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カーマン・ラインを越えて行け③

 皆がみんな、そこに行きつくことが出来ないということは、誰もが承知している。大抵の者は身の程を理解し諦めるが、極稀に諦めの悪い連中なんかがいるものだ。彼らは時に肩を叩かれ笑われ、悔しさで手元の設計図をくしゃりと握り潰しながらも、ただひたすらに理想を目指し、エンジンをかける。そうして彼らは機長となって機体を操縦し、上昇気流に乗って飛ぶのだ。緩やかに気流が安定したのを確認すると、機体が傷ついていくのを感じながらも、上へ、上へ、と昇っていく。しかしながら、エンジンに負荷がかかるような限界突破を保ち続けることは、機体の損傷を意味する。エンジンが焼き付き、翼が折れ、壊れたメーターを目の前にした機長には、もはや何も残されておらず、もう自分の目と手足しか信じることができない。目指すべきそこはすぐ先か、それとも既に通過しただろうか。はたまた、そこへ行くにはアクセルだろうか、ブレーキだろうか。故障した機体は途中地点で置いて、勇気だけを片道切符に、機長は行き先不明のほうき星に乗り込むしか道がない。ほうき星は宇宙に切れ目を入れようと、今、発車のベルを鳴らしている。

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 結局どこを探してもピカイチは見つからなかった。普段興味すら持たなかった者に対し、もしかしたら自分の悩みのヒントを持っているのかもしれない、なんて望みをかける位に、僕はまいっていた。実際にそういうものは恣意的な意味付けでしかなく、ピカイチを見失って直ぐに現実に引き戻され、それを機に僕の心は一気に空気が抜けたように萎んでしまった。自分の作品について、つまりは、「星」について考えることができなくなってしまったのである。筆を持つ手はキャンパスの前を右へ左へと行ったり来たりするが、段々とパレットと筆が重く感じられてだらりと力なく下に降ろす。背中が自然と丸まり、息を吸うよりも吐く方が楽に感じられるようになった。

 けれどもこの状況は決して苦しいものではなかった。これは、これまで意地でも論理的なことを言ってのけようと必死だった僕にとって、全く未知の経験であり、ユートピアそのものであった。何もしなくても時が過ぎていく、その流れに身を任せ、「いつか」を迎えることを待ち続けることは、なんて楽なのだろう。もはや、僕には展覧会に向けて、自らの思い描く作品を完成させる責任感なんてものは失われ、代わりにこれまでとは異なる時間の流れの中でゆっくりと「最後」を待つ穏やかな僕になっていた。この変化について先生も心配して、今日は帰りなさいと促すくらいには明らかだったかもしれない。けれども、燃え尽き開き直ってしまった僕は、どうでもいいと思えるくらいには吹っ切れていた。その穏やかさといったら、まるで正午の昼下がりのようで、僕は、心配する先生をよそに、何食わぬ顔をして教室を後にした。

 ただ、唯一気に食わないのは、普段から無自覚に気に障ることを言ってくる睦が、こういう時あからさまに気を使っているのか、中身のない世間話しかしてこないことであった。有名な美大への進学が決定し、先生からもいつも手厚い指導を受けていた天才肌の睦は、何をやっても上手で高い位置にいるのに、落ちこぼれた僕のことを気にしてくるあたりが、偽善者ぶっているようで、僕をとてつもなく苛立たせた。

「今日は、駅前のドーナツ屋さんの……」

 彼女の言葉を聞くだけで僕は不愉快になった。でもつもりに積もっていたこの苛立ちを、僕は心の中にこっそりと閉まっておくつもりでいた。苛立ちというものは時間の経過とともに薄れていく。そうして、いつの日か、昔、あんなに争っていたあの二人が、飲み友達となっている、なんてことはよくある話である。土地、言語、文字、考え方のようなちょっとした違いから生じてしまう争いというものは、昔も、今も、これからも僕ら人類を無作為に襲い続けるだろう。いつかきっと報復してやろうと、先祖の受けた痛みをいつまでも忘れないでいることもある。けれども、誰かに傷つけられた傷はいつか、長い時間をかけて癒える。今は憎しみで溢れ返ったとしても、かつて争っていた民族の子孫たちが、長い年月をかけて、いつの日か同じ月をともに眺める、なんてことだってあり得るのだ。だから、時間というものに任せれば、僕もきっと彼女へのいら立ちを忘れることができるかもしれないと思う。彼女は美大進学だから、きっと僕なんかが文句や嫌味を言えないようなレベルに到達し、天の上のような存在になる。僕はと言えば国際関係に進むから、お互い別の道を目指すことになるだろう、そうして、もしかしたら、いつか、酒を飲みながらあの時実はイライラしていたんだ、なんて暴露大会をして笑い合える日が来るかもしれない。

「そういえば、今日学校の守衛さんが…」
「あー、……うん。」

 すべては時間の流れである。だから、今はそれに耐えるのだ。空返事になってしまったが、返事をしないよりかは断然ましで、それよりも僕はすぐにでもこの危険物質(睦)から離れなければいけなかった。

「僕、ちょっとコンビニ行くから、先に帰っていてもいいよ。」
「本当?…じゃあ、私も!!」

 この一言が、どれほど僕の顔を曇らせたか、睦は知らないだろう。彼女に対する基準値はとうの昔に超え、頭の中ではずっと警報機が鳴り響いている。唯々、この危険物質から逃げ出したくて必死に出した選択は、かえって一緒にいる時間を長引かせるという逆効果になってしまった。

「スイーツは、新作がないか指差し確認で一つ一つチェックしていくからね。いちごケーキ、大福、うん、異常なし!」

 声を聞くだけでストレスゲージが上昇するから本当にやめてほしい。結局何も買わずにコンビニを出て、また歩き始めた。僕は相槌さえ打つこともできず、睦もついには話をやめて、お互いに無言になってしまった。そうして、二人並んで気が遠くなるほどの長い時間、歩き続けていた。

けれども時間というものはやはり不思議である。まだ見ぬ未来は遠く離れて感じられるが、一旦過ぎてしまえば一瞬に感じられ、寧ろもう過ぎたのかと味気なく感じられるのだ。後ろを振り返ったって、自分が体感した時間が長いのか短いのかさえ分からず、ただただコンクリートの車道と電柱があるだけだった。そうしているうちに、僕らは土手に差し掛かり、もう少し歩けば二人の分かれ道がある。僕はもうすぐで一人になれると思い、大きな希望を抱いていた。大きな川の向こう岸、工業地帯の方へと沈む真っ赤な太陽が、川に反射し、これまでにないくらい輝かしく見えた。光に反射した川は、いつも汚いはずなのに銀食器のように反射していて、あの水銀のような川の水に触れれるだろうか、それとも燃え盛る鉄のように熱いだろうか。土手を照らす真っ赤な情景が美しくて、僕の心をより一層落ち着かせた。

僕が夕日に見とれていると、突然、肩を叩かれ、隣を見ると睦が真剣な顔で立っていた。夕焼けのせいで顔が赤く染まり、なんだかその顔は、怒っているようにも見えた。

「ねえ、本当に大丈夫?疲れているみたい、ゆっくり休んだ方がいいよ!」
「そんなことない、余計なお世話だよ、平気。」

 僕が吐き捨てるように返すと、睦は元気づけようと思ったのか、更に声を大きくして言った。

「あなた、いつも頑張りすぎなのよ、少し休んだ方がいいよ!いつもあなたが色々と考えているの、私、知っているよ。今日はとりあえず寝て、明日から頑張ろう。締め切りまでもう少しだから!」

 彼女のにっこりとした笑顔には日の光を浴び、更に光って見えた。あ、これはダメだ、と僕の脳みそが冷静に判断した。フラッシュのような彼女の笑顔は割れたガラスのように飛び散り、そのうちの一つがさっくりと僕を突き刺した。重い衝撃なんか感じる暇もなく、音をも置き去りにするようなハイスピードで突き刺さったそれは、いとも簡単に僕の心にヒビを入れた。理性と感性は対局で、感性を理性で説明するのに限界があるように、僕の忍耐力の防壁は限界を迎えて決壊し、これまで押さえつけていた苛立ちが、まるで雪崩のようになだれ込んできた。そうして、その一言は低い声で、ゆっくりと口からこぼれ落ちたのである。

「お前のそういう態度、本当にむかつくんだよ。」
「え、……?」

 そこから先は、簡単だった。一度表に出てきてしまったものは、もう隠すことができない。汚職だって、ダイナマイトだって、そうだったろう。一度出てきてしまった彼女への苛立ちは、芋づる式に次から次へと出てきて止まらなかった。もう粒ではなく、一気に吐き出すように出てくる言葉は、もはや何を言っているかわからなくなるくらいには、僕は論理的ではなくなっていた。

「…ごめん、しばらく一人にして。」

 そうして僕は、最低ではあるだろうけれども、睦に冷たく吐き捨てて一人、歩き出した。後ろに置いてきぼりにした睦がどうなっているかなんて、振り返ってみることもできず、ただただ、黙って川沿いを歩き続けた。

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 次の日、家にこもっていても落ち着かないので土手にいたが、それでもなぜか落ち着かず、結局学校に来てしまった。けれども美術室に行くこともできず、美術室から少し離れた空き教室で空を眺めていた。空の色がいつにもまして澄んでいるのは、僕がもう絵に対して何にも思ってなんかいなくて、過去として吹っ切れたためであろうか。一度きりの人生で、この苦しみから解放された僕は、人生が選択の連続で、絵なんてものに固執しなくても、今後、様々な道が現れるということを知っていた。この青い空、そしてそれをハサミで切り込みを入れたようにすっと引かれた飛行機雲が、今は心地よく見えた。

 その時、突然ガラリと教室の扉が開く音がした。振り向くと、そこにいたのはあの時、そうだ、そういえば、この教室で見失ったピカイチであった。

「あ」
「うわっびっくりさせんな、おい」

 中から突き動かされるような、ドクン、と心臓が再び動き出すような感覚にみまわれた。ピカイチは僕に驚くと、すぐに扉を閉じた。この時、なぜだかこれが最後のチャンスのような気がして、足が床を踏みしめ、手を伸ばし、走り出していた。一体何のチャンスだと思ったのかは全くわからなかったが、それは、自発的な動きというよりも、磁石で引き寄せられるような、衝動的な感覚であった。

「げぇ、お前なんでついてくるんだよ!!!!!!」

 この教室で起こったことだったのに、何故忘れていたのだろうか。そして、あれほど吹っ切れてもう見向きもしないと思っていた、あんな苦しい世界にもう一度手を出そうとしてしまうなんて、そんなのまるで、麻薬じゃないか。けれども苦しいはずのあの世界の中に酸素があるような気がして、吸い寄せられていく。精神の限界地点で彷徨った先、新天地がそこにあるのではないかという本能だけに身を任せ、僕はピカイチを追いかけまわして校舎中を走り続けたのであった。


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