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まち歩き【目黒・渋谷の地質〜歴史編】

しばらく前の話になるが、東京の目黒・渋谷地域を歩いてきたので、その地域の成立に関して、地質を中心に簡単にまとめておきたい。実際に歩いていない地域も知識として興味深いところもあったので書きたい。

目黒・渋谷地域が現在のような住宅街・繁華街になった経緯を調べ、自分なりの解釈で理解した。この地域でのまち歩きの発端は聖地巡礼だが、一応簡単な資料収集もしていたので、調べたことをなるべく簡潔にまとめておきたい。まち歩きをしながら気がついたことは、本来であれば、まちを歩く中で、歴史的な遺構に出くわし、地域の特徴、価値を発見していくのだが、東京の場合、一見しただけでは、所謂昔の名残というやつが見つけられない。だから東京でブラナカオをするのは難しいのだ。都市計画の未熟さを実感するばかりである。まちを歩いていても、地域のことが何にもわからないので、今回は主に文献資料を使って集めた情報から、地域を概観してみたい。だが、それだけだと大掴すぎるので、まずは地域のことを調べる上で必ず抑えておきたい地質特性を基に考えることにした。

「現在の住宅地・繁華街である目黒・渋谷ができる要因は、遡れば関東ローム層にあるのではないか?」という問題提起から始まった。


東京は大部分が武蔵野台地という台地の上にあり、その表面を関東ローム層という地層が覆っている。関東ローム層はほとんど粘土に近い程度に風化が進んでいて粘着性があり、保水性は強いが透水性がない。これは耕作土としては最も不適当な性質だ。関東ローム層に覆われた土地は、石器時代までの人文発達条件には適していたものの、農耕時代に入ってから生産地としては恵まれなかったようだ。目黒・渋谷の歴史は先史の資料が多くあるが、近代になるまでの資料が少なかった。農耕地として恵まれなかったことにより寒村である状態が長かったとされている。

関東ローム層は粘土層と礫層の互層になっていて、この礫層の部分から地下水が湧き出て、それが武蔵野台地を削り、川になった。目黒・渋谷一帯は、開析されてできた丘と河岸の低地から成り、地質時代の複雑な構成の結果出来上がった場所だ。湧水に恵まれている土地だったが、例によって農耕への利用度は低かった。


近代に入り、目黒・渋谷一帯の村々は蔬菜類(そさい:野菜のこと)を栽培し始める。幕藩体制の成立とともに政治都市として建設された江戸は、江戸詰の領主・家臣・商人・職人などを住まわせた点で、消費都市としての性格をそなえていた。彼らの生活必需品は商人の手を通じて大阪などから買い入れていた。そのことが、江戸周辺での商品生産を阻むことになった。江戸誕生時点から市場に参入する余地がなかったのだ。ただ、極端に生鮮度が要求される蔬菜類はむしろ例外であったために、江戸近郊では農業経営の中で蔬菜栽培が占める割合が極めて大きかった。

先述のように、耕作地として不適当だったにもかかわらず、蔬菜栽培がなされるようになったので、土作りは大変だったようだ。どんな肥料が使われていたのかというと、草木の灰・人糞・尿・塵芥(じんかい:ゴミ)・厩肥え・刈敷などだ。領主もその観点から、便所を広くしたり、牛馬を飼うことを奨励していた。下肥(しもごえ)、とりわけ小便の肥効性が高く、需要が多かった。蔬菜の商品生産が発展してくると、下肥の需要が一層高まり、ついに購入肥料にまでなった。

需要が増すにつれて、下肥の価格は高騰する。それは零細農家の経営も圧迫するようになった。汲み取り先に農作物や代替物を渡し、取引する農家も現れ、時には汲み取り権を巡って争いも起こった。

目黒地域の村民の汲み取り先としては、約6割が芝区、約3割が麻布区であり、他に赤坂・下渋谷・京橋・神田地域まで出向いている。今、目黒の辺りは高級住宅地や繁華街などもあって華やかなところだけど、つい100年ほど前までは荷車を押して近隣の町へ赴き、うんこの取り合いをしていたのだ。これを想像するまでにかなり時間がかかった。

明治に入るまで目黒・渋谷地域は寒村の状態だった。それを一変したのが、資本主義の発展とともに成長してきた近代工業だ。日本は富国強兵、殖産興業を掲げ、その大元である首都東京が目玉になった。その中に目黒地域も含まれていた。日清戦争を踏み台に、日本は海外市場に進出した。だが、在来産業の発展の遅れと消費都市として密集している東京に次々に工場が建設されたのだから、用地不足になった。そこで、工業用水に恵まれた立地条件のよい近郊農村に工場の進出が始まった。

その一例として、現在の渋谷区恵比寿に建設されたビール工場をあげる。渋谷区恵比寿にエビスビール記念館と恵比寿ガーデンプレイスがあるが、そこはもともとエビスビールを製造する工場だった。ビールを製造するには大量の水が要る。大日本麦酒株式会社は、渋谷を流れる三田用水に着目し、その流域の三田村にビール工場を建てた。水利を巡って村民との争いが起こったが、三田村やその周辺の村もあっという間に近代化の波に飲まれていった。

明治33年(1900)、パリ万博でエビスビールが金賞を受賞して以降、注文が増加し、出荷が間に合わなくなったので、ビール出荷用の駅舎を建造した。これが今の恵比寿駅だ。恵比寿という地名もエビスビールに由来する。それにしても自社製品を運ぶために貨物駅をつくってしまう会社なんて今の日本では考えられないな。もっとすごいものを造っている会社もあるのかもしれないけど。


とにかく、ビール工場がこの場所にあるのは、単に土地があったというだけでなく、水利という点でその必然性が見られる。近代化という時代の流れと、農耕に適さない余りある土地、地質特性により湧き出る水。ビール工場がここに建設されたことには、自然と文明が織りなす然るべき理由があったのだ。ちなみに、水源は目黒周辺では他にもあるのだが、なぜこの用水が選ばれたのか。三田用水を含め目黒川沿いを流れる川の地下水面は深く、飲用に適している。一方、碑文谷(ひもんや)あたりは地下水面が浅く、関東ローム層中の鉄分が集積していたり、湿地植物の分解した有機物が多く含まれているせいで飲用に適さないそうだ。それがどれだけビール製造に影響するのか分からないが、水質と工場の立地も無関係ではないだろう。

エビスビールに関する詳しい内容はエビスビール記念館で知ることができる。エビスビールを楽しむなら、現存する最古のビヤホール「ビヤホール銀座七丁目店」がオススメだ。洒落ていながら大衆的で、銀座のあり様を体現しているところだと思う。そういうところでこそ、エビスビールが活きるのだ。少し値が張るが、銀座でランチをするなら是非そこへ行きたい。

明治以降、日本の資本主義はこの地域(目黒・渋谷)で急速に発展し、工業の中心地として京浜工業地帯をつくりだしていった。ビール工場はその一例に過ぎない。

その後、目黒・渋谷地域は住宅地としての様相を呈していく。近代化によって生産・流通に携わる人が要求され、日本全国から東京めがけて人口の集中がおこなわれだした。新しい都会人の住居は勤め先の近くに求められ、東京市には、小住宅がひしめき合った。その勢いは市街にもはみ出した。人が多く住みつけば商店も必要となり、道路もひらけ、交通機関も整えられる。渋谷の道玄坂も、今でこそ広い道路で、お店もたくさんあって賑わっているが、この道が現在の広さに整備されたのは明治32年(1899)だ。それまでは、「両側が山で狭い坂道に山際より雫が垂れ、いぶせき田舎道であった...(略)坂上にあばら屋が二、三軒と茶屋が一軒あった」というほど閑散とした場所だったという話もある。他の資料では、「道玄坂や宮益坂は大山街道上にあり、江戸期から商人の町屋が軒を連ねていた」ともあるので全く何もなかったというわけでもなさそうだ。いずれにせよ、今の渋谷の様子からは想像もできないくらい田舎な風景だったことは間違いない。

明治20年代に在京軍事施設の西部移転が進み、代々木練兵場の新設が計画されたとあるので、道玄坂周辺の整備は軍が関係しているだろう。このあたりは、陸軍大学校、兵営、刑務所がある。渋谷区役所が立地する場所も、以前は陸軍刑務所だった。渋谷の道玄坂に、刑務所病院レストランというのがあるのだが、まあ、それは別に関係ないと思う。

都市化の流れが、目黒や渋谷にも及び、村の農地は住宅地や公共用地にかわっていった。それはこの地域に限らず、どの近郊の農村でも起こったことだった。

その後、目黒と渋谷の変化を特徴づける事件が発生する。それが大正12年(1923)の関東大震災だった。市内の職場と住居を失った市民は、避難先をとりあえず近郊に求めた。市の区部に隣接し、居住区として適していた目黒地域には、こうした市民が他のどこよりも多く居をおちつけた。農民として自分で耕して食べる村民よりも、市内に生活の礎をおく都会人の方がはるかに多くなった。大正15年(1926)には、東横線、目蒲線が開通し、いよいよ一帯は農村から大都会東京の住宅地として、急激に変化していった。

東横線が伸びると、沿線は年ごとに人口が倍増していった。渋谷・横浜間は農家が主であったのに、あっという間にサラリーマン世帯で埋め尽くされた。話が逸れるが、東急が日吉駅前の土地を慶應義塾大学に無償で寄付し、学生を呼び込むことで街を活性化し、鉄道利用客の増加を図った話は有名だ。僕の地元では、市内に三流未存在大学を設置し、若者の流出を防ぎ、地域活性化を図ろうと議論が行われた話は有名だ(?)。大学誘致は現在、どれだけ意味があるか不明だが、昭和4年(1929)時点では、かなりハイセンスな地域活性化策だったろうと思う。

(東急東横線日吉駅前)

戦後のことは資料を見ていないので、よく知らない。ただ、現在の街並みの元は明治大正時代に凡そ出来上がっていたんじゃないかと思う。そして、その元となる状況は自然環境が影響を与えていたのではないか。

もし農耕に適した土地だったら、農産業が根付いていたので、消費都市としての性格もなかっただろうから、今の東京、目黒・渋谷の街並みは異なる様相だったに違いない。こんなに賑やかな街になっていない可能性は十分考えられる。農業では稼げない地域だったけど、環境に直接影響されない産業が発達したおかげで、目黒も渋谷も稼ぐ街になった。それは、すべて自然環境がそうさせたとまでは言えないが、ある程度の影響力をもって長い時間をかけて現在まで連鎖した結果だろうと思う。

以上が、目黒・渋谷地域における、地質を元にした近世、近現代の街並み形成の僕なりのおおまかな理解だ。

自然と文化が意識的にか無意識的にか繋がる瞬間を確認した時、僕のまち歩きは奏功する。

東京は、一見カオスな街並みだけど、調べれば調べるほど現在の都市構造に至る理由が説明できる気がして、面白い。昔の面影などさっぱり無いようなところでも、昔を知るためのヒントが随所に隠されているのがわかる。かつての風景は、どうしてもこの目で見ることができないが、想うことはできる。

おわり



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