かれた本を原語で読みこなす読書のことを指しています。
難解さ故に、それは厳しい修練であったはずです。
このような「本物の読書」を知らない人は、英語では表現することができない、ギリシャ語やラテン語で著された「ほとんど朝のように洗練された、中身の濃い、美しい作品」があることなど知る由も無いでしょう。

英語圏の人たちが「ギリシャ・ローマ時代の古典」を原書で読むことに匹敵するものは、日本人が「古文や漢文」を原文で読むことかもしれません。
『源氏物語』を始めとする
平安から続く「王朝物語」。
『伊勢物語』からの「歌物語」の系譜。
『万葉』や『古今』、『新古今』と続く
「和歌集」の伝統。
『平家物語』や『徒然草』などの
「中世仏教文学」。
芭蕉、蕪村などの「俳諧」・・・等など、
洗練された中身の濃い、美しい作品は、日本語(特に古語)で読んでこそ、その真価を味わうことができます。

六世紀の頃、日本に伝来した仏典や儒教の聖典は、日本人の精神の骨格を築いた「本物の書物」です。
『論語』『孟子』『大学』『中庸』といった儒学は、江戸時代に「武士道」という世界に誇るべき精神を育みました。
老荘思想や禅の思想は、茶道や華道、能楽などの崇高な精神性を持つ中世芸術として花開き、現代まで続いています。
杜甫や李白などの唐詩も、長く愛されてきました。
一人の教養人として漢詩を詠むという伝統は、少なくとも夏目漱石の時代まではありました。
日本における「本物の書物」とは、このような本や文献のことです。
これらを一生涯かけて読み、学んでいくことで、はじめて「本物の精神」を培っていくための修練修養となるのです。

果たして、どれだけ「本物の書物」に触れることができたのか。
自問自答する日々が続いています。





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