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花見をしている桜の木の下には……

秋になってきたというに
季節はずれの話題だが
桜は美しい。
もちろん紅葉も、美しい。

だが、今日は、桜の話だ。
桜は美しい。

明示的なそれが、本当なのか、
なぜか、考えたことはあるだろうか。

桜が咲くと花見をする。和歌では、
むかしのものは、花といえば梅だったらしいが、花見=桜を見るは定着し、
我々にとって
花=桜、桜は特別な存在になっている。

寒い季節が終わると、だんだん芽吹き、そして開花する。開花すれば、
花見に出かけ、春が来たと歓喜し、
寒い冬を耐え、新しい季節がきたことを皆で祝う。

新しい季節の春は、桜とともに、別れと新しい出あいを、新たな生活を連れてくる。

その寂しさや不安や喜びや期待を、
桜のピンクが淡く包んでいる気がして。
桜を見にきたのか宴を楽しみにきたのかわからなくなる人もあるが、
桜が咲くと大抵、その淡いピンクを見上げる。誰もその桜の木の下のことなど、
考えはしない。

《見出し》
1.梶井基次郎
2.坂口安吾
3.村上龍
4.その桜の花見をしている
桜の木の下は
5.絆、キズナ、kizuna、と
積み重なる過去の下には



1.梶井基次郎

ー桜の木の下には

屍体が埋まっている!ー

冒頭、
この衝撃的な言葉からはじまる。
梶井基次郎の短編『桜の木の下には』(1928)である。(この作品は、1931年にあの、『檸檬』に収録された。)

物語を簡単に要約すると、
主張はこうだ。

** 桜があんなにも美しいのは、桜の木の下に屍体があるからだ。**

主人公「俺」は数日間、毎晩、

帰り道に、なぜか家の剃刀の

刃のイメージが頭に浮かんでは消えなかった。そして2〜3日前、渓谷へきて、

水たまりの水の中を覗きこむと、

石油が流れたような光があって、

よく見るとそれはウスバカゲロウの

大量の屍体だった。

(ちなみに、ウスバカゲロウとは、

アリジゴクの成虫の姿のことである。

私は虫が苦手なので写真に載せたくないが、気になる人は調べてみてほしい。)

さて、この大量の屍体たちが
美しくみえた「俺」は、この情景(大量の屍体が水の中にいる)に妙な喜びを感じ、そのことに驚く。それからふと、
桜を見た「俺」は、あの美しさ
(桜の美しさ)はなんだろうと思案し、はっと気づく。
あの桜の木の下には
屍体が埋まっているのだ、と。



2.坂口安吾

実は、桜と屍体については、
坂口安吾が『桜の森の満開の下』(1947)という作品を、
梶井基次郎の作品の19年後に
書いている。
梶井基次郎は1932年に亡くなっているので、この作品が出た時には既に
世にいないが、坂口安吾の短編小説
『桜の森の満開の下』は13編の物語が収録されており、今回みるのは、その中の「桜の森の満開の下」である。
当然これは、たまたま梶井基次郎の
題名と似ているのではない。
坂口安吾は、梶井基次郎の短編を
下地に書いている。



3. 村上龍

そして、2014年に出版された、
村上龍の『櫻の樹の下には瓦礫が埋まっている』は、
梶井基次郎の『桜の樹の下には』に
ついて考察しつつ、現代社会の様々なことについていくつか挙げそれらについて語っている。


4.その花見をしている桜の木の下には

もちろん、すべての作品をわたしは
過去に読んだことがあったが、
ある日、他の考え事が全くできないほど
この3つの作品が頭の中を駆け巡り、
何度とその内容や文章が、頭の中で
声をあげて読まれた。だから、
ペンをとってメモを書き、今、
できうる限りそれをまとめている。

梶井基次郎の作品の(#桜の木の下には)は、先に要約したような物語だ。
「俺」はなぜ、桜はこんなに
美しいのかを考えていて、はっと気づいた。あの桜の樹の下には、屍体が埋まっているのだ、と。

「俺」が桜に感じた美しさや得体の知れない不安や狂気は、きっと桜の下に埋まっているだろう屍体という存在があるからで、そして桜は、その屍体の血を吸ってピンクになるのだ(櫻染め)と描いている。

そう思うことで、生と死、美しさと醜さという、一見、相反するものが反対なのではなく、それぞれがそれぞれを内包していると描き出し、ピンク一面の桜が美しいのは、その醜さや恐ろしさを内包しているからだと述べている。

この桜の、えもいわれぬ
“美しさ”や“醜さ”、“恐ろしさ”、
そして屍体が埋まっているという
その屍体が埋まる物語を書いたのが
坂口安吾の『桜の森の満開の下』だ。

物語は、ある峠の山賊と妖しく美しい残酷な女との幻想的な怪奇小説で、談話形式の文体で書かれている。おおよそつぎのような話である。(間違えていたら訂正コメントをください。)

ー山賊の男は、通りがかる旅人の
身ぐるみをはがし、女が通りその女を気にいると自分の女房としていた。
こうして男はこの谷のすべては自分のものと思っていた。しかし、そんな男にも、唯一恐れていたものがあった。それが桜の森だった。
男は桜の森が満開のときにはその下を通るとゴーゴーと音が鳴り気が狂うと信じていた。
そんなある日、男が旅人を襲いいつものようにその連れの女を自分の女房とすると、なんとこの女が、山賊を恐れもせず指図し、家にいた七人の女房を次々と殺した。そしてわがままな女房は、やがて都を恋しく思ったため、山賊は女とともに山を下りて都へ移ることにした。
しかしやがて、男はこの女の残酷さに嫌気がさして、山に帰ることを決意。
女も男とともに戻ることとなった。
山賊はその女を背負って山に戻ると、あの桜の森は満開になっていた。男は、久しぶりに帰ってきたことを嬉しく思って今まで避けてきたその森を通ってしまった。
ふと山賊がうしろをふりかえると、負ぶっていた女はいつのまにか醜い鬼にへんげしており、山賊の首を絞めてきた。
そのため、男は必死に鬼を振り払い、その首を絞めた。
男が我にかえると、そこには桜の花びらにまみれて女が死んでいた。山賊は桜吹雪の中、声を上げて泣いた。
そして、女に触れようとすると、女はただの花びらとなり、消えてしまった。
その花びらをかきわけようとすると、
この山賊もやがて消え、あとには
花びらと冷たい虚空が張り詰めていた。ー

ざっとだいたいこのような話だ。
この作品は、おそらく梶井基次郎の作品を下地にしており(日本文学にあかるくないので詳しくはわかりません。
ごめんなさい)、
美しさと醜さ、生と死という相反する
ものが互いに内包しつつ
また、
都と山、女と男、現実と幻想という対比を交えて描き出され、
女は男の肉体に依存し、男もまた
女の存在に依存することで承認欲求を
埋めていたのではないか、と考えられる。

共依存的に、他者という存在があることで人間はやっと、“孤独”を感じられるのだ、と。



5. 絆、キズナ、kizuna、と積み重なる過去の下には

ここで、村上龍(2014)のエッセー、『桜の樹の下には瓦礫が埋まっている』についてみていこう。
この作品は、2011年の東日本大震災を経験した後に出版された。

現代社会のさまざまなこと
(コンカツ、北朝鮮、凶悪事件、消費嗜好について、寂しさとは、「個人」について、若年労働者の低賃金について、3.11と絆、など。)を、
梶井基次郎の先の散文詩などを引いて語っている。

その中で、村上氏は『桜の樹の下には』(同 『桜の木の下には』)
について解釈・考察している。

満開の桜は美しいかもしれないが、
その美しさはその木の下に埋まった屍体によって支えられているのではないか、という妄想のような「負の想像力」によって、梶井は、ものごとがすべてきれいでまともなはずがないと主張している。

村上氏は、東日本大震災で日本中が
共有した“絆”に「不安」を覚える、といってそこにあの“櫻の樹”を用いて、
**被災地、被災者を思う気持ちだけでは、解決できない問題が山積みで、それを
「絆」という言葉が隠蔽してしまう危険性がある、と警鐘を鳴らしている。 **

そして、その象徴として
“瓦礫”問題がこじれているのは、
一方では“櫻の樹”自体を見ている人がいる、
そのもう一方には、“屍体”を見ている人がいると表現している
のだ。

この話(問題)を、先の梶井基次郎の
『桜の木の下には』と、
坂口安吾の『桜の森の満開の下』の作品を通してみると、

震災後の日本のメディアでは、
絆、絆、きずな、キズナ、kizunaと連呼され、その後の日本は、いや今も、
どこかで
“震災を乗り越えた我々日本人”、
“困難な状況にあっても頑張ろうとしている日本人”とし、

そうして“キズナ”と“復興”を推し進めた。その、“復興”のなかで、
“絆”だとか、“私たち”といった
aboutな言葉によって、
個々の人の物語は大きな物語へと
内包され、集約され、生まれ変わって
いる気がする。

しかし、“絆”が進められれば、
進められるほどに、「孤独」が色濃くあらわれ、“復興”が進められ街の瓦礫が片付けられていくなかで、それによって
「戻らないもの」がより鮮明に浮かびあがってきているのではないだろうか。

3.11。奇しくも桜が咲き始める
その季節。

不安や未来への期待を描きながら、
その積もっていく桜の花びらの下には
今立っている桜の木の下には、

過去が積み重なり、
その過去の複雑な得体の知れない
過去のある一点の“イマ”たちが
埋まって、消えずにある。

後記

しばらく、さまざまなインプットが
大量に頭を埋め尽くし、また日々、
忙しなく過ごしているうちに、
何も頭の中でまとめることができずにいたが、
なぜかとてもとても、
梶井基次郎と坂口安吾と村上龍について
書きたい衝動に駆られ、
その想いのままに、書いた。

次は、学部時代に受けた現代社会学の
講義のノートをもとに、
そして、この話をもとに、
また少しずつ、noteに、
ことばを綴って、紡いでいきたい。

勢いのままに書いてしまって
あまり推敲するための体力が
残っていなかったこと、
そのため、記事構成が
わかりづらいこと、
容赦していただきたい。

《参考文献》

画像参照
トップ画像
https://sozai-good.com/illust/free-background/bac-flower/64484 (2019年9月20日参照)

梶井基次郎.(1931).『檸檬』.武蔵野書院.初版. (内容は知っているが手元にないため画像は下記参照)
(画像: https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=81590014)(2019年9月20日閲覧).

村上龍. (2014). 『櫻の樹の下には瓦礫が埋まっている』. 東京:幻冬舎.

坂口安吾. (1947). 「桜の森の満開の下」.『肉体』. 第1巻第1号. 暁社.
(本作品は、手元にないため、国語の授業でやった内容を思い出して考えた。)

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ゆかまる(Yuka)

キョウイク(共育/響育/教育)者として生きる/人の学ぶ過程/インテグラル理論(言語習得理論/SLA/英語教育/Storytelling/心理言語学/神経科学/ティール組織) /思いつきよりは少し深く、でも思考というほど考え抜いたわけでもないことを徒然なるままに。/無断引用禁止。

#思いつき以上思考未満

思いつきで書いてるというほどパパッと書いているわけじゃないけれど、十分な思考を経て書いているというほど練られたものではなく、教員でもない、研究者でもない、宙ぶらりんな立場の私が、思いついたよりは少し深く考えて、でも十分な見識を持って書いていくわけではなく、徒然なるままにひぐ...
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