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カーマン・ラインを越えて行け②

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「うーん…なにかが足りないね、なんだろう。」

 静まり返った美術室で聞こえるのは先生の唸り声、僕の心臓の音、そして壁に掛けてある規則正しい時計の音だけである。もしも今、美術室にいるのが僕と佐々木さん(クラスで1番可愛くて、隣のクラスに彼氏がいるから迂闊に手は出せない。それでも、二人きりで教室にいるなんて状況になったら、他の奴らに自慢できるに違いない)だったら天国のような空間なのに、現実はそうもいかず、僕は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。僕のスケッチブックのラフ画を見て唸る先生の顔色を伺いながら、どのような言葉が返ってくるだろうかと身構えているわけである。絵の解説をしようか、それとも黙っていた方がいいのか、いやいっそのこと、世間話でも切り出すべきか。冷や汗が止まらず、必死に頭の引き出しを開けては閉める、を繰り返している。将来お見合いすることになったらこんな緊張感の中話さなきゃ行けないのか、そんなの耐えられない、と脳みその半分側にいるのんきな僕が焦っている僕を分析するのだった。

「……きっと、」

 口を開きかけた先生から何を告げられるかわからない中、緊張で肩を強張らせ次の一言を待つ。まるでそれは、死刑宣告を受ける患者そのものだ。花粉症予防のための、先生の白いマスクがペストマスクに見えてくるのも、きっと気のせいだ。

「締め切り近いから、これでもう描いてしまってもいいと思うんだけど、あなた自身が納得いってないみたいなのが見えるから。……きっと、気持ちかな。ありきたりな星空を描いているだけで、何を表現したいかがまだちょっと伝わってこない。多分、あなた自身にそれが定まっていないからで……どうかな。少しだけ、描かずに考えてみたらどうだろう。」

「はい、わかりました。」

 できるだけ冷静を装えるよう、落ち着いた口調で返事をする。心の中では、思うことは多くあったが、煮え立った興奮を冷静さで押さえつける。

(僕だって考えているよ、考えているけれども霧に包まれているようで前が見えないんだ。いつかきっと、いつかきっと、なんて言い聞かせたって、ヒントっていうやつは降りてきやしないし、答えにたどり着けないのは明らかだ。こんな時、先生がはっきりとアドバイスしてくれればもっと僕の視界はクリアになるのに。それでも敢えて、先生が考えろなんて仰るのは、締め切りギリギリになっても僕なら完成できるだろうと期待して下さっているからだろう。)

 先生の言葉は愛でできたビスケットだ。それは、ミルクと一緒にクリスマスの夜、サンタに捧げるジンジャークッキーだろう。みんなは怖い、と口々に言うけれども、それは皆が美大進学を目指しているからであって、それだけに先生も指導者として必死なのだ。こんなにも熱量のある先生のことだから、きっと生徒とぶつかることだった多くあったはずだ。実際に、これまでも幾度となく泣きながら退部届を渡してきた生徒たちを見てきた。ただ、それは彼女らが臆病であるとか根性がないのではなく、たまたま先生との相性が悪かった、そして僕が今日まで美術部を続けてきたのは、たまたま先生と相性が良かったからである、ただそれだけだ。他のみんなは、僕なんかよりすごく繊細且つ大胆な絵を描くし、想像力なんかも驚くほどのものだからもったいない。だけれども、彼女らが先生の愛情への理解が不足していたことだってあり得る。現に僕は、このピリッとした辛口の裏側にたくさんの愛がこもっているのを知っていて、その一言、一言に対して責任を感じながら発しているため、ゆっくり喋るが、その分厚みがあり、いつも僕らを温かく包むのである。普通、社会において知らない相手を批判することは簡単だが、なかなか身内を批判することに人は長けていないと僕は思う。関係を持った相手を批判したら、嫌われるんじゃないか、というためらいが先行してしまいがちだ。中にははっきり言うことのできる人もいるが、それはまれだろう。だから、今の先生のこのアドバイスだって、言葉を選びながら、これを言ったら僕がもう一度作品を作り直さなければいけないのをわかっている、だけれども指導者としての立ち位置と僕自身の性格を見据えた上での先生の優しさなんだろう。美大進学ではない僕は、進学者に比べてあまりコメントをもらえていないように思えて寂しかったから、何か言ってくれるだけありがたいと思えた。
 ただ、僕だって場の緊張感からすぐさま別の場所に逃げたくなり、先生にお礼を言うと、早々にカバンを持って逃げるようにそそくさと去っていこうとした。そして、部室のドアを開けて出ようとすると、廊下でサッカー部の光一とぶつかりそうになった。

「おい、気を付けろ。」
「ごめん、ピカイチ。」
「おい、みつかずだって言ってんだろ。」

 光一はすぐに噛みついてきたが、舌打ちをするとすぐに去って行ってしまった。

(こんな春休みに、何をしているんだろう。サッカー部はもうないはずなんだが。)

 みつかずとは同じクラスだけれども、そんなに仲がいいわけでもない。彼はいつもサッカー部の奴らと固まっているだけで、僕のことなんかまるで眼中にない。相性が悪いわけでもなく、お互いに無関心で、良くも悪くも、他人なのである。辛うじて挨拶を交わすくらいだった。ピカイチというクラスのあだ名について、みつかず本人は相当気にしていて、いつも改名したいと嘆いている。けれどもピカイチという面白いあだ名がなかったら、怖がって誰も近づかないんじゃないかというくらいに、光一は尖った性格をしている。さっきの血走った目だって、怖さピカイチだったろう。なぜ春休みに学校に彼がいるのか少し気になったが、歩いているうちにすぐ忘れてしまうくらいに、僕は自分のことで手一杯だった。今は、星について考えなければならない。よく小学校の先生に言われていたのは、世界で一番を大きいものは、ロシアでも、南極でも、世界、地球、宇宙でもなく、人間の頭の中だそうだ。つまり、クリエイティビティは無限大に広がる、ということだ。だからこそ、人間は神という創造物を、人間の上に置いて、崇めることができたのかもしれない。神様は人間の信仰心無しにはその存在を維持できず、忘れられてしまっては、かつての洞はただの休憩所になる。それでも人間が、見たこともない神を、絶対に存在しうると信じ続けることができたのは、ただならぬ想像力を持っていたことが関係すると僕は思う。神様は本当にいるか、いないかで言ったら話は別だろうが。けれども僕は、無限なはずの想像力に限界を感じていて、星に対してもう死ぬほど考え尽くしてしまった気がしている。今まで大好きだった考えることが、どんどんと頭のストレスと化してきてしまっている、このままではいけない。そうして現在の行き詰った状況を推測するに、もしかすれば僕には今、調味料が足りないのではないか。あともう少しで次のステップに行けるとするならば、そう、少しの刺激が必要だ。

(……よし、こんな時には気分転換だ。なにか、インスピレーションが得られるような体験をしたい。)

 考えすぎて煮詰まってきたので、とりあえず星が見れるプラネタリウムにでも見に行ってみようか、と考えながら教室に戻り、学校を出ようと準備を始めたが、偶然居合わせた睦も目を輝かせてついていく、なんて言いだすから僕は彼女の片付けのために、出ていったばかりの気まずい美術室に戻り、更には20分も待っていなければいけなかった。

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『北西の方向に見えますのが、3月の午前0時ごろ、見られる星座でございます。まだ、寒さの残る夜空には、北斗七星で有名なおおぐま座やうしかい座、おとめ座などを見ることもできます……。そうしてこちらに見えますのが、春の大曲線でございます……。』

 ナレーターの女性の声が柔らかくて眠ってしまいそうだ。言葉が一つの音符ならば、このリズムは16分音符のリズムを刻み、文節ごとに切れているはずの言語が段々とつながって、不思議な旋律を生み出している。ふと、隣を盗み見ると、目をキラキラと輝かせる睦の姿が見える。好奇心半分と、世界に入り込んでうっとりと光悦している様子から、ああ、女の子はこういうのが好きなんだっけ、と冷静に観察してしまう。女の子が砂糖でできているという昔のわらべ歌も納得できる。僕ら男はなんだっけ、犬のしっぽ、とかなんとか。いつまでも観察していてもしょうがないので、プラネタリウムに視線を戻せば睦のように興奮できない、冷静な自分がいることに気づいた。線だけでなく、わかりやすいように星座をイメージした絵まで映し出されている。おとめ座なら、丁寧に星座の線に合わせて美女が天井に映る。濃淡の統一された星々は、人間に見やすいように自己を主張し、激しくぎらぎらと光る。漂白剤によって薄めたような水色の「夜空」は隣にいる睦の顔もはっきりと照らす。星とは何ものだろうか、という僕の疑問はより一層深まり違和感だけが残った。更に、この今見ている「夜空」が虚構で、現実の空はこんなものではないという事実が、余計に僕を苛立たせた。こういうのを見て、僕も彼女のように感動できれば、どんなにいいだろうに。

(人工物がアートならば、これもアートなんだろうか。)

 先生なら知っているだろうか、でもこの言葉に、違和感を感じてしまうのは何故だろう。結局僕が星に対して感じている何かを探ることもできず、感性が足りない僕は考えるのをやめて、静かに目を閉じた。

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 廊下で再びピカイチを見かけたのは、次の日の午後であった。いつもは他者としてシャットアウトし、お互い必要以上近づかないのに、なんだか気になってしょうがなかった。なぜ春休みなのに一人で学校にいるのだろうか。サッカーの自主練なら、この廊下を歩いていることすら不自然ではないか。なぜならここは中央校舎の4階で、教室からもグラウンドからも遠いのだから。不思議に思っていると、違和感は、疑問になり、ふつふつと水泡のように、水底から上がってくるように現れる。そうして、気づけば足が、勝手に地を踏みしめ、ピカイチの後をつけていた。しかも、この足は頭のいいことに、対象者に気づかれまいと、10メートル後ろをつけて回る。僕の知らないうちに、足は尾行のハウツーを学んでいたらしかった。そうして後をつけていると、ピカイチはとある教室に入っていくのが見えた。それは、美術室より二つ、隣の空き教室だった。<小教室3>と書かれたその教室は、普段授業でだれも使わないため、存在することすら知られていなかっただろう。耳を澄ませてみても、物音一つしないことに違和感を覚える。本当にピカイチはこの教室に入っていったのだろうか。この教室は、別空間につながっていいて、もしかしたらピカイチは別次元へと吸い込まれていったのではないかとさえ、考えてしまう。
 僕は、何も考えず、ただただ力任せに、扉の取っ手を横に引いた。ガラガラガラ…なんて音を立てて扉が開き、顔を覗かせれば、そこにはピカイチどころか、誰もいなかった。ただただ、埃っぽい教室と、授業用に整頓された机が並んでいるだけだった。

つづく

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