栗原心愛さんの死(9) おそろしい「学習性無力感」

▼2019年2月13日付の東京新聞に、心理カウンセラーの山脇由貴子氏のインタビューが載っていた。

山脇氏の論考については、先月、紹介した。

▼山脇氏は児童心理司として東京都の児童相談所で虐待事案を担当したことがある。その経験から、心愛さんの母親に、多くのDV被害者と共通する特徴を見出している。

「夫の暴力に対して何もしないことが一番の防御になると考える。『学習性無力感』という状態にあったと思うが、それで子どもを連れて逃げるという考えも、出てこなかったのではないか」

「(否定的な言葉の暴力を受け続けることによって)加害者が正しく、自分が悪いと刷り込まれる。何が正しいかを判断できなくなり、加害者に支配されてしまう

▼セリグマンという学者が「学習性無力感」という言葉をつくったが、わかりやすい例は、嘘の自白を強(し)いられて生まれる冤罪(えんざい)だろう。密室で警察や検察からさまざまな暴力を受けた人は、抵抗する気持ちがなくなってしまうのだ。「そんなバカな」「やってないことをやったと言うなんて、精神力が弱いからだろう」「非論理的だ」「自己責任だよ」などと思う人もいるだろう。

「学習性無力感」は、それらの主観はすべて間違いである、ということを明かす。

筆者は、検察の取り調べを受けて、結局起訴されなかった人に、そのときの話を聞いたことがある。その人は筆者が知るかぎり、かなり強い精神力の持ち主なのだが、その人から、何日も続く取り調べの最中、「やってもいない罪を認めたほうがいいのではないか。自白したら楽になるのではないか。楽になりたい」と思う瞬間があったと聞いて、心底驚いた。

▼山脇氏の「加害者の支配から抜け出すためには、『私が悪い』という思考から『私は被害者だ』と気づかせるべきだった」という指摘は、とても価値があり、重いものだ。

▼「学習性無力感」に陥ったのは母親に限らない、と山脇氏は指摘する。

〈抑圧下に置かれたのは母親だけではない。女児が暴力被害を訴えた小学校のいじめ調査アンケート結果のコピーを父親に渡した市の教育委員会も、同校も、児相も同じという。「みな父親のいいなりになった。これで許されると思ったんでしょう」と語気を強める。〉

▼山脇氏は「行政が母親をケアした形跡がない」ことを指摘する。その8で紹介した、上間陽子氏の寄稿文と重なるが、

女と子どもの声を聞き取るものは誰もいない」状態が、重要な局面で繰り返しあらわれた。

▼そして、母親へのケアもなかったのだが、父親へのケアもなかった。

たとえば、こどもが一時保護を受けている時、加害者である親を治療する必要があった。何もしなければ、こどもが戻れば、必ず再びDVは起きてしまう。当たり前の話だ。

▼そもそも、ほとんど突っ込まれていないのが、千葉県野田市の教育委員会にしても、柏の児相にしても、その他の組織も、心愛さん本人に確認せずに、もしくはまともな確認をせずに、なぜ大切な手続きを進めたのか、という点だ。やはり山脇氏の指摘どおり、最も重要な心愛さんの意思を二の次にして、「これで父親の暴力から解放される、許される」と思ったのだろうか。

▼この記事には重要な指摘が多い。

▼「全国女性シェルターネット」というNPO法人共同代表であり、広島大学准教授の北仲千里氏いわく「DVがある家庭には児童虐待があるか疑い、逆の場合もそうだ。だが児相は、子どもへの虐待に対応しても、DV被害については、支援できる専門知識のある職員がいない。親子一緒に救うまでの対応はなかなかできない

▼東京都国立市の「くにたち夢ファームJIKKA(ジッカ)」を運営する遠藤良子氏いわく、

〈加害者が逮捕されるなどめったにない。「加害者から逃げることを選べるのは、軟禁状態の今よりまともに生きられるという確信があってこそ。社会的スキルもない、地域や社会は味方になってくれると思えない状況では、暴力に耐えて生きるしかないと。当事者ほど法律が自分のためにあるとは思えないんですね」〉

▼日本家族再生センターの味沢道明氏は加害者治療の詳しい原理などを説き、「本来、労働環境や福祉環境をよくすればDVや児童虐待は減っていく。そういった環境改善に背を向けた政策が続けられてきた日本社会の構造を変えないと、新たな犠牲者は必ず出る」と語る。

▼社会全体が、政治の暴力に馴れてしまえば、社会的な「学習性無力感」に陥る可能性もあるのかもしれない。

幸い、今はそういう状態ではないが、学習性無力感のおそろしいところは、自分がそんな状態になっている、という現実に、自分では気づかないところにある。

(2019年2月14日)

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