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妥協しないのがプロなのではなく、

『妥協しない』という言葉はかっこいい。

自分のこだわりを細部にわたって極限まで突き詰めていく、そんなイメージ。

例えるなら、絵描きが背景の木の葉を一枚一枚描き漏らさないような。
これぞプロフェッショナル、みたいな。

しかし、僕は最近こういう考え方に疑問を持ちはじめた。

僕がこだわりを妥協したくない分野は、おもに文章だった。

一文一文を丁寧にこねあげ、網羅し、完璧にしたかった。

ただ、そう意気込んで作ったものが完成したためしがなかった。

頓挫しているそれは、細かな木の葉が途中まで描かれただけの絵画だった。

画面の七割くらいは空白のままだった。


これはつまり『こだわりを妥協したくない!』という思いへの執着が、裏目に出たかたちなのではないだろうか。

そしてもっと言えば、完成し、公開されているものの多くはそんな執着を諦めた、いわゆる『妥協の産物』と言えるのではないか。

そう考えるようになった。

『妥協しない』のが、プロなのではなく、『妥協できる』のがプロなのではないか。

だから木の葉を一枚ずつ丁寧に書くよりも、木の種類について調べ上げるよりも、枝の本数を決めるよりも、先にやらなくてはいけないことがあるはずだ。

コストや時間、エネルギーなどと自分のこだわりを天秤にかけ、それが釣り合うところを見つけなくてはいけないはずだ。

僕の理性がそう告げていた。

もしも妥協できなければ、画面が木の葉で埋まってしまう。

僕が書きたいものは、そんな難易度の高いジグソーパズルみたいなものではなかった。


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