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【短編小説】 ムード

石原いしはらさんって憶えてる?」と君は訊いた。同席している君以外の何人かは曖昧な反応を示した。それで君は少々焦って、「ほらほら」と言った。べつに焦る必要もないのだけど、全員がそんな微妙な反応を示すとは。君は予想していなかった。「わたしたちが入部したときに3年生だった——」

「あー、いつも眼鏡かけていた人!」
「それってアキバさんじゃない?」
「いやー、石原さんも眼鏡だったと思うけど」

「石原さんは」と君がそのやりとりに口を挟む。「残念ながらわたしたちが入部した頃にはコンタクトに切り替えている」

「詳しいな、おい」

「うん……」と君は一瞬口を噤んでから「たぶん誰にも言っていなかったし、バレてもいなかったと思うのだけど。わたしたち付き合っていた一時期があったの」

全員が驚いた顔をしている。驚いていないのは麻倉あさくらだけだ。麻倉は優雅にグラスを傾けてランブルスコを飲んでいる。麻倉の口角が平時よりもやや上がっていて、見かたによっては微笑んでいるみたいにも見えた。モナリザのような表情。そうした仕草や表情のひとつひとつがいけ好かないなと千葉ちばはあらためて思った。澁谷しぶたにはわざとらしく驚いて、自らのテンションの上昇をじょうずに表すために、程よいボリュームで歓声をあげた。澁谷は昔からそうだった。ムードメーカーって柄ではないけど、いったん創出された良いムードをさらに良いムードへと、発展させていくことが彼にはできる。彼はそれを無意識にやっていた。少なくとも高校生のとき——この場にいるメンバーと美術室で初めて顔をあわせたあの春の日——くらいまでは。澁谷が自分の特性を自覚したのは美大受験のための制作に励む頃。そして、澁谷は見事に美大に合格すると——進むことになったのは第二志望の美大だった。しかし彼にとってそのことはさしたる問題ではなかった——いかんなく自分の特性を発揮した。僕には芸術をゼロからつくる才能はない。けれど、すでに存在するものを完全パーフェクトなものにする才能が僕には具わっている。

「僕はアートの世界で自分が成功したなんて思ったことは一度もないよ。自分がアートの世界の住人だとさえ思っていないよ。そんな、おそれ多いよ。怪物みたいなアーティストがいっぱいいるんだ。僕はその片隅でちっぽけだけれども確かな領土を確保して、自分なりの制作を続けている。いちおうお金をもらって。職業として、続けられている。そういう意味で、僕はアーティストじゃない。ただの職人なんだ」


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