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私個人には、興味を持てないだろう。だけど、書いたものを読みたい、と言ってくれたら幸せだ


以前の記事で書いた通り、初めは「大手出版?」と私は浮かれた。だけど、「ロッキング・オンの時代」を読んで、考えを変えた。

「橘川さんのような人と、夢を見たい」と思った。

今、私は、大手出版ではなく「メタブレーン」から'ジミー’を出版することに何の迷いもない。

ただ、メタブレーンは、橘川さんが、仲間が本を出したい時のために作った出版社であり、大きな販売経路はなく広告費もかけられない。

だから、私たちは、初刷りの費用をまかなうために「クラウドファンディング」を行う。編集やデザイナーさんに払う分、印刷にかかる費用などにあてるのだ。

この時点で、著者である私には一銭も入らない。当たり前だと思う。

どれほどの人たちが手伝ってくれてるのか、と思う。むしろ私がお金を払うべきではないかと思うほどだ。実際、自費出版なら自分で費用をまかなうだろう。

'ジミー’をテキストにした対話会も開かれていて盛り上がりを見せている。すでに100人以上が原稿を読んだ。たくさんの人が、積極的に関わりを持ち感想を教えてくれている。

それにしても、いつもミーティングをしてくれる橘川さんや平野さんたちは、「遊び」で参加している。少なくともクラファン の段階では、彼らに一切、直接的なお金は入らない。

どう考えたらいいのだろうと、ずっと引っかかっていた。

お二人とも、多くの人の尊敬や憧れの対象で「なんとか直にアドバイスが欲しい」「いくら払っても、どうかコンサルしてほしい」と思う人も大勢いるだろう。

それなのに、全く無名の著者による'ジミー’を出版するために、ミーティングやメッセージのやりとりなどで多くの時間と労力をかけている。

申し訳ないようで、落ち着かない気持ちだった。

ある時、Zoomミーティングでお二人の様子をみて、あれっ?と思う。

橘川さんは、「出版が変わる」ということ、平野さんは、どうやったら「面白くなるか」ということを楽しそうにイメージを膨らませている。その生き生きとした表情。

ああ、そうか。

彼らは、「エイミー」という個人のためにやっているわけではないのだ。(当たり前だ)。

彼らが「引っ張ってあげよう」と思うような要素も義理も、個人としての私には全くない。

だけど、'ジミー'の出版には、何かがある、と思っているのだ。

では、何が?

橘川さんは、コロナの後は「小説の時代」だという。

「明治維新の後に、新しく導入された欧米近代主義と旧来の農村型封建主義との乖離の中で引き裂かれた意識は、日本近代文学として花開いた」

2020年に始まったコロナ禍は「日本全体、世界全体が、過去の惰性で動いていた歴史にストップをかけ」た。内面に意識を向ける人が出てきた。

その中で書かれた小説’ジミー’が出版されることは、「コロナ以後の出版の仕組みや意味を大きく変える可能性」を感じると言う。

(まだ途中だけど、大局的な見方で興味深いので、ぜひ読んでほしい)↓

私は、やっと納得した。

「可能性」の話だ。

平野さんも、そうなんだろう。

’ジミー’の「可能性」が、期待してることなんだ。これによって、何かが変わる、面白いことが起こるはずということ。

そんな風に、世界を見ているのだ。

そんな素敵なことは、お金がいくらとかよりも、もっと大事だって思ってるんだろう。


橘川さんたちは、「書き直しはいらない、このまま出そう」と言う。一つの言葉ですら、変えて欲しいと言われなかった。

学歴も仕事歴も出身地も家族構成も年齢も、私は、何にもきかれなかった。本名すら、いまだ言ってない。(きかれないから言うきっかけもなくて、そのままだ)

みんな、'ジミー’という作品、それを世に出そう、と言うだけで集まってる。

私、でなくて。

'ジミー'の可能性、だ。


なんて、幸せなんだろうと思う。

橘川さんたちが、私を人として大事にしてない、という話では全くない。むしろ、逆だ。

私は、「私の作品」を通して、私という人間を最も大事にしてもらっているのではないか。

クラウドファンディングの予定が決まった。

個人としての私なんて、別にどうでもいいと思う。特に取り柄もないし普通の人だから、興味を持ちにくいだろう。

だけど、私の「書いたもの」を読みたいと思ってくれたら、本当に嬉しい。

よかったら、初刷りを入手してほしい。


'ジミー'クラウドファンディングは、2022年1月1日スタート予定

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