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傷つき方・傷つけ方

 小説を読むと心が傷つくことがある。主人公に感情移入し過ぎて、まるで自分のことのように心にグサッと刺さってしまうのだろう。

 面識が全くない人の葬儀に参列していて、自分の親しい人との別れを思い出したり、想像してしまって、涙がボロボロと流れ出して止まらなくなってしまったという話を聞いたことがある。他人だという意識が薄れて、あたかも他人を自分のことの如く感情移入しているときに起こる現象なのだろう。

 名作と呼ばれる作品は、人を傷つけるものを含んでいる。


 「ホントにかわいそう」って思いながら読んだルナールにんじん」。
 はじめてこの本を手に取ったとき、救いがないような気がして、心に傷を負いながら読んだ。淡々と書いてあるぶん、余計に傷ついた。今でいう毒親と、きょうだいからの仕打ちの連続。


 なぜか人殺しである主人公・ラスコーリニコフの肩入れしながら読んでしまうドストエフスキー罪と罰」。

 老婆とその娘を殺害する場面をはじめて読んだとき、頭の中で、沈んでいく太陽の光が差し込む中、斧で老婆の頭をかち割り、血が飛び散った。ほんとうに恐かった。自分で人殺しをした気持ちになった。殺害現場から立ち去っていくとき、「どうか見つかりませんように」と願いながら読んだ。
 終盤にラスコーリニコフを徐々に追い詰めていくポルフィーリーのほうが、ラスコーリニコフより陰険な人間に思えた。

 今でも多少トラウマが残っているし、なぜ人を殺してはいけないのか?、という答えもわからない。ラスコーリニコフの考えたことは、理屈としては筋が通っている。本気で人を殺そうと思ったことはないが、自分には人殺しは無理だなと思った。


 人を傷つけることは、一般論としては良くないことだ。しかし、偉大な文豪の偉大な作品は、人の心を大きく傷つける。そして、人を傷つけるくらいの圧倒的なパワーがなければ、名作たり得なかっただろう。思うに、文豪と呼ばれる作家は、良くも悪くも、人を傷つけるからこそ価値がある。

 文豪は読者を傷つける。しかし、不思議なことに、傷つけられた読者は文豪を恨むということはない。それは私のために書かれたと読者に思わせながらも、読者自身のことを書いているわけではないからだ。

 ここで間違ってはいけないのは、文学が人を傷つけ得るものだからといって、個人攻撃をするためのものでは決してないということ。
 SNSで見られる誹謗中傷というものは、文豪の作品とは非なるものだ。名前を伏せたから誹謗中傷ではないと考えるのは、(法的なことはともかく)道義的に大きな間違いである。特定の誰かを攻撃して傷つけるものは、文学という名に値しない。「文学は人を傷つけるものだ」ということはなんら免罪符にはならない。

 創作とは、その作品に触れた人が、新たな作品を創作しようとする意欲を掻き立てるものをいう。沮喪させるものは創作でもなんでもない。


(参考)

コミュニティ・ガイドライン


https://www.help-note.com/hc/ja/articles/4409925863193-%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3


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