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カーマン・ラインを越えて行け①

 それは、海抜100km上空に惹かれた仮想のラインである。成層圏、中間圏を越えた先の熱圏の中にあるこのラインは、曖昧なくせして、宇宙空間と地球とを分断する。過酷な環境であるがゆえに、美しい世界。オーロラは地上から約80km上空に出現するから、このラインに到達すれば、オーロラを上から眺めることだってできるし、流れ星をすぐさまその手でつかむことだってできるかもしれない、そんな場所である。我々がこれまでいた世界とは分断されており、通常は行くことのできないそこに到達することは、神への背信であろうか、それとも人類の大いなる一歩であろうか。果たして僕は、あの日、カーマン・ラインを越えることができたのだろうか。

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「調子はどう?」
 作業を中断して振り返ると、そこには休憩中の睦の姿があった。二つに結んだサイドテールを雑貨屋で買ったピンク色のシュシュで結んでいる。うちの校則では、シュシュは禁止なんだけれど…。
「どうだろ、またやりなおし。テーマから具現化できない。描いても描いても違う気がしてしまう。」

僕は、ため息と共に吐き出すように言った。そうして、いい機会だからすこし休憩しようとぐっと背筋を伸ばし、深呼吸をし、世間話を始める。

「睦はどんな感じ?」
「うん、何となくってかんじ。水墨画、すごく神経使うけどなんだか筆がなじんできたみたい。筆の使い方がわかってきたところかな。」
「そうか。」

 美術部は今月、特に忙しい。卒業前にその代の高3が必ず、ひとり一作品、自由なテーマで作り上げて4月末の展覧会に出展するという伝統がある。そしてその締め切りが刻々と近づいているのだ。今は、部室で僕と睦の二人だけ残って只々、作業をする。

僕の高校の美術部は今月、特に忙しい。卒業前にその代の高3が必ず、ひとり一作品、自由なテーマで作り上げて4月末の展示会に出展させるという伝統がある。そしてその締め切りが刻々と近づいているのだ。今は、部室で僕と睦の二人だけ残って只々、作業をしているというわけなのだ。卒業式を終えた春休みにもかかわらず、展示会の準備をするなんて、他校の美術部からしたら驚きだと思う。そのため、この美術部が少し特殊なことにも、ここで触れておくことにしよう。僕の高校の美術部は、絵を描く人も、油絵、水彩画、水墨画と様々だし、陶芸、版画なんてものをやる人だっている。そして、レベルの高さと取り組み分野の広さを評価されて、毎年、美大からわざわざ推薦の誘いが来たりしている。今年の卒業生で言えば5人のうち美大進学が2人だ。数で言えば例年通り、といったところであろうか。かく言う睦も有名美大に進学する予定である。ちなみに僕はと言えば、水彩画を描くが、美大に進もうなどとは思っていなかった。私立四大で国際関係を学ぶ予定だから、美術なんかよりも今のうちに英語を勉強しておかなければいけない気がする。『学校終わったなら遊べばいいのに』『次のステップへの準備はどうした?』といったような声が頭の中で響く。何回も聞いた常套句は、一語一句思い出せるくらいには聞き続けてきた。

(先生たちは、絵よりも英語だ、世界史だ、と英語検定2級の僕に口をすっぱくして刷り込んでくる。それでも3月のこの時期に、誰もが遊んだり次のステップに向けて勉強しているこの時期に、最後の最後まで「無駄なこと」に対してじたばたする僕は、ただの人生の無駄遣いかい、滑稽なことなのかい?)

 もやもや考えている間に下校時間になったので画材をカバンに詰め込み、急ぎ足で門を潜り抜けた。バスに間に合うだろうかなんて考えている暇もなくとにかく走って、なんとか乗車する。バスが発車したので、息切れしながらも電子マネーをピピっとかざすと一番後ろの、左側の特等席に腰を下ろす。ふう、と一呼吸すると、吐き出した空気は一切の気をまとって口から抜けていった。

  もともとは、絵葉書を描くのが好きだった祖父と一緒になって描いていたのが始まりで、気づいたら絵が好きになっていた。僕は職業でやっているわけではないので、好きだから学ぶ、ただそれだけだ。そりゃあ展覧会かなんかの締め切りに間に合わせるのはきついけど、自分の見たものを、思いのままに筆を走らせ、しかも誰かに見てもらえたら、なんて。描きたいものがはっきりした時の気持ちと言ったら、未知の陸地にたどり着いた冒険家、神の言説というこれまでの「真実」を超え、生物の多様性に触れたダーウィンのようだ。彼の目はきっと、驚くくらい澄んでいるんだろう。それは、この前公園の砂場でビー玉を見っけたという大ニュースを、通行人の僕なんかに報告してきた子供の目のようであろうか。でも絵をかく時、そんな純粋な目を僕だってもっているはずなんだ。新しいものを見つけたら、誰だって、僕の発見なんだ、と実際に物を見せて、人に言いふらしたいものだろう。ダーウィンも、子供も、僕も、人類史における重要度は違うかもしれないが、表現したい、誰かに見せたいという気持ちは同じものなんじゃないかと思う。表現方法が、つまりは、論文か、絵か、口頭か、の違いがあるだけだ。

 でも、今はそんなこと言っていられない、僕は卒業制作として最後の作品を書きあげなければいけないのだから。澄んだ目、冷静沈着であるけれども感情は高ぶる、あの不思議な感覚に到達しなくてもいいから、取り敢えず作品を書き上げることにただひたすら集中し、いくつもの作品を破壊しては作り上げ、その繰り返しをしなくてはならない。
この時期に作品がうまく描けていないのは、僕だけだった。ほかのみんなは、やりたいことが決まっていて、もう作業に取り掛かっている。その事実は、僕の冷静さを奪おうと目論み、まるでいたずらを計画する子供のように無邪気に笑い、余計に僕を焦らせる。心臓が早まるだけならまだしも、手の甲の血管がヒクヒクと引き攣り、呼吸ができないわけじゃないのに金魚みたいに口をはくはくさせてしまう、このところ毎日が苦痛だ。
僕のテーマは「星」だが、どういう星を描くかもまだ決まってはいない。そもそも、僕はなぜ星なんか描こうと考えたのかもわからない。直感で選んだ自分を恨むが、今更テーマを変えたところで同じ結果になりそうな気がするし、先生もそれは許してくれないだろうから僕は結局このテーマと対峙するしかないのだ。苦痛な現状を前にして、乗り物に揺られている間、ナイーブになってしまうのは、日頃から読んでいる小説の影響なのだろうか。

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「ただいま」
「おかえり、ご飯できてるから早く食べちゃってね」
 母に言われた通り夕飯を食べて、風呂に入る。業務的なような気がするけど、会話がないよりはあった方がいいだろう。思春期を過ぎたらちゃんと会話する予定だから、今はこの程度で許して欲しい。ちゃっちゃかと寝支度を整え布団に入った。


 電気を消すと、眠気が襲ってくる、なんてことはなく、またまた考え事をしてしまう。一言断っておくが、僕は決して病んでいるのではない。僕は結構明るい性格だからスクールカーストで言えば中間より上あたりで、友達も多い方だと思う。そして所属している美術部も美大推薦が多いが故に、カースト中間には位置するんじゃないかと思っている。だから僕は、みんなが一般的に悩むような友人関係の悩みはない。あったとしても今はもう忘れているくらいにくだらないものだったし、卒業間近にそんなことで悩むのは誰だっていやだろう。みんなだって、「良かった」と言って、泣きながら卒業したいはずだ。

 僕のこれは、考えることが好きだからだ。僕は一種のロマンチストで、悩むことも苦難であり成長であると思いながら、よりよいものを模索するためにひたすら考えるふりをする。それは、理論と実践がまったく一致することもなく、空想の中で、ふわふわと宙を漂いながらも正しいと信じられるものがあるだろうと飛び続ける。これを、昔のアテネに活躍したソクラテスや、デモクリトスたちに当てはめるにはおこがましいような気がするけれども、そんな感じだ。
 精一杯頭を働かせて絵を描いていても、都会に生まれ、無機質な都市で育った僕は、少し自然に対する感性が鈍っていて、ふわふわとしたものしか描くことができない。そして「星」と言われたとき、ネオンのライトや電柱の光に紛れて、消えそうな星くらいしか思い浮かばないが、それはなんか違うきがする。幸せな時、人が幸せを噛み締めることができないのと同様に、物質的に豊かなこの地域に、街の灯りとして機能していた星々は、機能的にその責務を失って、すっかり見えなくなってしまったのであった。そんなわけで、僕にとって星はあまりにも遠い存在で、テーマとしてはこれまでで一番難しいのだ。なのに、どうして星、なんて設定してしまったのかも謎で、もしかしたらこの直感の先、そして曲がり角のまだ見ぬ向こう側に自分の答えがあるのではないかと信じては、ぐるぐる砂漠の中を彷徨っているのだ。そうして、こんなことをぐだぐだ考えている間に、だんだんと、僕は、ベッドの底に沈んでいくような感覚に陥り、眠るのである。

つづく

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