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祈りを献げ慈善の業を為せ(2)(第二説教集4章2部試訳2) #109

原題:An Homily of Good Works.  And first, of Fasting. (善き行い、特に断食についての説教)

※第2部の試訳は2回に分けてお届けします。その1回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(28分39秒付近から):


花婿が去った後が断食を行う時

 断食にはどの時が相応しいのかについて簡潔にお話しましょう。どんな事をどんな時にしてもよいというわけではありません。かの賢者も「すべての出来事に時がある(コへ3・1)。」「泣くに時があり、笑うに時がある。嘆くに時があり、踊るに時がある(同3・4)」などと言っています。救い主キリストは弟子たちを赦してファリサイ派を論破しました。それは彼らが断食を行うことを重視せず、いつが相応しい時間がであるのかを考えもしていなかったためです。これについて、キリストは「花婿が一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか(マタ9・15)」と答えられています。彼らの問いは断食についてであり、キリストの答えは悲しむことについてです。彼らに対して明らかに答えているのは、すでに述べておりますとおり、外面的な肉体での断食など、神の御前では断食とは言わないものではあるものの、それが心の悲しみや嘆きといった内面での断食を伴っていればその限りではないということです。キリストは断食の時にかかわって「しかし、花婿が取り去られる日が来る。その時、彼らは断食することになる(同9・15、ルカ5・34~35)」と言われています。ここで明らかであるのは、結婚生活が続いていて花婿がそこにいる間は断食の時ではないということです。結婚生活が終わって花婿が去ったのちこそが断食を行うべき時です。

旧約世界の人物たちと花婿

 この結婚生活が続いているであるとか花婿が去るであるとかという言葉の意味するところをわかりやすくお話しましょう。神がその御慈悲をわたしたちに向け、御恵みをわたしたちの魂と肉体に与えてくださっている限り、わたしたちは結婚していて花婿と一緒にいると言えます。ヤコブも息子のヨセフが生きていて王ファラオのもとでエジプト全土を治めていると知ったとき結婚しました。ダビデ王もあのゴリアテの頭に石を投げて倒したとき花婿と結婚しました。ユディトとベトリアの人々すべては、神がひとりの女性の手によりアッシリアの将軍であるホロフェルネスを殺害してその軍勢を退けたとき、婚礼の子となりともに花婿を持ちました。使徒たちもキリストが目の前に現れて魂と肉体の両方の危険から守ってくださったとき婚礼の子となりました。結婚生活が終わり花婿が去ったとされるのは、全能なる神がわたしたちを苦悩でもって打たれて、わたしたちをあまたの敵の中に置いていかれるときです。神はときとして心の悩みや、友人が去ることや物を失うことや、長きにわたる命にかかわる病といった、あまたの困難をもって人々を個々に打たれます。

祈りをもって断食をするべし

 断食をすることによって、人間は全能なる神の御前で慎ましくあるのに相応しい機会を持ちます。悲しみの心をもって自らの罪を嘆き確たる心で祈る様子はダビデ王が「御顔を私の罪から隠し、あらゆる過ちを拭ってください(詩51・11)」と言っているとおりです。神はあらゆる国々を戦争や飢饉や伝染病や見ず知らずで得体の知れない病など、さまざまな艱難をもって苦しめられることがあります。そのときこそあらゆる国々も、また身分の高低や男や女や子どもといった別もなく、あらゆる人々が慎み深く断食を行って、神の御前で自身の罪深い生を嘆き、声を合わせてこう祈るべきです。「ああ主よ、あなたに向かって涙を流して断食をして祈る民に御恵みを賜りますように。あなたがその貴い血をもって贖ってくださった民を救い、滅ぶべく定められた相続を授けたり、混乱をもたらしたりとなさることがありませんように。」このように祈りを持って行われる断食が、神に重きを置いているものであり、意味のあるものです。これは天使ラファエルがトビトとトビアに語ったことでもあります(トビ12・8)。またわたしたちの救い主キリストが、なぜ弟子たちが自分たちのところに連れてこられた人から悪霊を払うことができないのかについて、弟子たちに求められて答えられたことによっても明らかです。キリストは「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ(マコ9・29)」と言われています。

アハブの罪は子孫への罰となった

 断食がどれほど有用でありどれほど神に重きを置いているもので、断食によって神の御手から何を得るのかということは、断食によってもたらされてきた大切なことのいくつかをみなさんに明らかにするだけでわかるものではありません。断食とは手段の一つにすぎません。それによって全能なる神は、純真な男であるナボトを殺害してぶどう畑を自分のものにしたアハブ王に関わってお考えになっていたことを改められました。「主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。『直ちにサマリアに下って、イスラエルの王アハブに会いに行きなさい(王上21・17)。』『あなたは人殺しをしたうえに、その人の物を自分のものにしようというのか(同21・19)。』『主はこう言われる。犬どもがナボトの血をなめたその場所で、今度は、あなたの血を犬どもがなめる(同)。』『見よ、私はあなたに災いをもたらし、あなたの子孫を除き去る(同21・20)。』『アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬が食らい、野で死ぬ者は空の鳥がついばむであろう(同21・24)』。」全能なる神はこの世でこのような罰をアハブに下し、アハブに属するあらゆる男子を滅ぼすことにしたのですが、彼に下されるはずだった罰は後の世代においてのものとなされました。

心から罪を悔いて断食をするアハブ

「アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を引き裂き、粗布を身にまとって断食した。粗布のままで横になり、打ちひしがれて歩いた。その時、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。『アハブが私の前にへりくだったので、その生きている間は災いを下さない。その家に災いを下すのは、その子の時代においてである』(同21・27~29)。」アハブは妻イザベルの奸計によって恥ずべき殺人を犯し、ナボトのぶどう畑についてのあらゆる相続と所有の権利を侵害したのですが、心から神に対して慎ましく服従し、人目にみてわかるように粗布をまとって断食をしました。神はそのお考えを変えられ、その時点でアハブの家に対して下すとした罰をその息子ヨラムの時代に下すものとされました。人の目に映る外面的な断食が内面的な心の断食と、つまり自らの罪深い行いを忌み嫌って嘆く心の悲しみと合わさったとき、どれほどの力を持つことになるのかがわかります。

街をあげて断食をしたニネベの人々

これと同じようなことはニネベの人々にも見ることができます。神はニネベの町をすべて打ち壊すと決められたのですが、そうなさると定められた時が近づいたとき、神は預言者ヨナを遣わされました。「『あと四十日で、ニネベは滅びる』と告げた。すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、大きな者から小さな者に至るまで粗布をまとった。このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がり、王衣を脱ぎ、粗布を身にまとい、灰の上に座った。王はニネベに王と大臣たちによる布告を出した。『人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ口にしてはならない。食べることも、水を飲むこともしてはならない。人も家畜も粗布を身にまとい、ひたすら神に向かって叫び求めなさい。おのおの悪の道とその手の暴虐から離れなさい。そうすれば、神は思い直され、その燃える怒りを収めて、我々は滅びを免れるかもしれない(ヨナ3・4~9)。』このような心からの悔い改めがあって、さらにここにあるように、目でみてわかるように断食をし、衣服を脱いで粗布をまとい、灰や埃にまみれることで、聖書に書かれているようになりました。「神は、人々が悪の道を離れたことを御覧になり、彼らに下すと告げていた災いを思い直され、そうされなかった(同3・10)。」

まとめ~御心に適う断食を行うべし

 ここまでに、第一には断食とはどんなものであるのかについて、外面的にわかる身体についてのものと心の内でのものについて学びました。第二には外面的に見てわかる断食が行われるとして、それが神に喜ばれる善き行いとなるための三つの要点についても知りました。第三にはさきほどお話しましたとおり、私的なものであれ公的なものであれ、どのような時が断食には相応しいのかということを学びました。そして最後に、断食によって神の御手から何を得るのかを、アハブ王やニネベの人々の例によって知りました。親愛なる者たちよ、わたしたちのこの時代にはかつてのあらゆる時代よりも断食をしてでも嘆き悲しむべき多くの事柄があります。内なる心においても外なる身体においても、聖なる預言者や使徒たちなどあまたの敬虔な人々がそれぞれに生きた時代で行ったと同じように、神の御心に適った断食を勤勉に行っていきましょう。神はかつてもおられ、今もおられます。神は義を愛され不義を憎まれます。神は罪人の死を望まれず、その罪人が邪さを離れて生きることを望まれます。わたしたちは神に向かうことを止めてはなりません。わたしたちは神の御前にあって邪悪な行いを遠ざけ、善き行いをして正義を行うことを求めるべきです。

結びの祈り~良心から隣人を憐れむ

虐げられた人々を救い、父親のいない子どもたちに対して正しいことを行い、夫を亡くした女性たちを守り、飢えた人にはパンを分け与え、貧しい人や彷徨える人には住み処を与え、裸の人には服を着せるべきです。わたしたちが肉体をもった兄弟たちを蔑むなどしなければ、神はわたしたちに向いてくださると約束なされています。「その時、あなたが呼べば主は応え、あなたが助けを求めて叫べば、「私はここにいる」と言われる(イザ58・9)。」そうです、アハブ王やニネベの人々の言葉をお聞きになって彼らを赦された神は、わたしたちの祈りにも耳を傾けられ、わたしたちを赦してくださります。わたしたちは彼らと同じように、確固として神に向かうことができます。そうです、神は天上にある喜びでもって、この世に生きる間もわたしたちを祝福され、この死すべき命の時間の後にはわたしたちを天の王国に連れていってくださります。そこでわたしたちは救い主キリストとともに永遠の祝福に与るのです。キリストに、父なる神に、聖霊に、すべての栄えと誉れがとこしえにありますように。アーメン。


今回は第二説教集第4章「善き行い、特に断食についての説教」の第2部「祈りを献げ慈善の業を為せ」の試訳2でした。次回から第5章「暴飲と暴食について」に入ります。まずは解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。


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