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母を語れば [3/3] (エッセイ)

母の日に書き始めた忘備録です。
中学の終わりに母に言われた、
「自分のことは自分で決めなさい」

「自分で決めた」学生結婚について、母に理解を求めたことなど。

今回が最後になります。
晩年の母は「自分のことを自分で」決めなくなりました。
そして、やがて、自分では決められなくなりました。

*************

2年間の学生結婚の後、私は故郷の街で就職しました。
両親は実家の隣に家を建て、そちらに移り住みました。

母は隣家に住む《息子の嫁》に、徐々に《信頼》を寄せるようになりました。その《信頼》の厚さは、自分が産んだ息子・娘に対するものを超えるようになりました。
そして、その結果、私たちが2人目の子供をもうけた頃、母はついに《息子の嫁》を《養女》として、かなり強引に養子縁組してしまいます。

いつの日か離婚したとしても、妻は、いや元・妻は、私の妹であり続けることになりました。
母はしばしば嫁、あるいは養女のことを、
《わたしの一番大事なひと》
と表現しました。
もし実際に離婚したら、母は《養女と孫》をキープし、私が家から追われたかもしれません。

両親は同じ頃に退職すると、ふたりでやたらと旅行するようになりました。海外にも行ったようですが、国内を父の運転で旅することが多かったように記憶しています。
母の望みもあり、四国八十八か所など、寺社巡りが多かったようでした。
彼らが不在の間、父が育てる盆栽や母の好きな花の咲く庭木に毎日、夏などは複数回、水を遣るのが、妻にとってかなり大きな仕事でした。

両親は仲の良い夫婦に見えましたが、気になるところもありました。
父は非常に几帳面な性格で、しかも、《世の中には誰にとっても共通の価値基準がある》と信じて疑わないところがありました。

一緒に外食に出かけると、自分が奢る、と決めている時は、全員の分を注文しようとします。
「いや、俺はこれがいいから」
などと、私や妻が自分の好きな料理を頼もうとすると(特に父が指定するものより値段の安いメニューの場合)、
「なんでだ! こちらの方がいいじゃないか!」
とがめるのです。
「なんでって、こちらが食べたいからだよ」
特に量の多い食事を避ける妻に対しては、
「遠慮しているんじゃないのか?」
と、くどく尋ねてきます。

それは、もちろん、彼の『ご馳走してやろう』という《善意》が背景にあります。
ただ、『値段の高いものが必ずしも食べたいものではない』という《価値観の多様性》を理解していないところが根本にありました。

私たち一家に対しては、やがて不承不承ながらも「多様性」を認めるようになりましたが、母に対してはそうはいきませんでした。

レストランでは、母の食事も、
「お前はこれが好きだろう。これでいいな?」
と必ず父が選択していました。
熱いお茶を最初に湯呑に注ぎ、母のために「冷ましておく」《心配り》も忘れません。
父には『母に失敗させたくない』という《善意》が確かにありました。
私は、
「お母さんが食べたいものを自分で選べば?」
と言ったこともありましたが、基本的には《ふたりの世界》にあまり口は出しませんでした。
父は、例えば、母のトンカツにソースをかけたり、刺身のとり皿に醤油を注いだりまでするのでした。

私は子供の頃、単身赴任の父が不在の家庭で、
「料理が出された時には、まず食べてみて、それからどの調味料をどれだけかけるか決めるのがいいらしいよ。味も見ずにいきなりソースをかけたりするのは、料理人に失礼なんだってさ。あんたたちも外で食事する時には注意しなさいよ」
と母に言われたことを、父が母の前にある料理に《勝手に》ソースなどをかけるのを見るたびに思い出したものです。

60代後半になった母は、やがて自分で財布を持たなくなりました。車を運転しない彼女はいつも父と一緒のため、必要がないし、落としたり忘れたりする《失敗》も避けられるからでした。
そして、父と二人で行っていたスーパーへの買い物にもついて行かなくなりました。
母が《お供》しなくなったことについては、父はかなり不満なようでした。
母の言い分は、
「だって、私が欲しいもの、買ってくれないんだもん」
「お父さんは買い物にものすごく時間がかかるから、疲れちゃうんだもん」

私も70代になった両親と買い物に行ったことがありますが、母はほとんど父について歩くのみで、たまに何か買いたいと希望を訴えても(甘いものが多かったようでしたが)、
「そんなもんはいかん!」
「それは前に買ったけど、結局、あまり食べなかっただろ」
など、ほとんど『却下』されていました。

そして確かに、父は食材の《吟味》にものすごく時間をかける人でした。ひと房のバナナを買うだけでも、傷んでいないか、念入りに調べては戻し、別の房を取り……と。
父を車に乗せてスーパーに連れて行くようになった妻も、彼の「時間のかけ方」にほとんどあきれていました。
「あの几帳面で神経質なお父さんから、よくあんたみたいにいい加減な人間が生まれたもんだね」
父が買い物を終えるまでいつもかなり待たされる、という妻に、しばしば《感心》されたものです。

どちらも、父は、
《失敗したくない/させたくない》
という気持ちが強かったのでしょう。

(子供の頃、この人が家に不在で、本当に良かった)
父には感謝している部分もありますが、私は何度もそう思いました。

食材は父が買うので、彼らの献立は彼が決めます。
料理も父が主導ですが、野菜を切ったりする下請け仕事は、彼の指示で母が行っていました。
母はほとんど家から出ることがなくなりました。
新聞を読み、テレビを見る生活で、時折、父と近隣の温泉に泊まりで出かけました。

そんな中、父が前立腺の手術で1週間ほど入院したことがありました。
「お母さん、人が変わったみたい。自分でバッグを下げてお金持って、買い物してるの!」
会社から戻った私に妻が言いました。
「目つきが違うの! 生き生きしてるのよ!」
その間に、私も1度一緒にスーパーに行きましたが、本当に楽しそうに買い物をしていました。
(人間ってやっぱり、《役割》を持って、自分のアタマで考えることが、重要なんだな)
その時、心底そう思ったものです。

しかし、父が無事退院した後は、彼らは元の関係性に戻りました。
隣家に住む私たちも、基本的には介入することはありませんでした。

母はやがて認知症になり、自分のことがわからなくなりました。
妻のことはかなり最後の方まで、
「私の一番大事なひと」
と言っていましたが、やがてその認識も失われました。
そして、心臓の弱かった母は、それから1年ほどで亡くなりました。

私は素人であり、どちらが《原因》でどちらが《結果》なのか《因果関係》はわかりません。

でも、年老いてからも、いや、年老いてからこそ、
《自分のことは、自分で考え、自分で決める》
というのは重要なんじゃないか、と思うのです。

父は、母が亡くなった時にはかなり落ち込みましたが、さらに6年生きました。彼は90代になっても頭ははっきりしており、自宅で亡くなるその日まで、日記を付けていました。

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