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【52歳から自分らしく生きるために】ピースの自己紹介(2023/01/29更新)

これまで、もう2~3回自己紹介をしていますが、

あまりにも継ぎ足し継ぎ足ししてきたら、雑然として読みにくくなってしまったので、こちらで改めてピースの自己紹介をさせて頂きます。

基本情報

名前:ピース(ファーストネームに使われている漢字の1文字の意味を採っています)
・年齢:52歳
・生誕地:東北地方のとある県
・現在の住まい:首都圏のとある県
・家族構成:妻、娘2人(大学生、高校生)の4人家族
・仕事:会社員
・職種:技術職
・転職経験:2回
 1社目:大手上場企業(エネルギー)
 2社目:上場企業子会社(開発コンサルタント)
 3社目:大手上場企業子会社(エネルギー)
・役職経験:係長職(1社目)➡部長職(2社目)➡部長職⇒専門職⇒降格により担当職(3社目)
・学歴:旧帝大大学院卒(理系)(実家両親は高卒)
・資格:技術士、MBA
・留学経験:アメリカ(MBA留学)
・学生時代の部活・サークル:
 中学時代:バスケ部➡吹奏楽部(トロンボーン)
 高校時代:吹奏楽部(ファゴット)
 大学時代:バドミントン同好会
・趣味:釣り(特にへらぶな釣り)、鉄道旅、焚き火、オートキャンプ、食べ歩き、カフェ巡り、車の運転、街歩き
・趣味とまでは行かないけど好きなこと:文章を書くこと、細かい作業をすること
・特徴:
(ポジティブ系)
 綺麗好き、無駄なものを買わない、お気に入りのものを大切にする、人に対して気を遣える、自分より年下の人に対しても個人として尊重して接する、誰に対しても誠実・真摯に向き合える
(ネガティブ系)
 心配性、HSP気質、口下手、マルチタスクが苦手、一度決めたことを急に方向転換するのが苦手、人にお願いすることが苦手、一人の時間を大切にしたい、大きな音や騒々しい環境が嫌い、どうしても他人と自分を比べてしまう
・好きなYouTubeチャンネルのテーマ:自然、ソロキャンプ、車中泊、へらぶな釣り、カフェミュージック、ピアノジャズ、鉄道、人生の生き方、自己啓発
・好きなテレビ番組のジャンル:ドキュメンタリー、自然、絶景、国内旅行、世界旅行、鉄道旅、世界ねこ歩き、アドベンチャー、最先端テクノロジー
・嫌いなテレビ番組のジャンル:お笑い、恋愛系ドラマ、昼のワイドショー、クイズ系バラエティ番組、ドッキリ番組、大食いバトル、物まねバトル、カラオケバトル、芸能人だけが美味しいものを食べたり、豪邸を紹介する番組

私の生い立ちと家庭環境

私は、東北地方のとある県の港町生まれ。兄弟姉妹はいません。つまり一人っ子です。

両親のそれぞれの実家との人間関係に問題があった家庭で育ったことで、父方の親戚とは私が小学校6年生の頃を境に付き合いが途絶えました。

また、私の母は、異常なまでに家族に対して我慢を強制し、一家の内に一種の恐怖政治体制を敷き、その上に君臨していた実父に、あらゆる可能性と将来への夢を諦めさせられた若い日の苦労から、

まだ幼かった私に自分自身を投影するかの如く、自分ができなかったこと全てを実現することを望んでいるかのような、非常に厳しい人物でした。

両親は共に高卒でしたが、両親の少年少女時代には、東京などの一部の都会に住む裕福な家庭の子供でなければ、まだまだ子供を大学に入れることが難しかった時代です。

私の父は、4人兄弟の上から二番目、長男で、十分大学に行ける学力はあったそうですが、県内トップの公立進学校に入った弟が大学に進学するのに必要な学費の負担を考え、自身の進学をあきらめて高卒で就職したそうです。

そんな両親の下、父親は私の教育に対して何かを言うことは一切ありませんでしたが、母親は上を目指すことに対する強い憧れを持っていました。

私がまだ幼稚園児の頃から、当時住んでいた社宅に住む、別の家の高校生が県内トップ高に通っているという噂を聞くと、私に対して、

「あなたも将来〇〇高校に入学するんだよ。」

と、事あるごとに私の耳に吹き込み、

「あの高校に入れば、〇〇大学に進学できるから、あなたも頑張りなさい。」

と、まだ十数年も先の自分の進路についてまで、幼稚園児に諭し聞かせる日々でした。

またある日は、母親の従弟が病気か何かで入院していた見舞いに行った時、その従弟が病室のベッドの上で英字新聞を読んでいたことに驚いた話をし、

「あなたも将来はあんな風にいい会社に入って仕事をしなさい。」

と、事あるごとに言われていました。

母がやりたいことを一切やらせてもらえなかった不遇な子供時代、少女時代の思い出を何度も聞かせられ、

また、母が自分では果たせなかった、「優秀な高校、優秀な大学、一流の大企業に入る、という憧れ」を自分が叶えて、母を喜ばせてあげなければならない。

今思うと、そんな風に、しらず知らずに、本当に自分がやりたいこと、なりたいものではないことが、あたかも自分が目指すべき自分の理想のようにすり替わっていったのだと思います。

私は、母の喜ぶ顔が見たくて、幼稚園でも、小学校でも、中学校でも常に真面目でお利口な子供になるよう努力しました。

小学生、中学生時代

大人にとっての「真面目でお利口な子供」というのは、自分と同じ年代の子供達にとっては、

「うるさい親や先生と同じような正論を口走る、面倒臭い、目障りなヤツ」

という印象を与えるのではないでしょうか?

そんな面白味のない真面目くさった子供は、大人に対して反抗的な態度を取っていた一部の同級生達からすると、恰好のイジメの対象です。

私も、田舎から都市部の小学校に転校した小学校3年生の頃から、中学1年生までの間に、日々仲間外れに遭ったり、嫌がらせをされたものです。

ですが、当時のイジメは今ほど陰湿なものではなかったのか、どうにかこうにかその時期を耐えしのぐことが出来ました。

それは、勉強を頑張って、県内で一番の進学校に入れば、自分の事をイジメるような大嫌いな連中とはもうおさらばできる!

という希望があったからです。

高校生~大学に入るまで

そして私は、実家のある、東北地方のある県トップの進学校に入学しました。

これで、まずは第一関門を突破した。と思い、ホッとしました。

次は、いい大学に入らなければならない。という第二関門を突破しなければなりません。

進学校は、当たり前ですが、各中学校で1、2番という優秀な学生たちばかりがライバルです。

自分ではかなり頑張って勉強したと思っても、テストの問題は難しいですし、そんな問題に自分が四苦八苦しているのを横目に、やすやすと高得点を取る同級生が山ほどいました。

頑張っても頑張っても、ある程度の順位より上に行くことが出来ません。
その一方、少しでも手を抜くと、あっという間に数十番学年順位が下がってしまいます。

私は入学時、定員の下から1/3程度の順位だったそうですが、高校3年生でようやく、上位1/6程度の順位になりました。

例年の大学受験実績を見ると、この高校で上位1/6程度までの生徒が、地元の旧帝大に現役合格しているというデータがあったので、自分もその順位になれば、同じ道をたどれると思いました。

しかし、現実はそんなに甘いものではありませんでした。

同じ学校のライバルたちは、高校3年生になると、既に学校の定期テストよりも校外の模擬テストで高得点を取ることにターゲットを変えていたからです。

私が自分の高校の定期テストではそこそこ点数を取れるようになったころには、既に彼らはもっとレベルの高い、難関大学の入試水準のテストで合格基準偏差値をたたき出すための準備に入っていました。

この差は、結局私の現役入試の歳には埋めることが出来ませんでした。

私の家では、大学受験について、非常に厳しい条件を求められました。

  • 最低でも、地元の旧帝大に現役合格すること。その大学よりレベルの低い国立大学の受験は許さない。

  • どんなレベルであろうと、すべり止めで私立大学を受験することは認めない。

  • 受験に失敗したら、浪人はさせず、高卒で就職してもらう。

唯一認められる例外は、地元の旧帝大より上位の旧帝大に合格することでしたが、地元の旧帝大にぎりぎり合格できるかどうかといった自分が、そんな高い目標をクリアできるはずがありません。

当時私は、

「自分の両親はなんでこんなに厳しいんだ。一人っ子の自分が、どうして兄弟がいるような同級生達よりもはるかに厳しい条件で大学受験しなければならないんだ!」

と、両親に対して恨みを抱いていました。

最後の共通一次試験は、本命の大学に合格するために必要なギリギリの点数を取ったものの、二次試験の日に体調を崩し、試験の途中で一時退出するという屈辱的な経験を味わいました。

結果はお察しの通り、不合格。
大学のキャンパス内の合格者受験番号一覧のボードに自分の番号がないことを確認し、分かっていたこととは言え、合格を祝して上級生たちから胴上げされて喜んでいるライバル達の横で、しばらくは茫然と立ち尽くしていました。

そして、1年間の浪人、予備校生活。

両親は、「お前がどうしてももう一年頑張るというなら、1年だけ浪人を認めてやる。」と言って、予備校に通わせてくれました。

但し、受験の条件は現役の時と同じ。
地元の旧帝大以上の国立大学の受験しか認めない。というものです。

この1年間も、私にとっては山ほどの忘れられない思い出があります。(いずれ機会があれば、またお話します。)

そして、幸い1年の遅れで、現役時代から目標にしていた地元の旧帝大に合格しました。これで第二関門突破です。

大学卒業後の私の人生の歩みについて

同大学卒業後、そのまま同じ大学の大学院に進み、修士課程を修了。一応理系ですが、自分としては理系的な論理的思考にはむしろ苦手意識を持っています。

大学院終了後、学校推薦で第一志望の大手上場企業に入社しました。

これで第三関門突破。

ようやく、母が望んでいた、「いい高校、いい大学、いい会社」という(知らないうちにすり替えられた)目標を達成しました。

就職と共に、東北地方の地元から上京し27年間、会社員をしてきました。
これまでの間、2回転職し、今は3社目です。

いずれの会社も社会インフラに関わる事業を行っている業界で、会社員になって10年目以降は海外出張の多い仕事をしてきました。

とは言え、もともと英語が得意だった訳ではなく、そこに至るまではかなり苦労しました。

1社目の会社での話(概要)

1社目では、上司の指示で会社の海外大学院留学制度の候補生に応募させられ、本人の自信のなさとは裏腹に社内選考をあれよあれよと通過してしまい、候補生になってしまいました。

そこからは本当に地獄でした。アメリカ、イギリスの経営大学院合わせて10校ほどに出願し、辛うじてイギリスとアメリカの経営大学院1校ずつに合格し、最終的にアメリカの大学院の方にMBA留学しましたが、その代償に過労で上の前歯1本を失ってしまいました。

留学の話は、まだ全然書けていませんが、以下のマガジンに少しづつ綴っていきます。

留学からの帰国後、初めて海外出張に行った国がアフリカにあるサブサハラ地域のザンビアという国でした。

それを皮切りに、年間の1/3ほどは発展途上国に出張するような仕事が1回目の転職後の2社目の会社在籍時代も合わせて10年ほど続きました。

2社目の会社での話(概要)

2社目在籍当時、出張中のホテルや、帰国中の自宅に缶詰め状態になり、国家資格の技術士取得の準備を続け、3年という最短期間での合格を得ました。合格の知らせを聞いたのは、これまたアフリカのとある国に出張していた時でした。

2社目では技術士資格を取得したことがきっかけで管理職に昇進したものの、上司(役員)によるパワハラ、部下からの突き上げ、会社の中で自分の専門分野への協力が得られなかったことなど、様々な心労が重なりメンタルダウンの一歩手前に陥り転職しました。

3社目の会社での話(概要)

そして今の会社に入社し、3か月後には管理職に任命されました。この会社には3年半在籍していますが、驚くべきことは、累計退職者数が、全社員数を上回るほど離職率が高いということです。

私が入社してから今までの間に、自分が知る限りでも少なくとも70名以上延べ200名以上の社員が退職しています。(ちなみに全社員数は150名程度です。)

社員の方々はほぼ100%キャリア採用で、新入社員はいません。
皆さん前職は有名企業出身で大変優秀な方ばかりなのですが、そんな人達でもこの会社には長く生き残れません。

この会社の恐るべきところは、管理職に昇進すると、あるポジションを境にほぼ全員がその職務に耐えられず辞めてしまうということです。

私もかつては管理職でしたが、その重責と上司のパワハラに耐えられず、自ら管理職を辞退し、部下を持たない管理職になりました。

しかし、蓄積された上司から受けたパワハラのダメージがボディーブローのように私の心身を蝕み、最初に体の不調を来し、次に心が崩壊する寸前に至りました。

この状態になるまでに、1度カウンセリングを受け、カウンセラーに状況はお知らせしていましたが、最も直近の2回目のカウンセリングを受けようと思った当時は既に希死念慮が出ていた危険な状態でした。

カウンセラーの方から、「すぐに産業医の面談を受けてください。」とアドバイスを受け、翌日産業医のアポを取り面談をしたところ、「すぐに仕事から距離を置きましょう。一刻も早く心療内科を受診してください。」と指示を受けました。

そして人生初の心療内科受診によって、主治医から「適応障害」と診断を受けて、2か月半の休職を余儀なくされました。

なお、2022年9月、無事復職を果たしています。

現在は、【52歳が自分らしく生きるために】というテーマで、アラフィフ責任世代のあたなに向けて、自身の経験と気付きについてお話させて頂いています。

人は表に見えるものだけでは判断できない

私の肩書だけを見ると、

「国立大学の大学院出て、名前の知れた会社に入り、MBAを持っていて、技術士資格を持っていて、英語が話せて、管理職まで経験して、それなりの社会的ステータスを経験している人が、何の不満があるのですか?

と疑問に思う方もいるかもしれません。

しかしながら、それはそこに至るまでに自分が味わった苦労や挫折を知らずに結果だけを見た場合の話です。

私は、決して人よりも優れてもいないし、むしろ人より劣るからこそ、それ相応の苦労をして無我夢中で走り続けてきた結果が今の自分です。

ですが今は、その上り詰めたピークは、自分にとっては相当背伸びをした分不相応な場所であり、本当の自分がありたい姿とはかけ離れている。と思っています。

今は、会社でもう一度前のポジションに返り咲きたい、という野心もないですし、自分がいる場所はここではない。という認識を持っていて、如何にして本当の自分らしい生き方を実現できるのか、を考え、その手段を構築しているところです。

その過程に私はとてもワクワクし、あれもやりたい、こうしたらどうだろう、と次々にやりたいことのアイデアが浮かび、熱量が上がります。

勿論、途中で行きつ戻りつ、悩むこともありますが、今までやってきた仕事で感じてきた悩みとは全く種類を異にするものです。

人生100年時代の折り返し点に差し掛かった私ですが、この50年間、「他人軸」で人生を歩んできました。

だから、ここまでよく耐えてきたなぁ。と自分を褒めてあげたいと思います。今まで自分を褒める。という思考は持ち合わせていませんでしたが。

残りの50年は、「自分軸」の人生を歩みたい。
そう考えています。

長文になりましたが、ここまで読んで頂きありがとうございました。



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