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FIREした男の話

今日、男はFIREすることにした。

男の銀行口座には、500万円ほどの残高があり、証券口座には評価額1億5000万円ほどの投資信託があった。

男は一人暮らしの42歳。

残りの寿命を仮に多めに50年間と考えると、家賃や生活費で必要なのは多めに見積もって月額30万円で、年間360万円が必要になる。これにさらに余裕を見て400万円と仮定する。

400万円×50年間だと2億円が必要になるので、あと5000万円ほどあれば望ましい。本来は現在価値に割り引くのでそこまでなくても良いのだが、実際割引率をどう設定するのかも難しい。また、将来のインフレ率がどうなるのかも読めるものではない。結局のところ、いくら考えても50年先のことなど分かるはずがないのだ。

いつまでも待っていたらFIREなどできるわけがない。だから今日、男はFIREすることを決心した。

男はいつもより早めに起きると、PCで会社所定の退職届をダウンロードして印刷し、必要事項を記入した。

書き終わると、いつものようにコーヒーを落とし、トーストを焼き、簡単な朝食をとった。そのあと、歯を磨き、ひげをそり、ヘアスタイルを整え、スーツに着替えて玄関を出た。

男が会社に着いてメールチェックをしていると、上司が出社してきた。

「ちょっとお時間よろしいでしょうか。」

と男は上司に言い、二人で会議室に入り向かい合わせに座った。

男は、退職届を出しながら言った。

「突然の話になりますが、退職いたします。こちらが退職届です。社内規程では30日前の届けが必要となっていますので、本日から30日後に退職となります。それまでは余った有給休暇を消化させていただきます。引継ぎ業務があれば1日、2日出社することは可能です。」と言って上司に退職届を手渡した。

上司は驚いた様子で、急な退職の理由を聞いてきた。男は「すみませんが、他社に転職することになったので」と適当な理由を言った。FIREするなどと言ったらかえって話がややこしくなりそうだからだ。

上司は「そうか・・・まあそれじゃ仕方ないよな。」とつぶやくと、分かったような分からないような表情をしながら退職届を受けとった。


次の日から、男は家じゅうの物を少しずつ捨て始めた。「こんなに多くの物を自分は所有していたのか」と驚くほどの量だった。

ほとんど身に着けていない洋服、靴、スーツ、大量の本やCD、余分な食器、なんとなく敷いているカーペット、タンス、テレビ、電気ポット、電子レンジ、体重計、置時計・・・男はそれらを毎日少しずつ処分していった。

部屋から物が少なくなっていくにつれて、男は自分の身体が軽くなっていくような感覚を覚えた。


そして、退職届を出してから7日目の朝、男はほとんど物がない部屋を見わたした。そこで長年暮らしていたことが幻想だったのではないかと思うほど、その部屋は違う世界に存在する部屋のように見えた。朝の光が斜めに差し込んで何もない床を照らしていた。


次の日、男は6時に起床した。トーストとコーヒーの朝食をとった後、家中に掃除機をかけてきれいにした。そして、外に出て1時間ほどゆっくり散歩をした。

散歩が終わると、男は近くの図書館に行き、古典文学を探した。迷った末、男はプルーストの『失われた時を求めて』を借りて家に戻り読み始めた。

12時になると、男はそばを茹でて食べた。その後軽く横になり20分ほど仮眠を取った。

その後、男はノートパソコンを開き、noteにアクセスした。そして、適当に思いついたことを記事にして投稿した。男の投稿する記事は「スキ」がほとんどつかない記事ばかりだが、男は別に気にしなかった。書くこと自体が好きだったからだ。

15時になると、男は近所の公営プールに行って、ひたすらゆっくり泳ぎ続けた。90分ほど泳いだあと、男は家に帰った。

帰り際に、男は近所のスーパーに寄って、エリンギとピーマンを買った。そして、家に戻るとエリンギとピーマンを炒めたパスタを作って食べ、牛乳を飲んだ。男は酒は一切飲まなかった。

夕食後は、借りてきた『失われた時を求めて』の続きをゆっくりと読んだ。

読書に疲れると、パソコンで株価や為替レートをチェックしたり、将棋のゲームをしたり、動画を見たりして時間をつぶした。

21時頃になると、男はゆっくりと風呂に入った。風呂からあがって髪を乾かすと、男はゆっくりと時間をかけて全身をストレッチした。

22時に、男は就寝した。

それ以降、男は毎日ほぼ変わらない生活を規則正しく送った。まるで哲学者カントのように。

変わったことと言えば、読む本が『失われた時を求めて』から『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』『白鯨』『源氏物語』『ル・グラン・シリュス』『モンテ・クリスト伯』へと変わっていったことくらいだった。

そんな生活を1年ほど続けた後、男は散歩中あるビルの前を通りかかった。そのビルの1階では、新しいオフィスがテナントとして入るため工事をしており、業者がデスクやイスなどの什器備品を運びこんでいるところだった。

そのとき、新しいオフィス特有の匂いが強烈に男の記憶を刺激した。

男はそのあと自宅に帰ったが、自分が何も読む気が起きないことに気がついた。

次の日、男は朝のラッシュ時に駅に行き、満員電車に乗った。

電車はいつも通り混んでおり、ぎゅうぎゅうと周りの乗客に押されながら、男はその圧力を懐かしく感じた。

次の日、男はデパートの紳士服売り場に行き、濃紺のブリティッシュスタイルのスーツを新調し、白いワイシャツと無地のネクタイ、ストレートチップの黒の革靴を購入した。そして転職エージェントに登録した。

男は、むしょうに働きたくてたまらなかった。

「この感情が今だけのものであることは分かっている。もしまた働きはじめれば、苦痛に満ちた生活になることも分かっている。でも、もはや今の自分にとっては苦痛のない今の生活こそが苦痛なのだ。そして、どちらの世界に属しようとも、苦痛からは逃れられないのだ。」

男は、エージェントからの連絡がくるのを待ちわびながらそう思った。




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